(9)



 おじいちゃんおじいちゃん、もしも目の前に吸血鬼と思われるものに人が襲われていたらどうしますか。助けますか。


「あああもう!」


 体当たりした私を、褒めてほしい。




 時はわずか数分前。いやいや数十秒前。

 早く帰るべく走り出して十分経ったところで、悲痛な叫び声を聞いた。明らかに、近くで。

 足を止めてしまうのは、人のさがだろう。

 私は、向けたくない目を声の方に向ける。ここで見てしまうのも仕方ない。


 道路の向かい側に、見たくない光景があった。


 黒いものが、男性に覆い被さっていた。黒の合間からは、男性の強張った顔が見えた。

 首の傷が、疼いたような気がした。

 さっき、大きな声を出していたはずの男性は、もはや声を出していない。出せない、のだろうか。

 恐怖ゆえか、それとも物理的に不可能な他の理由があるのか。

 目が離せなくなっていた私は、その男の人と目が合ってしまった。投げ出されている手がこちらに伸びるようにして、浮く。


 しかし、私の身体は固まっていた。

 なぜなら、覆い被さっているものが何だか、すぐに分かったから。

 そして、何をしているのか、何をされているのかが分かったから。


 でも、目が、手が私に訴えてくる。

 死にたくない、と。

 私は少しの躊躇をした後に、歯を噛みしめ、腹をくくって走り出すことになった。





 私の渾身の体当たりは、大した影響は与えなかった。

 むしろ、吸血鬼と男の人のちょうど間に向かってぶつかりに行った私の身体の方が、かなり痛む。

 ぶつかった衝撃で、よろめきそうになった。

 それでも一つ出来たこととすれば、鋭い牙が男の人から離れたこと、かな。


 体当たりをした私は、勢い余って男の人と黒いもの……吸血鬼との間に入ってしまった。

 正直に言おう。そこまでするつもりはなかった。

 だって、私の今日の業務は、何十分か前に終わっていたのだ。

 仕事以外では一般人、なんて、割りきれればよかったのに。だけど、あんな目で見られては、私だって見過ごせない。


 吸血鬼と至近距離で向き合うことになってしまった私は、また固まる。いや、動けなくなった。

 頭は真っ白だ。

 私は動けない。前の吸血鬼も動かない。

 実際は数秒だっただろうが、頭が真っ白な私には数分にも思えた沈黙のあと、後ろで重い音がした。

 背に触れていた、吸血鬼に掴まれていたはずの男の人がいなくなった。吸血鬼が、手を離したのか。


 地面に落ちて、頭であれどこであれ打ったはずなのに、うめき声すら聞こえてこない。

 ……考えたくはないが、手遅れだった、とか?

 その場合、私が飛び込んだ意味は。

 気絶しただけだと信じたい。頼むから生きてて。その人が逃げてくれないと、私もここを離れられない。

 ……私が後で離れたら、その時点で、私は獲物に決定だろうか。


 そしてここで、私は自身の失敗を実感していた。

 このあとどうするか考えていなかったのだ。考えられる暇なんてなかった。

 たらり、と、汗が顔を伝う。


「……う」


 突如、吸血鬼が、口を開けた。

 血に満ちたにおいがした。さらに、鋭い牙から垂れた赤黒いものが、ぽたりと私の顔に落ちる。

 びくりと震えながらも、動けない私は、闇とは違う黒の中で、異様な光を放つ目に射ぬかれていた。

 赤い目。吸血鬼の目。レイジさんとは、違う目だ。


 その赤い瞳が近づいたかと思うと、首に何かが当たった。熱い息が、肌にかかった。

 吸血鬼が身を屈め、私に覆い被さっていた。


──まずい、これは


 まずい。私は、血を吸われ、殺される。


「……ああ」


 ビクリッと私は盛大に震えた。

 息が首にかかる。首から、震えが全身に走る。

 

「この匂い……ああこれか」


 ますます身体を緊張させていく私の耳に直接に入ったのはそんな言葉。低く響く、囁くような声。

 声は耳に入ったが、何を言っているかまでは理解できる状況にない私はひたすらに、『そのとき』が来ることを待つ身でしかない。

 いつ、その牙を突き立てられるか。息遣いを感じ、意識は研ぎ澄まされて──


「――!?」


 呼吸の手だてを奪われた。

 気がついたときには、首を絞められ、とっさに抗おうとした手は、首に巻き付く手を剥がすことなどできなかった。

 苦しくて、苦しくて。

 予想外の出来事を、理解することなどままならないまま、意識は薄れていった。

 次、目を覚ませるだろうか。


 吸血鬼が、少しは配慮して、手加減してくれたことを願う。首なんて簡単に折ってしまえる吸血鬼の手にかかれば、普通に考えると、私は一生目を開けることはないだろうから。


 というか、目が開けられたら、全部夢だったらいいのに。









 声を元に走り、レイジがそれらしき場に着いたとき、そこには誰もいなかった。

 地面に、小さな血溜まりがあるのみ。

 逃げたか。

 吸血鬼の姿がないことに小さく舌打ちをし、レイジは血溜まりに近づく。

 血は乾いていない。


 ──と、血溜まりを見て、違和感に気がついた。

 なぜ、血溜まりだけが残っているのか。


 これまで、死人が出ていなかったときも、死人が出始めたときも、被害者の身体が持ち去られることはなかった。

 吸血鬼は、血を吸うだけ吸って去っている。

 さらに言えば、血溜まりも出来ていたことはなかった。


 だが、声からしてこの辺り。いや、絶対にここにいた。

 派手に散っている血を不振な目で見ていたレイジは、地面に大きさの不揃いな点が続いていることに気がつく。

 近くのみではなく、目で追えば、もっと先までと分かる。どこまでか。レイジの見える範囲では、ずっと先まで続いている。


 ……罠か? 

 そんな考えが頭を過る。が、そんなことは関係ないとすぐに消す。

 罠であれ、罠でなくとも、レイジはその跡を追うのだ。吸血鬼がその先にいる可能性が十分にある限り。


 しかしこの場に姿がない以上、一度今の状況を他に伝えようとレイジは考えた。

 ──考えたが、伝える手段がないことに気がついた。自らの通信機は、先程の吸血鬼との戦闘の最中に落とすか何かして、ない。そのあと連絡に使った通信機は……フェイに投げた。


 自分がしたことなのに、舌打ちしそうになり、ないならないで仕方がないと気を取り直す。

 結局、報告せずに、地面の上に不規則に続く血の跡を目で追いながら、辿りはじめることになった。

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