(8)



 六年前、レイジさんは手を引いて、たくさんの視線を遮り、私を連れて帰ってくれた。

 彼はぶっきらぼうだったけれど、おじいちゃんのことをよく知っているということの他、何となく怖くなかった。

 レイジさんは、おじいちゃんが死んで頭の中がぐちゃぐちゃだった私に、いつも手を伸ばしてくれた。まるで、以前からそうしていたかのように。

 「ハル」と呼ばれることはとても心地がよくて、彼の傍はとても安心した。


 でも、二年前、私の手を離したのも、レイジさんからだった。









 目が覚めたとき、目に入ったものが連続で白という漠然とした色だったから、ここはあの世かな、と思ってしまった。

 だって最後の記憶が記憶だ。

 しかしながら、身体の痛みで違うと分かった。

 あの世なんて考えてしまったことは、口が裂けても誰にも言わない。絶対笑われる。


「……生きてる」


 喋れてる。動ける。

 ぴくりと指が動かせたことを、真っ白な天井を見たまま、ぼんやりと認識した。


 私は生きているらしい。

 あの絶望的な状況から、生きのびることができた。


 右肩と背中にじわりと痛みを感じるが、覚えている痛みからすれば微々たるものだ。

 これくらいで済んでいるのは、痛み止めとかいう種類の薬でも打ってくれているのか。

 横たわっているベッドの四方は布で囲まれていて、視覚情報が乏しい。けれど、病院だということは察せた。


 とりあえず肩と背中、この二つに比べれば、擦りむいたらしく手当てが施されている顔の傷と手の傷なんて、痛みには入らない。

 身体を起こすと痛みが増えるが、たいしたことではない。

 絆創膏つきの手のひらを、何となく浅く開いて閉じたりを繰り返す。


「おぉ……」


 五体満足で生きている。

 肩は怖いから動かせないけど、生きている事実の、何度目かの認識に至る。


 と、布が引かれて誰かが入ってきた。


「レイジさんだ」


 レイジさんだった。

 最後に通信機取り落とす前に、リュウイチさんが言っていたことを思い出した。

 もしかして、もしかしなくとも助けてくれたのはこのひとだろうか。


 けれど、私が怪我なんかしたりしたら開口一番「馬鹿か」とか言ってきそうなレイジさんの様子が、雰囲気が──違う。

 笑うどころか、お礼を言うことをさえはばかられる。

 言い表すと、とてつもなく固い空気だ。


 ベッド脇に来た彼は一枚、紙を落とした。

 ひらり、と紙は、私の膝上の位置の毛布の上に落ちる。


「何ですか、これ?」

「細かい手続きくらいは俺が取ってやる、だから辞めろ」


 辞め、ろ?


「――嫌だ」


 考えるより先に、口からついて出た。

 紙を見る前に最後の単語だけを理解して、反射的にレイジさんを見上げると、真顔で淡々とした口調で言われる。


「いいから辞めろ」

「どうして」

「お前、死ぬぞ」


 重い、重い言葉だろう。「死」とは。


「今回で分かっただろ。俺が行くのが遅れてたら、お前は確実に殺されてた。次があると思ってんな、ここで辞めろ。じゃねぇと近い内に死ぬぞ」


 やっぱり、レイジさんか。

 状況違いにも確信した。

 また助けてもらったのか。そのお陰で生きていられるのか。それでまだこの人の前にいられるのか。こうやって言葉を交わせるのか。

 迷惑をかけ、それでも。


「辞めない」

「あ?」

「……死んでもいい」


 ぽつりと溢したのが、引き金だった。


「──ふざけたこと言ってんじゃねぇぞ!」


 怒鳴られた。

 これだけの怒気が込められた声ははじめてで、びくりとする。

 けれど、これだけは譲るわけにはいかない。辞める気はない。どんなことがあっても。

 ここで辞めたら、並大抵の後悔では済まないと知っている。


「ふざけてない」

「死んでもいいだ? ふざけてんだろうが」


 負けじと逸らさぬ先には、今や険しい顔がある。


「黙って辞めろ」


 それしか言うことがないみたいに、繰り返される言葉は、一番聞きたくない言葉だ。

 私は首を真横に振る。


「絶対辞めない」

「辞めろって言ってんだ。お前は無理して現場にいるほどの人材じゃねぇ」

「わかってる」

「何でそこまで意地になる、もう充分だろ。いいな、それに名前だけ書いてろ」


 それなのに、レイジさんはそれだけを言い捨ててこっちに背中を向ける。出ていこうとする。

 向けられた背中逸らされた目。

 これが、私にとっての引き金だった。


「――待っ、……った」


 伸ばした手は、開いた距離からして届かない。

 前のめりになって、ベッドから転げ落ちた。とっさに覚悟したよりも身体に衝撃が響いて、大きく顔をしかめる。

 

「お前何してんだ、大人しく……」


 これだけは幸運か、レイジさんが、落ちて痛みに顔をしかめている私のところに戻ってきてくれた。

 だから、何より先に彼を掴む。捕まえる。


「充分じゃない……っ!」


 首を振る。何度も振る。

 違う。

 私がここにいる理由、とてもずるくて不純で汚い理由がある。

 ひらりと遅れて滑り落ちてきた一枚の紙が目に入り、


「こんなもの絶対書かない!」


 ぐしゃぐしゃに握り潰す。


「死んだっていい……!」


 足手まとい。特に今回のような事件ではなおさらに。

 知っている。


 でも「充分」ってなに。「充分」って、何が。

 私の理由に当てはめるなら、それは「不充分」だ。

 死にたいわけではない。生きていたい。でも、生きているなら――。


「でも、だから、だから、それまで生きるなら、」


 唇が震えて、声まで震える。


「生きるなら、レイジさんの近くがいい……!」


 珍しくも、レイジさんはとても驚いた顔をした。

 けれどすぐによく見えなくなってきて、私は手の甲を目に押しつける。

 片方の手は、絶対にレイジさんを離さない。もう片方の手だけでおさえる。


 止まれ。

 出てくるな。

 私は泣かない。


 しかし一度出てきたものはどうしようもなくて、止まらなくて、鼻をすする。

 小刻みに震えて止まらない唇を噛む。

 ぐっちゃぐちゃ。何もかもがぐっちゃぐちゃだ。


「お願いレイジさん……近くにいさせてよ、何でどこかに行っちゃうの、私レイジさんの近くがいい……」


 ――どうして、遠ざけようとするの。


 二年前は「じゃあな」って言って、それっきり。今日は「辞めろ」の一点張り。

 どちらも、私がレイジさんから遠ざかる言葉ばっかり、一方的だ。

 そしてまた、背を向けられ離れていく。

 それがひどく悲しくて、どうしようもなくなる。


 言えなくて、勝手に志願して入って以前のような心地よさがあったから、それで満足して言えなかったことをぶちまけてしまった。


「お前」

「辞めたらもう、レイジさんに会えない……」


 組織の建物は大きくて広くて、たびたび来ていてもレイジさんに会うことはなかった。一回もなかった。


「だからって……なんで危ないところに飛び込んできた」

「だってこれ以外思いつかなかった!」


 四年毎日一緒にいたわけじゃない。でも一緒にいた。

 けれど、離れてみると、私はレイジさんのことを全然知らなかった。探すあてがなくて、思い知った。


 もう手を伸ばしてくれなくていい。離されるのが怖いから。

 勝手にいる。結果死んでしまうときが来るのかもしれない。

 それでも、どこかが空っぽのまま生きているよりずっといい。


「ごめんレイジさん、ごめんなさい、でも、私、……私、レイジさんに辞めさせられても戻ってくる。絶対戻ってくるから意味ないよ!」


 言い切ってやる。もう決めた。随分前に決めた。

 レイジさんに言われる筋合いはない。

 理由はどうであれ、合法的に傍にいるのだから。


 強く目をこすってから力強く拳を握って言うと、レイジさんは、眉をこれでもかっていうほど寄せていた。

 私も眉を寄せて対抗する。目力は負けるけど、根気では負けない。


「……俺が辞めさせても戻ってきて、現場で死んでも、それでいいってのか」

「悔いなし!」

「ふざけんな」


 明らかに覇気が劣る声で言われた。

 頭が痛いのだろうか。そんな顔をしている。


「ああお前がジジイに似てるって、こんなだって忘れてたわ」

「え、私おじいちゃん似? いやまあお父さんもお母さんも知らないけどおじいちゃん似はちょっと遠慮したいなぁ」


 ますますレイジさんが頭痛そ……ではなく、なんでかため息をついた。


「うわ」


 黙ってレイジさんを見ていると、いきなり抱き上げられた。たまらず手をついたら、肩だった。

 すぐ近くに、同じ目線に、レイジさんの顔がある。

 頭が痛そうな顔はなくなって、表情は真剣なものになったけど、来たときみたいな怖い感じではない。


 赤い瞳が、真っ直ぐこっちを見ていてとても真剣だったから、私も見返す。

 十秒くらいか、時が流れて、動いたと思うとベッドの上に降ろされた。


 私は、レイジさんが離れていくのではないかと思って腕のあたりの服を捕まえる。

 けれど、レイジさんはどこかに行こうとしなかった。すぐそこに浅く腰掛け、静かに口を開く。


「俺はな」

「はい」

「俺はお前を守ってやれねぇぞ」

「いいよ。それがレイジさんの仕事じゃないから」

「同じようには戻らない」

「うん、だって私もう高校生だから、自活できるよ。成長した。レイジさんに会えればいい」


 別にそういうことが目的で来たわけじゃない。レイジさんに会えなくなるのが、嫌だった。

 赤い目が細められた。


「馬鹿か、お前は」

「えっ失礼な頭使ってる」

「そうじゃねぇよ馬鹿が」


 馬鹿、のところに力が込められ、頭に手が重く乗せられる。

 この手だ、とこんなときにも懐かしくなる。


「いいかお前、死ぬなんて今後一切言うんじゃねぇ。殴るぞ」

「え、絶対痛い」


 思わず頭を擦りたくなる。が、頭の上に重たく乗せられている手に力が込められ、もっと重くなる。

 赤くて、どこまでも深いような色の目の視線も重く、同じく声も深く、響いてくる。


「いいかハル」


 名前を呼ばれたのは、二年ぶりくらいだった。

 いつも、「ハル」と呼ばれた日が遠かった。

 驚くほど、その声で呼ばれた名前が耳に馴染み、染み渡ってくるのを感じる。


「死なせねぇから俺の目が届く範囲で生きてろ」

「──うん」


 私は心の底から笑って、でもたぶんぐちゃぐちゃの顔のまま返事した。






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