母の背中を息子は追う

第44話 無力な自身が腹立たしく

 ――声が聴こえる。


「……うにか、峠は超えた」


 ぼんやりとした彼の意識を、耳によく馴染んだ女の声がそっと包み込む。

 心安らぐその声の主は、一体誰だろうか。


「……めて、意識が回復するまでは、傍にいてやりたいが」


 誰かに優しく手を握られているのを感じる。まるで、祈るように。


「……の事態も想定した方がよいじゃろう」


 この手の温もりには覚えがある。

 そうだ、あれはいつだったか、風邪を引いて寝込んだとき。ずっと傍にいてくれた人がいた。

 あのときと同じ柔らかな感触だ。


「……う二度と顔を見れぬかもしれぬが」


 握られていた手が、名残惜しそうに離れていく。


「……れぐれも、安静にしておるのじゃぞ、真之」


 頼む、行かないでくれ。

 彼は手を伸ばし――


 ………………。

 …………。

 ……。




 そこで、彼――真之は、深い夢の底から現実世界へと帰還した。


「……ここは」


 しつこく眠気がしがみついてくる中、眼球を動かして周囲を見渡す。自分が清潔な白いベッドに寝かされていることを知った。入院着を着せられ、右手には点滴の針が刺さっている。電灯によって照らされる小ざっぱりした部屋、棚の上に置かれた小さなテレビ、それに窓際に置かれた日本人形。


 日本人形?


「やっっっと目が覚めたか。おっせえよ!」


 日本人形が両手を上げ、幼女の声で口汚く罵ってくる。一瞬、唖然とした真之だが、次第に意識がはっきりしてくるにつれ、名前が脳裏に浮かんできた。


「ハヅキ、さん……?」

「ああ、そうだよ。それとも、しゃべる日本人形にオレ以外の知り合いがいんのか、お前?」


 ハヅキはふんぞり返りながら言った。真之は自分の置かれている状況が上手く飲み込めず、遠慮がちに問いかける。


「あの、ここは?」

「見りゃ分かるだろうが。病院だよ、病院。何も覚えてねえのか?」


 そうなるとここは病室、しかも個室を割り振られたらしい。

 真之は上体を起こそうとしたが、激痛が強力な電撃となって胸や腹を駆け巡った。思わず顔を歪め、息を荒くする。


「ぐっ!」

「おい、無茶はよせ。お前、銃弾を大量に浴びたらしいじゃねえか」


 銃弾。その単語を聞いて、真之の記憶処理能力が徐々に復活する。


「そうだ、道内先輩に撃たれて……先輩がどこにいるかご存じないですか?」

「知らねえよ。こっちが聞きたいくらいだ。あの女が派手にやりやがったから、何もかもメチャクチャになってるんだよ。あいつ、神柱護衛官のフリをして、礼賛神徒だったんだぜ」


「先輩が、礼賛神徒」


 苛立たしげに語るハヅキの話を、真之はにわかには信じられなかった。芹那とはそれなりに付き合いが長い。彼女が警察官として日々、街の人々のために尽くす姿を見てきたし、神柱護衛官に推薦されたときに見せた、嬉しそうな笑顔も覚えている。あれらが全て、嘘だったというのだろうか。


 ハヅキは、人形の両腕を組みながら言う。


「オレが頼まれた役目は、お前に事情を説明することだ。まず、お前があの女に撃たれてから、三時間くらい経ってる」


 ということは、今は午後一〇時から一一時といったところか。真之は、ハヅキの後ろに存在するガラス窓を見やった。夜の秋空は昼間と変わらず雲に覆われているらしく、月明かりも星も見えない。


「お前が眠っている間に、色々とあったんだぜ。あの女が率いる礼賛神徒が白鱗神社に押し寄せてきて、護衛官や警官を皆殺しにして。紺様が駆けつけてくれたが、あの女が結衣を拳銃で撃って逃走。おまけに、大和を拉致してな。紺様がすぐに治癒してくれたおかげで、お前と結衣はどうにか一命はとりとめた」

「そんな」


 大和が礼賛神徒に拉致された。この街にとってあまりに重大な事件だ。

 驚愕で三白眼を見開く真之の顔を見て、ハヅキは傍に置かれたテレビのリモコンの電源ボタンを押した。


「驚くのはまだ早え。こいつを見な」


 テレビの画面に映し出されたのは、火の海に包まれた街の光景だった。それも、志堂市の住宅街だ。ようやく復興を遂げたばかりのビルやマンション群が、無残に倒壊して潰されている。市民達が悲鳴をあげながら逃げ惑っていた。

 その災害を生み出しているのは、ビルをなぎ倒す一体の巨人。真之の脳に深く刻みつけられた、あの化け物である。


『御覧ください、巨大な怨霊が街を破壊していきます。これは、CGや映画などのフィクションではありません。一〇年前に現れた巨人が、再び暴れまわっているのです! 現在、志堂市の現場周辺区域に避難命令が出ています。住民の方は――』


 若い女性リポーターが、生中継で現地の惨状を伝える。


「結衣が拉致されたのとほぼ同じタイミングで、市内各所の『楔』の施設が全て爆破されたらしくてな。封印が解けて、奴さんが目覚めやがった」


 ハヅキの説明に、真之は一瞬呆然とした。


『楔』を破壊したのは、礼賛神徒の仕業で間違いあるまい。大規模なテロ計画を一気に発動したのだ。完全に彼らにしてやられた。


「怨霊が復活したということは、『鍵』は完全に開けられたのでしょうか」

「いや、今は結衣がどうにか持ちこたえてるおかげで、怨霊はまだ完全に力を取り戻したわけじゃねえらしい。だがお前も知っての通り、元々結衣は、大和の補助がなけりゃ、『鍵』を締めることができねえ。今回は『楔』が破壊されて封印の半分が解けているから、怨霊が内側から封印を無理やりこじ開けようとしているらしい。龍神様は一〇年前の霊災で、『鍵』を締めながら霊穴を制御し、再封印した。龍神様でさえ、それで無理したせいで死んじまったんだ。結衣の力じゃ、そんなことはできねえ。『鍵』が完全に開くのを遅らせるのがやっとなんだよ。おまけに、あいつはつい数時間前まで死にかけだったんだ、体力がいつまで持つか」


 もどかしげにハヅキが手元のリモコンを何度も叩く。自分には何も手伝えないことに、無力感と苛立ちを感じているのだろう。双子の友として、せめて傍にいてあげたいだろうに、真之のためにここにいてくれている。


(結衣さんが苦しんでいるのに、俺は何の助けにもなれないのかっ。彼女をお守りすると言ったくせに、神柱護衛官が聞いて呆れる!)


 真之は情けなさを通り越して、己の無能さに腸が煮えくり返りそうになった。テレビの画面に映る怨霊の姿を横目で見ながら、硬い声で問う。


「紺は、怨霊のもとへ行ったのですか」

「ああ。お前と結衣を治癒した後、病院を出ていったよ。オレがここにいるのは、紺様に命じられたからだ」


 真之の耳に、先日の須藤の発言が蘇った。


 ――五〇〇年前の霊災を記録した書物を読んだのですがね。そのときの貴方は、妖力の源たる尾を五本持つ大妖怪だったという記述がありました。ですが、一〇年前の霊災では、四本しか確認できませんでした。怨霊に対抗するために妖力を失い、五〇〇年かかっても四本までしか再生できなかったようですね。今はどうです? たった一〇年では、ほとんど回復できていないでしょう。そんな有様では、仮に次の霊災が発生したとき、あの強大な怨霊を止めることができるのですか?


 そうだ。今の紺では、怨霊の進撃を食い止めるのに力が足りない。

 彼女が大変なときにこのザマとは! 真之は歯ぎしりしながら、自分の身を預けた柔らかな敷布団に拳を叩きつける。……いや、待て。諦めるのはまだ早い。今の自分にも何かできることはないか?


 彼は必死に自問自答してから、ハヅキに質問をする。


「結衣さんはどちらに?」

「この病院の最上階、VIP用病棟にいる」


 真之は、身体を突き破りそうなほどの激痛を無視しながら、無理やりベッドから上体を起こした。入院着が乱れるのにも構う余裕がない。ベッドの脇に置かれたスリッパを履き、息を荒くしながらフラフラと立ち上がる。


「おいおい、その身体で結衣に会いに行くつもりかよ?」

「それもありますが、自分の同僚達が傍にいるはずですので、彼らからも詳しい情報を聞くつもりです」

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