幕間

第42話 とある半神の半生

 一人の半神について語ろう。


 彼女の名前を、B一三九という。

 その名を与えたのは、彼女の親ではない。白衣を身に纏った科学者達だった。

愛情を込めて与えられたわけではない。ただ、生まれた順番に割り振られただけだった。

 彼女がその名前を疎ましく感じたことはない。そういった思考ができるような、人間らしい教育を受けていなかった。


「今日こそは上手くいくはずだ」


 科学者達は毎日のように、偏執的な眼を光らせながら彼女の前に現れる。その手に構えているのは、注射器。その細い針が彼女の腕へと突き刺される。針の痛みは大したことではない。問題はその後だ。針を通して体内の血管を駆け巡った薬物によって、全身が焼けるように熱くなる。あるいは、ナイフで全身を切り刻まれるかのような激痛に襲われる。逃げようにも、四肢に鎖がつけられて動きを封じられていた。彼女にできるのは、尿を漏らして血涙を流すことと、獣じみた絶叫をあげることくらいだ。


 彼女の他にも、科学者達のモルモットにされている仲間は大勢いた。だが、そのほとんどが、劇物にも等しい薬の過剰な投与のせいで、命を落としていった。その中で、彼女は随分と長生きしている方といえる。狭い檻に閉じ込められていた彼女は、隣の檻から悲鳴やうめき声が聞こえなくなったとき、仲間がまた一人死んだのだと悟った。


「どうして、上手くいかない。龍神の力をコントロールするには、何が足りないのだ」

「人の叡智さえあれば、神なんぞ跪かせられるはずなのに!」

「この失敗作どもがっ!」


 科学者達が腹立ちまぎれに彼女達を殴り蹴飛ばす。生まれて三年にも満たない彼女には、科学者達が話の内容が理解できない。理不尽な仕打ちに怯えた。


 彼女は人間の両親を持ちながら、胎児のときに神の遺伝子を注入されて生まれた。その結果、右眼は奇怪なまでに大きく醜い。幼児の外見でありながら身体能力は成人男子を遥かに超え、鋭い爪はコンクリートでさえ簡単に切り刻む。人間というカテゴリには入り切らない。かといって、神の域には到達できていなかった。

 その中途半端さを、科学者達は口汚く罵った。


「B一三九は現段階では成功例といえましょう。他の者達に比べ、力を上手く制御できている」

「制御できているといっても、力そのものは微々たるものだ。あの龍神や、その子である半神の双子とは、比較するのも虚しくなるほどの差がある」

「単独で霊脈に干渉できるほどの力もない。かといって、怨霊が復活したときの兵器としても使えん」

「やはり、あの半神の双子を解剖して、徹底的に調べ上げる必要があるだろう」

「そうしたいところだが、あの忌々しい狐の妖怪に睨まれている」

「いっそ、あの牝狐の細胞も採取できれば、対怨霊用の兵器を製造できるかもしれんのだが」


 科学者達は議論を重ねながら研究を続け、モルモット達を次々と使い捨てていった。その先に何を目指しているのか。そんなことは彼女にはどうでもよかった。


 彼女の中にあるのは、ただ一つ。

 ここから逃げ出したい。その生存本能だけだったのだ。


 ただひたすらに耐え続けること、数年。ついにそのチャンスが訪れた。


「早く火を消せ!」

「あいつを射殺しろ!」


 研究者達の混乱に満ちた怒号が施設内を飛び交う。

 モルモットのうちの一人が、薬の影響で暴走した。研究所は煙火に覆われ、研究者達がその対応に追われる。その最中、暴れまわるモルモットが、彼女の四肢に繋がれた鎖を引き千切った。それは、仲間を想っての行為だったのか、それともただ目の前にあるものを破壊したかっただけなのか。

 いずれにせよ、これを逃せば二度と機会は巡ってこない。


 彼女は、無我夢中で研究所を脱出した。どこを行けばよいのか、さっぱり分からない。追手から逃れるため、街を駆け回った。人の営みに溢れた外の世界に、圧倒されそうになりながら。


 食べるものについては、匂いに釣られて店を襲撃した。研究所で与えられていた餌とは、比べ物にならないくらいに美味かった。外の世界にはこんな豪勢な食べ物があるのか、とコンビニ弁当を手づかみで頬張りながら、眼を輝かせた。着るものはない。そもそも、服を着るという習慣のない彼女には、羞恥心もなかった。


 逃走すること、一ヶ月。

 夜の公園に潜んでいたところで、彼女は運命的な出会いを果たした。


「あら、あなた、どうしたの? こんなところで」


 偶然、傍を通りかかった少女に声をかけられた。歳は、一七、八歳くらいだろう。視界に入る人間全てが追手に見えていた彼女は、逃げるべきか、それとも殺すべきか迷った。その間に、少女が彼女の眼前でしゃがみ込み、持っていた菓子パンを差し出してきた。


「はい。お腹、空いているんでしょう?」


 彼女はしばし迷った末に、空腹に勝てずパンを貪り食った。


「その顔。あなた、人間ではないわね。神? それとも妖怪かしら」


 少女はそう言って、彼女の右眼を見つめた。少女に比べ、倍以上も大きな異形の眼。彼女は、それが他人と比べておかしいことにも気づかなかった。


「誰かに追われているのね。一緒にいらっしゃい。隠れる場所に案内してあげる」


 彼女には、少女の話の意味が理解できない。それでも、敵ではなさそうだと野生の本能が告げていた。

 そうして少女に連れてこられたのは、街の片隅にある古びたアパートだった。


「ここなら大丈夫。私達の隠れ家の一つでね。警察の追手も来ないわ」


 その一室には、誰も住んでおらず、誰かが生活していた臭いもほとんど感じられない。

 少女は彼女を床に座らせ、人懐っこい笑顔を見せてくる。


「私の名前は、道内芹那っていうの。よろしくね」

「?」

「せ、り、な」


 ゆっくりと声を区切りながら、少女――芹那は自分を指差した。そこでようやく、彼女は少女の名前なのだという理解に至った。


「セ、リ、ナ」

「そう。よく言えました」


 ボサボサに伸びた彼女の髪を、芹那が撫でてくる。不思議と、嫌ではない。むしろ、荒れ果てていた心に、少しだけ光が照らされたような心地にさせられた。


「あなたのお名前は?」

「……??」

「名前もないのかしら。だとしたら、何かと不便だし。じゃあ、私がつけてあげるわね」


 芹那は、小さな唇に人差し指をかけ、考え込む。やがて、表情に華を咲かせながら、両手を叩いた。


「ヒスイ。ヒスイなんてどうかしら」

「ヒ、ス、イ?」

「そう。それがあなたのお名前よ。よろしくね、ヒスイ」


 こうして、彼女はヒスイとして新たな生を進むこととなった。あの狭い牢獄にも似た研究所から脱出し、人が持つ温かさと安らぎを知ったのだ。芹那の澄んだ笑顔は、ヒスイにとって太陽にも等しく感じられた。


「こんにちは、はい」

「コ、コンニチ、ハ」

「はい、よくできました」


 その日以来、ヒスイは芹那に教育を受けることとなった。簡単な挨拶の言葉から、トイレで用を足す方法に至るまで。ヒスイは社会生活を送る上での基本的なことを教えられた。


 芹那は仕事で出かけることも多く、その間は彼女の仲間と称する人間が代わりにアパートを訪れていた。それらの人間に対して、ヒスイはけっして心を開こうとはしなかった。すっかり芹那に躾けられた彼女は、飼い主以外には尻尾を振らなかったのだ。


「どうするつもりだ、道内。こんなガキを拾って」

「この子の身体能力は、人間を凌駕しているわ。上手く手なずければ、これ以上ない鉄砲玉として使えるはずよ」

「確かに、大木を一撃で折るのを見たときは、腰を抜かしそうになったが。こいつを上手く制御できるのかね」

「それについては私が責任を持つわ。任せて」


 芹那が仲間達と何やら話し込んでいる様子を、ヒスイは首を傾げながら眺めるし

かない。難しいことは考える必要がなかった。

 時折、芹那の命令に従い、名も知らぬ警察官や神柱護衛官を襲って殺害することもあった。命を奪う行為について悩むことも、死者への哀悼もない。たくさん殺せば、芹那が褒めてくれる。それが嬉しくてたまらなかった。

 とにかく、芹那に付いていけば、間違いはない。そう信じて疑わなかった。


 それが、ヒスイの歩んできた短い人生だった。

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