第23話 半神と神柱護衛官(後編)

 そこへ大和が、結衣のつけている白いエプロンを、遠慮がちに噛んで引っ張る。


「キュ、キュイ~」

「あ、いけない、もうそんな時間? ありがとう、大和」


 結衣は大和の頭を撫でると、素早く立ち上がりエプロンを外した。その下に着ているのは、デフォルメされた竜のイラストが胸元にプリントされたトレーナーだ。結衣は襟元の乱れを正す。


「あはは、見られてると、何だか恥ずかしいなあ」

「もしかして、例の『鍵』の調節でしょうか?」


 軽く頬を掻く結衣に、真之は静かな口調で問いかける。


「うんっ。学校に行く前に、やっとかないと」

 健康的な白い歯を見せ、結衣は大和を抱き上げる。


「この『鍵』を扱えるのは今じゃ私達だけだから、サボるわけにもいかないし。責任重大だもんねっ」

「霊脈の鍵、ですね」


 大地に張り巡らされた霊気の流れ、霊脈における中心点が『霊脈の鍵』だ。それを制御できるのは、この地域においては龍神とその血を引く者だけである。龍神は、今はもうこの世にいない。ゆえに、双子にこの任を託されたのだった。


「さ、大和。いくよ」

「キュッ」


 双子は共にゆっくりと目を瞑り、結衣の額に大和の顔をそっと押し当てる。

 すると、穏やかな光が二人を包み出した。その神々しい光は、科学では作り出すことができない優しい空気を醸し出す。

 指先で触れただけでも壊れてしまいそうな、幻想を孕んだ姿だ。


 その様子を何も言わずに見守る真之は、どこからか大きな鍵が締まる音を聞いた気がした。


 やがて、光は小さくなり、ロウソクの火を吹き消すように消滅する。

時間にして、ほんの数分。


 真之は、瞬きもほとんどせず、その光景を目に焼き付けた。


「はぁ、はぁ……お疲れ様、大和」

「キュイ~」


 互いの顔を離した結衣は、その場に力なく座り込み、大和の背中をそっと撫でる。疲れた笑みを見せるその額には、珠の汗が浮かび上がっていた。顔色は真っ赤に染まり、蒸気が立ち上っている。激しく息の乱れたその姿はまるで、マラソンを全力で走り終えた直後のようだ。大和が労うように姉の頬を舌で舐めていく。

 何も知らない者の目には、ただ抱き合っていただけに見える光景。これこそが、この志堂市の平穏を続けるために重要な行為なのだった。


 すると、結衣が激しく咳き込み、口元を手で押さえる。赤々とした鮮血が、その手のひらにこぼれた。それを見た真之の脳裏に蘇ったのは、一〇年前、初めて会ったときの記憶だ。紺が「発作」と称していた、痛々しい姿。


「う、こほっ、ごほっ……」

「キュ、キュイ!」


 大和は慌てた様子で、テーブルの上に置かれていた布巾を咥える。そのまま目の前に差し出すと、結衣はすぐにそれで口元を隠した。


「ありがと、大和。くっ……」


 吐血は続き、真っ白だった布巾がすぐに血の色で染め上げられた。その間、真之は彼女の小さな背中を優しく擦ることしかしてやれない。しばらく安静にしていると、結衣の荒かった呼吸が次第に静まっていく。


 頃合いを見計らって、真之は労いの言葉をかける。


「お疲れ様でした。今ので、霊脈の鍵を締め直すことができたのですか」

「はぁ、はぁ……。うん。一日二回するのを忘れたら、とんでもないことになっちゃうよ。各地の霊穴に『楔』が打ち込まれているとはいっても、一番重要なのはこの『鍵』だから」


 結衣は血で濡れた唇を手で拭いながら答える。体力をかなり削られているのが見て取れた。


 結と大和が行なっていたのは、かつて龍神によって守られていた封印術の要だ。霊脈に存在する見えない鍵状の穴に、結衣が念力を注ぎ込むことで、緩みかけた封印を締め直す。約一〇〇〇年前、暴走する怨霊への対処法として、龍神はこの封印術を編み出した。各地に散らばった霊穴に、封石と呼ばれる石を設置し、霊脈を安定させたのだ。あの巨大な怨霊を霊脈の巣の中に閉じ込めた。


「すっごく昔にお父さんが、霊脈を使って怨霊を封印して、それ以来ずっとこの街を守ってきたんだもの。小さいころの私は分かってあげられなかったけど、お父さんはきっと大変だったんだろうなぁ。でも、お父さんは一〇年前に無理しすぎて……」

「当時の警察の捜査では、一〇年前の霊災が起こったのは、封石が破壊されていたのが原因だったようですね」


 封石はトラブルで機能を失っても、一つや二つ程度ならば封印を制御する龍神が一時的に負担を増やすことで、しばらく持ちこたえることができる。ところが破壊されていたのは、市内に存在する全ての封石だったのだ。封石を管理する各地の土地神も、何者かによって殺害されていた。それも一晩でのことである。結果、その日のうちに怨霊が復活してしまった。


「ですが、龍神――お二人のお父上のおかげで『鍵』の封印だけは破られずに済みました。今、こうして街が復興しつつあるのも、お父上とお二人のご尽力あってのものです」


 真之が慎重に言葉を選ぶと、結衣は小さな右拳を軽く握る。それは、偉大な父から受け継いだバトンを、けっして離すまいとするかのようだった。


「お父さんの作った封印術は、封石が怨霊の手足を縛る鎖になって、『鍵』は怨霊の心臓部を封じ込める最後の防波堤らしいの。『鍵』さえきちんと締められていれば、怨霊はその力を完全には復活させられないだって」


 逆にいえば、『鍵』の封印が解かれると、リミッターを失った怨霊が、各地の封印を内から強引に破ってしまう。さらに、『鍵』の制御は龍神親子にしかできない。ゆえに結衣と大和は、この地を守るためには最重要の存在であり、神柱護衛官のによる付きっきりの警護が必要とされるのだ。双子がこの神社で暮らしているのも、大地に張り巡らされた霊脈の関係で『鍵』の制御に最も適した場所だからである。そうでなければ、もっと警護しやすい立地の家に引っ越しさせられているはずだった。国としては苦渋の判断といえる。その分、現場を任された真之達の責任は重い。


(確か、一〇年前の霊災においては、龍神が破られた各地の封印を肩代わりした、と)


 真之は、自分の記憶の箪笥から龍神についての情報を取り出した。


 封石の鎖から力の一部が解放された怨霊に対し、龍神は残るたった一つの封印である『鍵』を守りきった。同時に、再度封印を施すために、瘴気の嵐で荒れ狂う各地の霊穴を塞いだという。紺は、その時間稼ぎに全力を注いだ。両者ともに、強大な怨霊の力を受け止めながらの、多大な負担だったはずだ。その結果、紺は妖力のほとんどを失い、龍神は妻子を残してこの世を去った。

 今の街の平穏があるのは、彼らのおかげなのだ。


 結衣は、深呼吸をして息を整えながら、自分のことを話す。


「半神だから、っていうと自分の未熟さを言い訳してるみたいで嫌だけど。お父さんと違って、私一人では鍵を制御できないんだ。だから、大和が補助して負担を半分肩代わりしてくれるんだよ。大和は一人だと鍵を制御する力を持たないらしいけど、私の力を増幅する力を持っているみたいで。だから、私と大和は二人合わせて一人前ってところかな?」


 先程血を激しく吐いたのは、肉体にかかる負担が重い証であろう。昔、真之が見たときの「発作」よりも、吐き出す血の量が増えている。それが一〇年間も続けられてきたのだ。誰にも代わってもらうことができない、重い枷だった。


「もしもお二人が、このお務めを何らかの事情でできなくなったとしたら……」

「うん。紺さんのお話だと、二、三日で封印が破れて、怨霊が復活しちゃうみたい。だから例えば、私が風邪を引いたりしても、絶対にこれだけはパスできないんだ。一日二回、朝と夜に欠かさずやる日課みたいなものかな」


 結衣の声には、軽い調子の中に強い責任感の響きを漂わせた。


「よろしければ、お水をお持ち致しましょうか」

「え、そこまでしてもらうのは……けど、お願いしてもいいかな。情けないけど、足に力が入らなくて」


 慌てた様子で真之の提案を断ろうとした結衣は、立ち上がるのも億劫なのか、結局頷いた。

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