青年時代
社会人となった真之
第19話 紺との穏やかな日常
――出会ってから一〇年の月日が流れ。
「真之よ、朝食ができたぞい」
住宅地の一角に建てられたマンション。そのうちの一室に、真之と紺は一〇年前と変わらず住んでいた。
「真之、母がサラダを食べさせてやろう」
親子は、台所に備えられたテーブルを挟み、向かい合う形で椅子に腰掛けている。窓ガラスの向こう側では、残暑を終えたばかりの秋の柔らかな朝日が小鳥達を連れてきた。
「真之、ほれ。口を開けよ。あーん」
鼻歌交じりで紺が伸ばしてきた箸を、真之は冷静に右手でブロックした。
「……紺。朝食くらい、自分で食べられる」
「もちろん、分かっておるとも。その上でやっておるんじゃ。ほれ、あーん」
「この歳で『あーん』は恥ずかしいと、何度も言っているだろう」
石でできた仮面のように無骨なその顔には、喜びや照れといった感情の色が浮かんでいない。鋭い三白眼は眼球が大きく、獲物を狙う肉食獣を思わせる眼光を放っていた。黒髪を短いスポーツ刈りに切りそろえているが、爽やかさを微塵も感じさせない。二〇二センチの身長は、ひょろ長い印象とは無縁だ。むしろ肩幅は広く、引き締まった筋肉が鎧となって、白いTシャツを内から圧迫している。
街ですれ違う者から、ヤクザの鉄砲玉と間違えられること、既に数百回以上。
今年で二一歳になった真之は、ドスの利いた声を紺に向ける。
「そういうことは、旦那か恋人を作ってやってくれ」
「かっかっ、何を言うか。ワシは、お主がいてくれるだけで幸せなんじゃよ」
一方の紺は、一〇年前と少しも変わらない美しさを誇っていた。
艶やかで長い金髪を後ろで束ね、つり上がったキツネ目は嬉しそうに細められている。薄桃色の寝間着は胸元がはだけており、朝っぱらから男を誘う濃い色香を醸し出す。真之が出会ったときから全く変わらず、二〇代前半にしか見えないほどに若々しい。人間と同じ形をした左右の耳には、自宅内であるにも関わらず、輝きを発するイヤリングがつけられていた。
紺の慈愛に満ちた眼差しを受け、真之は一瞬口ごもった。それから、素っ気ない平坦な声が発せられる。
「やめないと俺はこの家を出るぞ」
その言葉は、義母を黙らせる伝家の宝刀だ。対する紺は、雷にでも打たれたかのような表情を浮かべ、箸を右手からテーブルの上に落とす。
義理の親子として二人きりの生活を始めてから、それなりに長い月日を重ね。
紺は真之に対して、すっかりベタベタに甘くなっていた。
一人息子を大切にしようという想いは、真之もとてもありがたいと思う。とはいえ、その愛情がとにかく激しいのが問題だ。彼も最初は、「親子とはこういう距離感なのだろう」と受け入れていたものの、徐々に慣れると共に世間とズレていることに気づいた。
出会った当初に見せた落ち着きぶりとのギャップが激しい彼女だが、いつぞやの分身はこのような距離感で接してきた記憶がある。同居し始めたころに、「無理をして知的な大人を演じている」という本音を聞いたことがあるし、こちらが素なのであろう。
「なぬぅっ、真之よ。それは本気かえ!?」
「新しい『仕事』は、真夜中に出動することもありえるからな。自宅は仕事場に近い方がいいし、この家だと床についたあんたを起こすことになりかねん」
「ワシのことは気にせんでよい。じゃから、家を出るのはやめてたもれ」
紺は両手を合わせて祈る構えと共に、真之を上目遣いで見つめた。真之はこれに弱い。紺に潤んだ瞳でお願いをされると、NOと言いづらくなるのだ。さらに紺が両脇をしめると、寝間着から顔を出した柔らかそうな二つの果実が、ぶつかり合って揺れる。男からすれば、目のやり場に困る光景だ。
「それと、いつも言っているだろう。服はちゃんと着ろ」
真之がいくら注意をしても、この母親は全く懲りることを知らない。自分のしているポーズの意味に気づくと、先程から打って変わって悪戯っぽく微笑む。わざとらしく扇情的な流し目を送ってきた。
「なんじゃ、さてはお主、母の色気にドギマギしておるな? くふ、ワシとお主の仲ではないか、何ならもう少しサービスしてやってもよいぞ」
「慎みを持てと言っているんだ、俺は」
騒がしい朝食を終え、真之は歯磨きや髪のセットをする。その後は、自室に戻って着替えだ。クリーニングから戻ってきたばかりの黒塗りのスーツに袖を通し、首に締めたネクタイを直す。
机上に置かれたデジタル時計を見やると、午前六時半。そろそろ出かける時間だ。
自室を出て、玄関で踵を踏まないよう慎重に革靴を履く。その後ろには、見送りに来た紺が立っていた。
「じゃあ、行ってくる」
真之は玄関の扉をゆっくりと開けながら、挨拶を投げかけた。紺が名残惜しそうに手を振っているのを背中越しに感じる。そのまま扉を閉じて彼女の姿が見えなくなると、思わず苦笑と共に肩を竦めてしまうのだ。
(この家に住み始めて一〇年が経つが、我ながら進歩がないな)
同時に、その温いマンネリを心地よく感じているのも、また事実ではあった。
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