2F:彼らの流儀
《……――直線を向きます。⑮サタンマルッコ先頭で粘っている、後ろとは5馬身ほど。
内々を回って④番ミヤビヤマシタ⑩番コロモビスケッティなど鞭が入る。外を回っては②番ガルバルディが伸びてきている!
残り200を通過、先頭はまだサタンマルッコ粘る粘る! 後続との差は保ったまま!
残り100、大勢決したか、なんとなんとサタンマルッコ、2連勝でゴールイン!》
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「やー! よく勝ってくれたね高橋ジョッキー! この調子で次の青葉賞も頼むよ!」
顔なじみといえば顔なじみの、中川牧場長――即ちマルッコの生産者兼馬主の半農家、サダハルのご機嫌な笑顔に、サタンマルッコ主戦騎手高橋 義弘は引きつった笑みで応じた。
JRA転入初戦を快勝し、二戦目の500万下も5馬身圧勝。羽賀競馬とは雲泥の差の賞金を獲得した上、晴れてオープン馬となり前途の開けた現状に、一時は破産の影すらちらついていた馬主のサダハルが躁気味になるのも無理らしからぬ事だろう。
今夜はサタンマルッコの祝勝会。体重調整に苦心するジョッキーとて、このような祝いの場では酒も食事も進むものだが、高橋は陰鬱とした内心を表に出さぬよう苦心するばかりであった。
「センセイ、すみません。今日は俺帰ります」
礼を失さぬよう程ほどに酒と食事を摘み席を立つ。偶の美食も今日ばかりは苦いだけだった。何か言いたげな小箕灘の顔を見ないよう、そそくさと退室する。背後で牧場長の笑い声が響いた。俺が居なくても宴は盛り上がるから平気だろう、と誰にとも無い言い訳を呟いた。
関東とはいえ春先の夜はそれなりに冷える。やや冷たい風に襟を立てながらタクシーを捕まえる。酒でも呷りたい気分ではあったが、美味く感じないのは分かりきっていたので滞在中のビジネスホテルを行き先に告げた。
微かなエンジン音だけが響く静かな車内で高橋は己が内に潜む澱と向き合った。
地方競馬所属の騎手が中央で連勝。しかも地方の馬に乗って。
そうかそれは確かに凄い事だろう。近年地方競馬のレベルは上がったと言われているが、やはり中央の壁は高く、最新の調教施設で鍛え上げられた名立たる良血達の前に弾き返されている。そんな中順調に、どころか圧倒する地方馬サタンマルッコは羽賀の星と呼んでよいだろう。
で、お前は?
ネオンの向こうにぼんやり映る、酒焼けた目をした己に問う。
己は何であろうか。確かに羽賀競馬での新馬どころかデビュー前からサタンマルッコには乗っているが『乗っているだけ』だ。
高橋にとってサタンマルッコとは実に忌々しい馬だった。なにせ何一つ思い通りに動か
ない。最初のころはムチを打つ度に振り落とされた。調教師に苦言を呈すもなんとかしてくれと頼み込まれればやるしかない。妥協してムチを打たずに乗ってみれば言う事を聞かず。
これでは乗る意味がない。いや、むしろ体重の分だけ邪魔をしている。
邪魔をしなければいいのだろうか。その想いは確かにある。だが、それはしないと調教師と話し合って決めたのだ。例えレースで負けようとも、一度でいいからジョッキーの指示に従わせるべきなのだと。ジョッキーを省みぬ競走馬など大成できようはずがないのだ。
車が止まる。金を払って降車し気鬱な身体を引きずって部屋に戻る。そのままベッドへ倒れこめばもうシャワーを浴びる気も起きない。泥の様に思考の渦に飲み込まれる。
本来であれば、だ。
サタンマルッコはとっくに競走能力欠如として廃棄されているような馬だ。勝てず、育たず、そんな数多居るうだつの上がらない夢破れた競走馬の一頭だったはずなのだ。
だが勝っている。既に故郷に錦を飾る程の大金星を二つも。しかも次走はいよいよ重賞へ挑戦だ。ダービートライアル青葉賞といえばGⅡだ。その賞金たるや5着に入るだけで羽賀競馬のタイトル戦を上回る金額が手に入る。中央GⅡ。そんな大それた舞台に、あの訳のわからない馬に乗って、そんな大舞台を未経験の自分が走る。
誇るべきなのだろう。だが、それが恐ろしくて仕方が無かった。
夢を見る。それは羽賀競馬で連勝したころから漠然と、中央で勝ち上がってからは日を追う毎に明確な形となって現れる。
夢の中、己はマルッコに乗っている。芝のコース左回りの競馬場だ。4角を曲がりきり右手側は満員のスタンド。先頭を走る自分は歓声や罵声の津波をまっさきに浴びせかけられている。
その日もやっぱりマルッコは行きたがっていた。それを自分は抑えようとするのだが、
結局4角まで折り合わずに来てしまう。だけど仕方ない。この馬のことだからここからでも走るのだろう。そう思って首を押す。行け、とサインを出す。
けれどだんだんとマルッコは走るのをやめてしまう。どころか後方の他馬に追い抜かれる中、まるで底なし沼にはまったようにずぶずぶと身体が地中に沈んでいくではないか。
『お前のせいだ』
完全に地中へ沈みきった時、誰かがそう言う。
『お前がいなければもっと簡単だったのに』
或いはそれがマルッコの声なのかもしれない。
『お前には失望した』
それは小箕灘の顔をした何かが言ったように思えた。
『あいつさえのっていなけりゃな』
顔を知らぬ観客の誰かが言った。
『そうだ。使えない騎手は殺処分にしよう』
暗闇が突然首を絞める手に変わる。圧迫感にもがくが声も出せない。
『お前のせいだ。お前のせいで、お前さえいなければ』
やめろ、分かってる、役に立ってない事は、邪魔になっていることは分かっている。だからやめてくれ、そんなことは、分かっているんだ!
「…………――ぁぁぁあああああッ!」
夢はいつも、そこで覚める。
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「そうか。降りるか」
「すみません先生。すみません。すみません。俺には、無理です」
日に日にやつれていく姿を見ていて、いずれはこうなるのかもしれないという予感は確かにあった。小箕灘は高橋の肩を抱きよせ、叩く。
「辛かったか。すまねぇな、苦労かけて」
高橋は今年で二十五歳。騎手としては中堅よりやや若手に分類される年齢だ。羽賀の厩舎で仕事を覚え、羽賀競馬で騎手として生活していた男だ。いつかは中央で、という野望はきっと抱いていたはずだ。だがいざその『いつか』が来た時、想像を超えるその重さに
心が耐えられなかったのだ。
羽賀生まれの馬を羽賀競馬の調教師が育て羽賀の騎手が乗り、中央に挑む。
マルッコの中央参戦はそういう側面もあった。実際に中央転入の際、馬主の中川から中央の騎手への乗換えを打診もされたが説き伏せている。それが高橋の心に負担をかけ、こういった結末を迎えてしまった事には苦い思いが残る。泣きながら謝罪を繰り返す高橋を慰め、頑張ったな。とりあえず今日はもういいから休め、と帰らせた。
しかし――。
事務所に戻り名刺入れを手に取り、そこから一枚の名刺を取り出す。中央に転入してからめっきり増えた名刺の中に、その名前はあった。
小箕灘は戦慄を禁じえない。なるべくして成ったのか。それともあの馬が持つ、何か悪魔的な強運が成したのか。あの馬に関わる全てが良い方向に転がっていく。
番号をプッシュし、呼び出し音を待つ。
「ああ横田さん…………えぇ、はい。そうです。マルッコの騎乗依頼ですわ。次の青葉賞からお願いできますか」
横田友則。小箕灘はこの名刺を受け取った時の事を思い出していた。
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横田友則。
騎手暦28年のベテランで、日本近代競馬の隆盛と共に成長した騎手といって過言ではないだろう。獲得G1数28。海外重賞4。JRAの国内G1に限ればほぼ全てに優勝歴を残す名手。
しかしその名は畏敬の念より、JRA重賞二着102回の珍記録への親しみを持って呼ばれることのほうが多いだろう。
早い話が奇策の名手。騎乗も上手いが、より『競馬が巧い』タイプであるといえる。
大逃げからのスローペース。早仕掛けからの死んだフリでペース撹乱。向こう正面から
始まる長ロングスパート。『その馬はそれで勝てるのか?』観衆の誰もが疑問を抱くそんな時、彼は数々の大穴をあけてきた。
無論、沢山の失敗や凡走も繰り返している。いい所まで行って勝ちきれない、そんな事の方が多い。だからこそファン達は目を離せない。画一的な騎乗になりがちな現代競馬で異彩を放つ存在。それこそが横田友則だ。
キャリアも晩年を迎える彼には一つの目標があった。ほぼ全てのタイトルを網羅した彼だったが、たった一つ、たった一つだけ手にした事の無いタイトルがあった。
その名を東京優駿。日本ダービー。
そう、これだけのキャリアを持つ彼は、ダービージョッキーではなかったのだ。
過去14度挑み二着が5回。力の差のある二着もあれば、鼻の先僅かの差で破れた二着もある。彼の父、横田友助もダービー二着の経験はあれど優勝経験はない。
前例好きのメディアが『横田の呪い』と呼ぶこのジンクスは、現役最後、打倒すべき目標へと姿を変えていた。
G1ジョッキー列伝~横田友則~
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その日は次走の500万下へ向けての調整を栗東トレーニングセンターで行っていた。
業界関係者からは外厩がどうのというバッシングはあるものの、羽賀の訓練施設と比べてやはり広いと感じるし、細かな部分への気配り――例えば馬場までの道の両脇が木々で覆われていたりだとか――やスタッフ全体に感じる馬への意識の高さは、流石競馬の中心栗東トレーニングセンターであると小箕灘は感心しきりであった。良くも悪くも、調教後に頭絡と手綱だけで道路をウロウロさせていた羽賀とは違った。
スタンドから見る限り、マルッコはEコースの一周が長く横幅も広いダートコースを走るのは楽しいらしい。軽快に駆け回っている。今日は火曜日なので強めの調教は施さず、ストレス解消程度の運動だ。とはいえ、マルッコは基本的に運動量が多い。特に栗東に来てからは与えられる飼葉が増えたため(零細経営の厩舎の悲哀を感じずには居られない)これまでの分もと言わんばかりにモシャモシャ食べ、食べた分だけ運動している様子だ。そのおかげか、羽賀にいたころとは馬体も毛艶も見違えている。それは"これならば"という手応えを小箕灘に与えていた。
Eダートコースは一周2000m。次走の阪神競馬場を見据えて右回りに走らせているが、既に6周は回っている。駈歩(キャンター。人間でいうところのジョギングに相当)とはいえ、若干走りすぎな感は否めないが、無理に止めるとヘソを曲げるため、いつしか気の済むまで好きにさせるようになっていた。脚の疲労は毎日確認しているから問題は無いと思われる。大丈夫だ。たぶん、と語尾が泳ぐ程度の自信ではあるが。
「あの、小箕灘先生でしょうか」
「ン?」
声をかけられ双眼鏡から目を離せば、小柄な人好きのする笑顔を浮かべた男がいた。見覚えの無い顔。いや、どこかで見たような気もする。
「サタンマルッコを管理されている、小箕灘先生でよろしかったですよね?」
「あ、あぁ。はいそうです。私が小箕灘スグルです」
「あぁよかった。間違えたかと思いました。私、関東所属のジョッキー横田と申します。
一昨日の未勝利戦でゲットダウンっていう馬に乗っていました。小箕灘先生とはこれまでご縁が無かったので、ご挨拶に伺いました。よろしくお願いいたします」
ずいずいと前に来る横田に仰け反りながら、小箕灘は差し出された名刺を受け取った。
刺激された記憶野の金庫から顔と名前を取り出して、ようやく目の前の人物の正体を掴んだ。
「これはこれはご丁寧に。こちらこそ良いご縁を、よろしくお願いいたします」
道理で見たことがある顔のはずだ。名にし負うトップジョッキーの顔は、テレビや新聞越しにいつも見ていたのだから。
内心、何しに来たのだろうと疑問に思いながらも、染み付いた習性で名刺を取り出し差し出す。
「ご丁寧にありがとうございます。センセイは、今日はサタンマルッコの調教ですか?」
「まあレース後だし火曜日なんで疲労を抜く程度の運動ってところですがね」
「そうなんですか。どこを走ってるんですか?」
「Eコースですよ。ちょうど今正面に戻ってきてますね」
「……あ、いた! はは、楽しそうに走ってるなぁ」
「羽賀と比べてコースが広いからか、実際本人も楽しいみたいですよ。今日ももう6周してますし、この後もプールへ行きます」
「えっ、そんなに走らせて平気なんですか? というかプールもやるんですか?」
「ええ。あの馬は羽賀に居たころは調教の後はいつも海で泳いでいたくらいで」
「はー。なるほどぉ。だからあんなに息が長いんですね」
これは何か探りを入れにきているのだろうか。レースを見れば分かる事ではあるので、小箕灘は取り立てて隠すことはせずに答えた。
「丈夫がとりえの馬なもので、みっちりやって身体が出来てきてますよ。おかげで中央でいい勝負できるくらいの武器になりました」
「凄いですよね。普通の馬じゃ、あんな喧嘩してたら勝てませんよ」
「ハハハ、マルッコはずっとあんな感じですからねぇ。人懐っこい馬なんですが、走ることとなると途端に俺様気質でねぇ。なんとかしたいとは思っているんですが、どうにも」
厩務員のクニオを背に、マルッコは向こう正面へ駆けて行く。
「……サタンマルッコはダービーに出す予定で?」
「今のところ順調に進めることが出来たならってところですが、大目標としては」
「小箕灘センセイ」
遮るように、凛とした声だった。
「今年、僕、空いてます。いや、空けてあります。条件戦からでも、トライアルでも、いつからでも乗れます」
「……ワシは思うんですがね、これは羽賀の挑戦なんです。羽賀の馬に羽賀の騎手。そういう側面を意識してるんですわ。だから今のところヤネを変える気はありませんよ」
「いつでも構いません。必ず空けておきます。ご連絡、お待ちしてます」
果たして会話は成立していたのか。横田はそう言い残し去った。
横田の消えた先を見送り、小箕灘は頭をかいた。
「評価してもらってるってことで、いいのかねェ?」
トップジョッキーの一角が乗りたがっている。あのマルッコに。
その事実に、小箕灘はなんだかくすぐったい様な心持になった。
結局、小箕灘は横田が挨拶に来た話は誰にも伝えなかった。神経質になっている高橋には勿論悪影響であるし、中川牧長の耳に入ればまたうるさく言われる事間違い無しだ。
とはいえ、この出来事自体は小箕灘自身の中では小さく、次走への調整の中で次第に埋もれていったのだった。
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朝靄かかる栗東トレーニングセンター。須田厩舎の馬房を間借りしているチーム小箕灘も関係者が作り出す喧騒の一部となっていた。
「えっ、じゃあヤネ(騎手のこと)変えるんですか?」
「高橋も色々辛かったらしい。泣きながら侘びられたら、乗れなんて言えねェよ」
「そうだったんですか……あの、センセ。俺もマルッコの調教、ケッコーしんどいなぁなんて」
「甘えんなそれは付き合え」
「がっくし」
小箕灘とて栗東でマルッコに付きっ切りという訳ではない。羽賀の厩舎にも所属馬はいるので当然往復する生活になる。突き放した物言いとなってしまうが、まともなコネも殆どない栗東では、羽賀からマルッコに付いてきたクニオにやってもらうしかないのだ。
間借りで迷惑かけている以上、礼儀の問題として事務所前の掃除や飼葉の積み出しなどの雑務を二人でこなしながら、着々と調教の準備を進めていた。
「ブルル」
「あーはいはい待ってなマルッコ。検温終わったらな」
そんな二人を馬房の中から顔を突き出し、額に白丸輝くマルッコが見ていた。はやく餌寄越せといわんばかりに喉を鳴らしている。
クニオが馬房の中に入り、体温計を引き抜く。他の馬はそうでもないが、マルッコは検温するときだけ妙に大人しくなる。彼にはそれが少し不思議だった。
まぁ大人しい分には助かるからいいのだが、と今日の体温を記載する。熱発などもなく、問題は起こっていない。
サラブレッドは環境が変わるとすぐに体調に異変をきたす繊細な動物だが、ことマルッコに関してはクニオも小箕灘もあまり心配はしていなかった。この能天気な馬が居場所を変えた程度で怯えるとは到底思えなかったからだ。なんなら都心で暮らせるんじゃないかとすら思っている。
「お前もなぁ、走るの好きなのはいいんだけど、付き合う俺の身にもなってくれよ」
「ヒンッ」
やーだよーとでも言いたげに首を上げ下げしたマルッコの首筋を撫でつけ、馬房を出る。
マルッコの運動量はデビュー後の競走馬としては明らかに多かった。無論、引き運動にしても走りこむにしても、クールダウンにプールで泳ぐにしても馬だけでやらせるわけにはいかないので、調教助手も兼ねているクニオはその全てに付き合わなくてはならない。
「ほら見てみろよこの足。お前に付き合ってたらガンダムみてーになっちまったぞ」
必然、馬に付き合うクニオの運動量足るやアスリートの如く上昇し、人生最小の体脂肪率を記録していた。羽賀に居たころはトラックで運動した後、近くの浜辺で好きに遊ばせていたのでそこまででもなかった。ホースマンとして放し飼いのような真似はどうかとも思ったのだが、問題を起こしてないからよかろうなのだ。
見せられたふくらはぎに鼻先を近づけるマルッコは、やがてくせーとでも言いたげに鼻を鳴らして馬房の奥へ引っ込み、手持ち無沙汰なのか馬房の中をくるくると回り始めた。
「んで、誰が乗るんです? センセ」
一段落ついてペットボトルのお茶を傾けている小箕灘へ尋ねる。
「横田友則」
「へ? 横田って、あの横田ですか?」
「そうだよ。実を言うと、未勝利戦のあとすぐに営業に来てた」
「す、スゲーじゃないですか! うわーすげー! おいマルッコ! お前にトモが乗るってよ!」
名前を呼ばれ、なんだよーといった感じの表情のマルッコが顔を突き出した。
「どういう訳だか……いや、俺達はマルッコが強い馬だとは思ってるから何もおかしい事はねェんだが、向こうがそれはそれは乗りたかったらしくてよ。とにかく感触を確かめたいから暫く調教でも乗せてくれってさ。だからクニオ、今日から暫く乗りはやらなくてよくなるぞ」
「お、おおおぉぉ……二重三重の意味でトモさん救世主だ……」
「ともあれ時間だ。引き運動頼んだぞ。昨日と同じで2周、しっかりな」
「う、うへぇ……はぁい」
競走馬は準備運動として、犬の散歩のように手綱を持った人間と共に歩く。この時歩様(字のまま歩く様子)から怪我などの異変が無いかを確認する。
犬と違うのは馬の身体が大きいという点だ。そもそもの歩幅が広いので人間側はかなり早足で歩かなくてはならない。しかも必要とされる運動量も多いので、引き運動が終わるころには冬でもかなり汗をかく事となる。
実際のところ調教は引き運動の段階から始まるといえる。歩く事で鍛えられる筋肉と、走ることで鍛えられる筋肉は人間同様異なる。どちらかを疎かにした馬は必然的に怪我しやすくなる。競走馬の場合足の怪我は即命に関わる大事となるので、手を抜くことなどありえないと言える。
とはいえ、なまじ普段から運動量の多いマルッコである。引き運動の段階から他の馬より長く動く事となる。
小箕灘の言う2周とは、一周2000mのダートEコースを2周だ。それだけで4km。競歩のようなペースで砂地を歩けば人は元より馬でも汗まみれである。引き運動は厩舎の周りを使ったりと場合によって様々だが、歩く距離を考えてトラックを利用している。
「よしマルッコ。歩きに行くぞ」
「ヒンッ」
分かったような嘶きに、クニオの顔は綻ばされた。ホースマンはなんのかんのと言っても馬が好きだ。ましてや愛嬌のあるこの馬である。クニオに限らず、
「お、マルッコ。おはようさん」
「ヒンッ」
「マルッコ! 今日も元気そうじゃねえか」
「ヒーン」
「おうマルッコ」
「マルッコ」
「よぉまるいの」
「ヒヒィン」
すれ違うたびに声をかけられる。
控えめに言って、栗東のおじさんたちはメロメロだった。
汗だくで引き運動から戻ったクニオは厩舎の前に小箕灘と見慣れない人影を見とめた。
「お、ちょうどいいところに。おーいクニオ、こっちゃこい」
「なんだろうな?」
クニオは側のマルッコに尋ねてみるが、マルッコはしらないよとどこ吹く風だ。
厩舎の前まで来て見れば、人影は小柄な男性であると分かった。というより見たことのある顔だった。
「あっ! 横田ジョッキー!」
「おはようございます。次走で小箕灘さんのとこで乗らせて頂きます、横田友則です」
「おはようございます。やーマルッコ、ほらこの人が次のレースでお前に乗るんだぞー!」
ぺちぺち首を叩かれるのを鬱陶しそうにしながら、マルッコの瞳は見慣れぬ人物を見つめていた。
「以前見たときも思いましたけど、本当に丸い星ですね。可愛い顔してる」
面白そうに横田。
「地元でもこっちでも皆さんに可愛がって頂いてますよ。こいつ、本当に人懐っこいんで。ほらクニオ、こっち連れて来い」
小箕灘に促され側まで寄ると、マルッコが鼻をすぴすぴ鳴らしながら横田に顔を近づけた。
「ははは、本当に物怖じしない馬ですね」
幼い頃からサラブレッドと触れ合う横田も慣れたもので、突き出た鼻面や首を撫でる。一先ず触れられているので嫌われてはいないようだ。
「マルッコは香水が嫌いみたいでねぇ。匂いのする人には絶対近づきませんよ。まぁその代わり……あ、横田さんちょっとじっとしててくださいね」
「お、おおぉ?」
触れ合う程に近く、マルッコの身体がすれ違ったかと思うと反対側から顔が出てくる。まるで包むように身体をくねらせ旋回を始めた。
「マルッコのグルグルですね。気に入った相手にはこれやるんですよ」
「え、えぇ……? 何なんですかねこれ」
馬の巨体に包まれる未知の感覚に、横田はされるがまま棒立ちになりながら尋ねた。
「ワシらも分からんのです。まぁ、悪い意味は無いんじゃないかと。マルッコのやることですし一々気にしてたら切り無いんですわ」
「ははは……それにしても随分身体が曲がるんですね」
「身体は柔らかいですよ。乗り味も独特で、そこだけは評判よかったもんで」
「へぇ。楽しみだなぁ」
「じゃあ鞍乗せるんで、今日はさっき言ったようにCコースでお願いします。軽く追う分には構いませんので」
「はい。分かりました。よろしくな、マルッコ」
「ヒンッ」
「はは、返事した! 可愛いなぁ」
午前10時。攻め駆けするにはやや遅い時間のCWコースは人馬の影もまばらな模様だ。馬場口からコースに入った横田とマルッコは広く使えるコースをゆったりと駆け出した。
跨った瞬間に稲妻が走るだとかそういう異形の感触はなかったな、と横田は反芻する。そして歩くうち、やけに揺れない事に気づき、走らせた瞬間それははっきりと認識できた。
(この馬、身体が柔らかいだけじゃなくて、足も柔らかいのか。それに真っ直ぐ走るなぁ)
ウッドチップのコースをキャンター(駈足。人間でいうところのジョギングみたいなもの)
させているだけだが、乗り味の差異にすぐ気付かされる。
ウッドチップが散りばめられているとはいえ、硬い事には変わりない地面を蹴ればその反発は自然と硬くなる。それがどうだろう。まるでスポンジでも踏んでいるかのような柔らかい反動。これは確かに、独特と言われるだけのことはあると横田は感じた。
マルッコはいつもと違うコースが楽しいのかご機嫌で駆けている。爪先が踊り首を丸く使って振っている。人間だったら鼻歌でも聞こえてきそうだ。
気分よく走る馬だなぁと思いながらトラックを回る。馬の機嫌がよければ乗っている方も楽しくなる物だ。
2、3周すると背中がうずき出し始めた。小箕灘が事前に話していた通りの走りたがる兆候だった。
(こうなったら追っていいんだったっけ。ムチは厳禁。なるほど、これはなかなか技術が必要な馬だな)
騎乗技術も日進月歩。昨今では直線での追い込みでも極力鞭を使わない方が良いとされている。理由に鞭を打つ瞬間、騎手側のウェイトがずれる事が挙げられる。基本的に小柄な体格である騎手が体長2m半の競走馬の尻を騎乗しながら打つには、かなり大胆に身体をよじって腕を伸ばさねばならない。
ウェイトがずれると何故悪いのか。人間であれば中身の動く背負子を想像すると理解が早いかもしれない。つまるところ、競走馬の側へ追い込みの合図さえ出せればよい訳で、それが鞭でなくともいいだろうというのが話の骨子だ。
言うまでも無く難しい。横田自身も完全に体得できていると胸を晴れない技術だった。
(でも、この馬なら……)
ちょうど直線に差し向かう所だった。横田は手綱をしごき、軽く首を押してやる。
合図を待っていたわけではないのだろうが、ちょうど背中を押されて都合が良かったのか、マルッコはそれに反応して足の回転を速めた。
視界の端を景色が流れていく速度が上がっていく。全力ではないもののギャロップ
(襲歩。人間で言うところの全力疾走)のスピードと呼んで良いものに変わっていく。
(足の回転が速いし前足の掻き込み方が凄い。これだけ足が上がるなら、あの息の長さも納得だ)
サラブレッドの前足は振り上げる事で胸骨と連動し肺を膨らませる。肺の膨張は優れた呼吸器官から酸素を取り入れ、大きな心臓が全身に行き渡らせる。俗に言うスタミナのある馬の走りは押並べて前足の稼働率が高い。無論、備わる心臓など各種臓器がそれに耐えられなければ意味が無いため、その一事を持って才能の全てとするわけにはいかない。だが長距離、ないしは持続力という面においてステータスの一つとして上げられる要素だ。
騎手の制止を無視しながらも逃げ切ったスタミナの根源は走法にあったと横田は推察していた。
(それにこれだけ足を動かしているのに全然横にブレない。本当に真っ直ぐ走るな)
ためしに左右へ向きを変えさせてみる。
横田の手綱に「なんだよー?」と一瞬マルッコが首をもたげたが、ややあってリードに従うように身体を振った。左へ、右へ。その間スピードは殆ど落ちない。
(体幹がしっかりしてるって言えばいいのかな。そんな表現馬にしたことないけどそうとしか言いようが無い。身体も柔らかいから操縦性がすごく高い。凄いぞこの馬)
口元がにやける。己の感覚は正しかった。やっぱり、この馬だ。
この時、横田の胸に確信が宿った。
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美浦にせよ栗東にせよ、トレーニングセンターでの出来事は噂になりやすい。
例えばどこそこの厩舎のあの馬が凄いだとか、あの厩舎のあの人が激怒していたとか、誰かが落馬で怪我しただとか。広いようで狭い場所に密集している業界のため、耳目に易いのだ。
特に、春のGⅠシリーズの山場、ダービーを目前に控えたトレセンは、情勢を見逃さんとするトラックマンや取材記者らの織り成す喧騒で騒がしいとすら言えた。
そんな中、サタンマルッコの名はそれほど人々の話題に上がる物ではなかった。
精々が『横田が最近よく乗ってる馬』として名が挙がるほど。そういう気安さの中であるから、横田も小箕灘が間借りしている須田厩舎を訪れるのは、人目を気にせずにいられて気楽であった。
「控えさせる? マルッコを?」
「どうしても本番前に脚を測っておきたいんです。これまでの競馬は良くも悪くも馬なりで、本当には追っていなかったはずです」
「まぁ、馬主さんも期待されてるし、それで二着に入れるならってとこだが……」
既に何度か開催してお馴染みとなりつつある作戦会議は、マルッコの馬房の前にパイプ椅子を並べて行われていた。小箕灘とクニオと横田、おっさん三人が顔を寄せ合う怪しい絵面に馬房のマルッコも顔をのぞかせている。
横田が口にした次走の作戦に対し、小箕灘は難しい顔をした。
「そもそもの話、これまでやろうとして言う事を聞かなかった手前、実行出来るか怪しいと思うんだが、その辺どうするんだ?」
「これまで通り、では僕が乗っても同じ結果になると思います。ですが、最近乗っていて気付いたんですが」
初めてマルッコに跨ってから一週間。騎乗の土日と調整ルームの金曜以外は足繁く栗東に通いマルッコに乗り続けた横田は、己が結論をそう言って切り出した。
用意しておいたプリント紙を差し出す。
紙には数字の羅列があり、それがICチップで記録されたマルッコの調教タイムであることはすぐに分かった。
横田は指で示しながら続ける。
「これとこれ、キャンターでもギャロップでもそうなんですけど、タイムが平たいんですよ」
「あ、ほんとだ」
クニオが間抜けな同意を示した。
「これがどうしたってんで?」
小箕灘が尋ねる。
「皆さんご存知の通り、今のところマルッコの調教は攻め駆けしない限り基本的に馬なりでマルッコのペースでしか走っていないですよね。跨っていて気付いたんですが、駈足にしても襲歩にしても、この馬はラップを刻むように走ろうとしているんですよ。このタイムが全く平らなところが直線で、ややズレが見られるのが曲がってるとき」
指摘され小箕灘も改めてデータを見やる。
確かに、そう言われて見れば指摘された通りであるように思える。いや、この場合背中に跨っている騎手の意見のほうが正確であるだろうと小箕灘は思い直した。
「なるほど確かに。それで?」
「はい。そしてこれは前走阪神2000m500万下の時のラップです」
レースの勝ちタイムは2分0秒8。この時期の500万下を勝ち上がるタイムとしては、特筆する事の無い記録だ。
ラップタイムはこれまでのマルッコのレース運び同様、前半ちぎって後半持ちこたえる大逃げ気味のレース。前半1000mを58秒5、後半を62秒3。3歳馬が見せたパフォーマンスとしては派手だが、タイム自体はそれほどでもない。後続各馬が4コーナーで引き付けられ、息を入れて加速したマルッコにスタミナですり潰された形だ。
数字からそれを認識した小箕灘は少なくない衝撃を受けた。なにせ、
「あれだけ騎手と喧嘩しながら、自分でレース作ってたってのか」
なまじ現地で見ていたせいで情報にバイアスがかかっていた。なにせマルッコはレース中、誰の目からみても『かかっていた』ようにしか見えていなかったのだ。
「これが500万下の最終追い切りの時計です。6Fでしか見れませんが、気付きませんか?」
「……レースほどの時計でないのは当たり前だが、5Fまではペースを刻んで、6Fから息を入れている?」
小箕灘の脳裏に引っかかるものがあった。
思い返せば、この追いきりもジョッキー高橋への指示は6F馬なりであったはずだ。結局6F過ぎてもマルッコは駆け続け、コースを一周していたような記憶がある。つまり。
「マルッコはレースで走る練習をしているってことか」
「ここ最近乗ってみた感じでは、おそらく」
そんな事ありえるんだろうか。その考えは小箕灘の脳裏を当然過ぎった。しかし。
「こいつなら、やりそうだ」
この馬に限っては、なんでもありなのではなかろうか。そういう常識だとか非常識だとか、人が計り知れない部分に魅力を感じていたのだから。
そういうもの、と認識して考えれば、つまりここからの調教はレースで走らせたいペースへの順応を行えばいい。
「やってみましょう。横田さん」
「はい」
小箕灘と横田は、あとイマイチ話を飲み込めていないクニオと何故かマルッコも――頷きあった。
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