第六十五節 公と、私と。士紅の場合。 その二




 青一郎セイイチロウは、怠惰たいだを許さない。


 深歳ミトセが監督に復帰し、選抜組が始動する早春の頃。


 コート脇のベンチで部誌を書く途中で、士紅シグレが寝入っていた。


 気付いた千丸ユキマルが、冗談混じりに昂ノ介コウノスケへ合図を送る。すると案の定、怒った昂ノ介による鉄拳制裁が振り下ろされるが、士紅は最小限の動きでかわしたのだ。


 入れ替わるように現れたのが、なみなみと水を張ったバケツを手にする青一郎セイイチロウだった。


 部誌を昂ノ介に退避させ、バケツの中身を空にした。屋外練習場に響き渡った跳ねる音。


 真水の行き先は士紅の全身だった。


「目は覚めたかい?」


「御陰様で」


 晴天の午後、陽は高い。こよみの上では春を迎えているが、冷える空気は冬の気配が残る。

 一気に体温を奪われたであろう士紅だったが、青一郎の問いに短く応えた。


「今は部活中だよ。いつ流れ球が飛んで来るか分からないのに、こんな所で寝ていたら危ないよ」


「申し訳ない」


「本当に体調が悪いのなら、水を掛けた事を謝るよ。保健室に行くか、早退したら?」


「至って健康だ」


「そう。練習をしないのなら、帰ってくれないかな」


「眼は覚めた。練習に参加させて欲しい」


 水分を含み、重くなった体育着を四肢に張り付かせているが、士紅は素早く立ち上がった。


「じゃあ、着替えが済んだら、練習場周りを部活終了まで走り込み。明日から一週間は、球拾いをやってもらうから、そのつもりでね」


「はい」


 水滴をわせ、濡れ細る士紅の姿。同時に、苛烈な部分を秘める生まれた頃からの親友に挟まれた昂ノ介は、無言で見守るしか出来ない。

 静かな様子とは裏腹に、落ち着かない気分を持て余しているようだった。


 明らかに動揺していたのが、離れた位置で見物状態の残る選抜組だ。


「き、厳しくない~?」


「……退部を言い渡されないだけ、良かったと言える」


 少々、顔色を失う都長ツナガ礼衣レイは変わらずの平静さで受け答えた。


「退部って、それこそ厳しくねぇか」


「……丹布ニフも同じだと思うが、青一郎も庭球に対する思いは強い。どのような理由や事情があろうと、聖域コートに入った以上、条件は万人に等しく負うものだ」


 メディンサリが多少の助け舟を込めた発言も、礼衣レイには通じなかったばかりか、忠告は続けられた。


「……特に、丹布ほどの技量の持ち主が、居眠りしていても最強だと周りに思われては志気に関わる。選抜組だからこそ率先し、努力を惜しまぬ姿を示す必要がある。違うか?」


「確かに、その通りですね」


 年令不相応ふそうおうとも取れる礼衣の言い分に、あえて蓮蔵ハスクラは賛同をした。蓮蔵なりに、踏み込んだ領域の厳しさを体感したからこその反応だと思われた。


「……その辺りは、丹布も心得たのだろう。昂ノ介の鉄拳は反射的に避けたようだが、見えていた水バケツは受けていたからな」


 濡れネズミの士紅が、部室に向かう風景を目で追う千丸に、礼衣は気付いた様子で補足する。


「……千丸が指摘するまでもなく、昂ノ介は鉄拳制裁に出たし、青一郎は水バケツをお見舞いしていた。気に病むことは何もない」


 見透かされたのが悔しいのか、千丸は小さく息を吐いて顔を明後日の方を向けた。その態度は肯定したも同然だった。


「……青一郎は、怠惰な者を許さない。皆も気を付けろ」


 この警告には、誰も反意を現す事なく了承の返事を口にして応えた。


 何故なら青一郎のそれは、負い目も感情による暴走でもない。全てのしを責められる覚悟をもって、一貫する真摯な姿勢を崩さない。

 誤解や猜疑さいぎさえも受け入れる事を、寛容かんようする程の堅い決意を込めた黒い瞳が物語るようだったからだ。


 青一郎の、庭球に対する一途いちずな思いを、そのまま映すかのように。




 ○●○




 かつての情景を描き起こし終えたのか、士紅が一つ息をいた。


「そんな、世界の終わりを選択したような眼をするなよ。そこまで構える必要あるのか?」


「実際、このくらいたんえないと聞き辛いよ」


 士紅の言葉に、張っていた規制線をゆるめた気配を感じ取ったらしい青一郎は、ようやく警戒を解いた。


「そうか。そうだよな」


 端整なくちびるかすかに動かし、おのれに言い聞かせたような士紅は、おもむろに語り出す。


「言葉に表さなくても、伝わるなんて幻想だったな。判ってもらえると甘えてしまうんだ。それで怒られて、なじられて、周囲に心配ばかり掛けている。そうだとしても、返答出来る事には応じるし、事と次第によっては応えられない。それは、皆も同じだろう?」


 一同はそれぞれに、何が言い放たれようと、衝撃に耐えるたの意思表示としてうなずき、黙し、備えたようだ。


「庭球を覚えたのは、この場所ではないんだ。他の経済圏。教えてくれた人は、珍しい病気に罹患りかんしていて、出逢って数年で死別した」


 言葉を選んでいる割には、士紅の口調は事実を淡々と語り、感情も乗っていない様子だった。

 過去の話を読み聞かせる音だけが、仲間の聴覚へ情報として伝播でんぱする。


「上手かった。誰よりも。私の庭球は、の写しだよ。姿勢も、手段も、視線のり方も総て。世界で一番の庭球を受け継いだ自負がある。ならば、負ける訳にいかないだろう? 私は、この性格だからな。何よりも負けるのが怖かったし、誰かと比べるのは、正しい事だと想えなかった」


 士紅は再び、手元のメダルに視線を落とす。大切な記憶の端を語る破片を選ぶかのように。


「私は、前に進みたい。の問いに応えるためには、庭球場に戻らなければならなかった。負けるのが怖いなんて、考える余地などないんだよ。私は」


 花壇の縁に過去を預けて居たが、士紅はおのれの意志と四肢で立ち上がり、仲間を視界に収め宣言する。


「相手が誰であろうと関係ない。今の私は、負けられない理由がある。どのような条件下だとしても片腕一本、脚一本が残りさえすれば必ず勝つと意を決して、私は庭球場に戻った」


 その姿は、春の陽炎かげろうのようにはかなく消える願いとりながら、すがり着いてでも掴んで離さない決意が込められているようだった。


「戦って、あらがって、あきらめない。ただ、それだけの事だ」


 士紅の声、言の葉を受け、仲間は脳の髄と言わず理屈や経験の層を貫き、走り抜けた何かが根幹に届いた様子だった。


 このに及んでさえ、士紅に表情の波が立つ事はない。


 繰る言葉や情感に呑まれもせず静かに、平らかに締めくくられる。言葉の裏を支えるのは、筆舌にも現せるはずもない、堅忍不抜けんにんふばつそのものに等しいように思われた。


「戦って、あらがって、あきらめない。まるで、『あかときのうた』の一節いっせつですね」


 仲間の誰もが、士紅の言葉の一つ一つを、腹の内側で復唱する気配が立つ中で、蓮蔵は思いをせるように、万感を込めて少し厚みがあるくちびるを開く。


 『あかときのうた』とは、士紅が出身地と答えたロスカーリアに流布し、深々と根付く世界新生の叙事詩じょじしを差し示す。


 生まれたての赤子が子守歌代わりに耳に入れ、聖堂の浮き彫り細工レリーフに触れる頃には、息をするように祈りを捧げ生き様をも律する教義の主幹。


 尊像崇拝そんぞうすうはい、外部経済圏ケイザイケンへの布教を厳禁する教えを、〝シャンナ眞教シンキョウ〟と粛々しゅくしゅくうたう。


 宗教内容は秘されたまま伝わらないが、叙事詩はグランツァークの席巻せっけんと共に演劇・歌劇へと変遷へんせんした。装いを新たに厳格な審査の下、図らずも徐々に浸透する結果に至る。


 モルヤンにも、善悪二種類の絵本から召喚される怪物達が織り成す子供向けのアニメーション。

 青年漫画、歴史に消された歌劇に、その息遣いきづかいを宿すとの蓮蔵の説明に、『あかときのうた』への興味が広がりを感じさせる頃。

 離れた位置から、良く通る野太い声が彼らを呼んでいた。





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