第六十五節 公と、私と。士紅の場合。 その二
コート脇のベンチで部誌を書く途中で、
気付いた
入れ替わるように現れたのが、なみなみと水を張ったバケツを手にする
部誌を昂ノ介に退避させ、バケツの中身を空にした。屋外練習場に響き渡った跳ねる音。
真水の行き先は士紅の全身だった。
「目は覚めたかい?」
「御陰様で」
晴天の午後、陽は高い。
一気に体温を奪われたであろう士紅だったが、青一郎の問いに短く応えた。
「今は部活中だよ。いつ流れ球が飛んで来るか分からないのに、こんな所で寝ていたら危ないよ」
「申し訳ない」
「本当に体調が悪いのなら、水を掛けた事を謝るよ。保健室に行くか、早退したら?」
「至って健康だ」
「そう。練習をしないのなら、帰ってくれないかな」
「眼は覚めた。練習に参加させて欲しい」
水分を含み、重くなった体育着を四肢に張り付かせているが、士紅は素早く立ち上がった。
「じゃあ、着替えが済んだら、練習場周りを部活終了まで走り込み。明日から一週間は、球拾いをやって
「はい」
水滴を
静かな様子とは裏腹に、落ち着かない気分を持て余しているようだった。
明らかに動揺していたのが、離れた位置で見物状態の残る選抜組だ。
「き、厳しくない~?」
「……退部を言い渡されないだけ、良かったと言える」
少々、顔色を失う
「退部って、それこそ厳しくねぇか」
「……
メディンサリが多少の助け舟を込めた発言も、
「……特に、丹布ほどの技量の持ち主が、居眠りしていても最強だと周りに思われては志気に関わる。選抜組だからこそ率先し、努力を惜しまぬ姿を示す必要がある。違うか?」
「確かに、その通りですね」
年令
「……その辺りは、丹布も心得たのだろう。昂ノ介の鉄拳は反射的に避けたようだが、見えていた水バケツは受けていたからな」
濡れ
「……千丸が指摘するまでもなく、昂ノ介は鉄拳制裁に出たし、青一郎は水バケツをお見舞いしていた。気に病むことは何もない」
見透かされたのが悔しいのか、千丸は小さく息を吐いて顔を明後日の方を向けた。その態度は肯定したも同然だった。
「……青一郎は、怠惰な者を許さない。皆も気を付けろ」
この警告には、誰も反意を現す事なく了承の返事を口にして応えた。
何故なら青一郎のそれは、負い目も感情による暴走でもない。全ての
誤解や
青一郎の、庭球に対する
○●○
かつての情景を描き起こし終えたのか、士紅が一つ息を
「そんな、世界の終わりを選択したような眼をするなよ。そこまで構える必要あるのか?」
「実際、このくらい
士紅の言葉に、張っていた規制線を
「そうか。そうだよな」
端整な
「言葉に表さなくても、伝わるなんて幻想だったな。判って
一同はそれぞれに、何が言い放たれようと、衝撃に耐えるたの意思表示として
「庭球を覚えたのは、この場所ではないんだ。他の経済圏。教えてくれた人は、珍しい病気に
言葉を選んでいる割には、士紅の口調は事実を淡々と語り、感情も乗っていない様子だった。
過去の話を読み聞かせる音だけが、仲間の聴覚へ情報として
「上手かった。誰よりも。私の庭球は、あの人の写しだよ。姿勢も、手段も、視線の
士紅は再び、手元のメダルに視線を落とす。大切な記憶の端を語る破片を選ぶかのように。
「私は、前に進みたい。あの人の問いに応えるためには、庭球場に戻らなければならなかった。負けるのが怖いなんて、考える余地などないんだよ。私は」
花壇の縁に過去を預けて居たが、士紅は
「相手が誰であろうと関係ない。今の私は、負けられない理由がある。どのような条件下だとしても片腕一本、脚一本が残りさえすれば必ず勝つと意を決して、私は庭球場に戻った」
その姿は、春の
「戦って、
士紅の声、言の葉を受け、仲間は脳の髄と言わず理屈や経験の層を貫き、走り抜けた何かが根幹に届いた様子だった。
この
繰る言葉や情感に呑まれもせず静かに、平らかに締め
「戦って、
仲間の誰もが、士紅の言葉の一つ一つを、腹の内側で復唱する気配が立つ中で、蓮蔵は思いを
『あかときのうた』とは、士紅が出身地と答えたロスカーリアに流布し、深々と根付く世界新生の
生まれたての赤子が子守歌代わりに耳に入れ、聖堂の
宗教内容は秘されたまま伝わらないが、叙事詩はグランツァークの
モルヤンにも、善悪二種類の絵本から召喚される怪物達が織り成す子供向けのアニメーション。
青年漫画、歴史に消された歌劇に、その
離れた位置から、良く通る野太い声が彼らを呼んでいた。
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