第六節 新入生代表の、優雅な日常茶飯事。 その四




 青一郎セイイチロウ昂ノ介コウノスケ礼衣レイが目的地に着いた頃には、士紅シグレを見送って三十分程度が経過していた。


 青一郎の担任・碕小垣キサガキに捕まり、揃って所用を果たしていたためだ。そんな彼らは、目の前の事態を飲み込めずにいるようだった。


 静まり返る男子側の六面コート、中央付近に士紅は居た。


 青一郎が貸したラケットを抱え、コート中央の仕切り網越に、士紅は空いた白い手袋に包まれている手を差し出している。座り込む赤毛の部員へ、試合終了時に交わす握手を求めていた。


「無礼を承知で相手をしてくださって、有難ありがとう御座いました」


 士紅から発せられた〝有難ありがとう〟の一言。加えて、無表情だった端整な顔立ちに起きた微細びさいに変化に気付いたような反応を見せたのは、一球勝負の締めを果たした赤毛の部員。

 その証拠に、ソバカスが目立つ顔には、憑き物が落ちたような表情が浮かんでいた。


 それから少々の間の後に、立ち上がった赤毛の部員は差し出された白い手に触れた。彼は表情を笑顔に変え、しっかり握手を交わす。


 なごやかな風景の周辺には、白線も何も関係なく、制服や運動着混じりの部員と思われる面々が、倒れ、座り込み、肩を寄せている。


 シャートブラムは意気込みが空回りし、五球を挑むもラリーにもならず顔色を失い、早々に取り巻きと一緒に退場しており、既にいなかった。


「……染早生ソメサキ、いつから居たんだ?」


 人垣に、同じ組の相手を見付け呼び止めた礼衣は、青一郎と昂ノ介を残し、聴取へ向かった。


 一種の見せ物と化している状況は、隣で部活動をしていた女子庭球部や、屋外部活動組が集まっている。

 そのうねりは、下校途中の生徒をも呼び込んで防護金網を囲み、練習場が見える校舎からも、顔を見せる生徒で鈴なりの窓もあるくらいだ。


 そんな時、無責任に歓声を上げていた音のたばを割り、コート方面から悪態混じりの声が立つ。


「ふざけんじゃねェよ! こんなもの、誰が認めるもんか!!」


 一言が火をけたのか、負け部員の非難の連鎖が、野次馬の歓声を上書きし始めた。


「大体、おかしいじゃねェか! 俺達は、こんなボロボロにされたってのに、コイツは息も切らしてねェし汗の一つも流してねェんだぞ!」


「この外圏がいけん野郎! 変な薬でも、やってるんだろう!」


 次第に野次馬達の声が引き、部員の声が内容が内容だけに際立つ。確かに、士紅の姿に乱れがなさ過ぎる。

 およそ一五〇人を相手に一球勝負をしたとは考えられなかった。汗を拭った形跡も、ともなう湯気すら立てないからだ。


 野次馬の好奇から、不審に変わりつつある視線。憶測は口々に乗せられ、細波さざなみのように広がっては士紅に集まる。


「想いたければ、想えば善い」


 あっさり泥を被る士紅に、仕掛けた側が絶句する。


「大汗を流して、熱暴走を起こすのは無駄な動きばかりだからです。コーラット先輩」


 会った事もない新入生に、コーラットは名前を差され、本人は流れる汗が冷える心地だったらしい。落ち着きを失い、その表情には焦りが見て取れる。


「その手の薬は、こちらでは高額なので私の小遣いでは買えません。ウォレンデ先輩」


 相場を心得ている方が異常だろう。などと、この場の空気で指摘出来る猛者もさはいない。

 士紅の面相めんそうは、整っているが故に酷薄で、反論を封じる威圧感は、歳相応ではなかった。


「あーァ。やってらんねェよ。こんな事」


「同感ー。やりたきゃ勝手に一人でやれよバーカ」


 士紅の相手も、反論も放棄し、服装も態度も悪い部員達は行動を共にする。


「お、おい、どうする?」


「ここで突っ立ってても、仕方ないだろ。流れで、続けばイイんだよッ」


 他の男子部員が、お互いの顔色をうかがいながら退路を確保する。その中で、柵の外の野次馬にも、動きが押し出される。


「え、なになになにー?」


「もう終わっちゃったー?」


「でもでも、最後ワケ分かんなかったけど、面白かったよねー」


「だよねー」


 部活動に戻るよう促す声。帰りを確認する声。寄り道の行き先を問う声。遠ざかる生徒達の靴音が、冬の大気に乱反射した。


「これは、これは。無理を言って出勤した甲斐がありました。眼福がんぷくとは、この事でしょうね」


 主に生徒で構成されていた人垣が散り、薄くなった人気ひとけまぎれる人物があらわになる。


 蒼海ソウカイ学院関係の制服や部活着でもなく、年格好も生徒ではない。


 中肉中背の四肢を、紺のシングルスーツに包む男性だった。冬の季節にも関わらず肌は陽に焼かれ、少しだけ茶色掛かる黒髪に、黒色い瞳の典型的なリュリオン人。年格好は青年以上、壮年未満。

 印象的な、厚みのある藍色の縁をしたオーバル型の眼鏡。その奥には、見る物全てが楽しいと言わんばかりのゆるんだ形が収まっている。


「この話し、受けて正解でした」


 感情は口元を浸食し、実年令よりも若い笑みが浮かぶ。過去の経験と、未来に描く予想図に若人わこうどよりも鮮明に映し出しているようにも見える。


深歳ミトセ先生、こんな所に、いたんですか。急に、いなくならないで、くださいよ」


 運動不足も手伝い、息切れを起こしている中年女性教師が探しに来たようだ。


「済みません、生徒達の集まり方が気になってしまいまして」


 困り顔を作り、深歳ミトセと呼ばれた男性は答える。


「集まるだなんて、何があったんです? こんな所で、本当に、止めてくださいよ、縁起でもない」


 酸欠で陰るだけではない顔色に変え、中年女性教師は怯える素振りを態度に表す。


 この庭球部は、教師すら距離を置きたがる場所だと証明しているようだった。


「あはは~、縁起でもないなんて言わないでください。もうすぐ、私の居場所になるのですから」


 深歳ミトセの言葉に、中年女性教師は小さな目に邪険を込め、顔をしかめる。


 深歳ミトセゆるんだ笑顔で、離れた先の男子硬式庭球部の屋外コートに視線を向けた。不自然な人口密度を構築した人影に注視する。


「先生、悪い事は言いません。特に、男子庭球部には口出しは無用でお願いしますよ。適切な距離を保つのが、先生のためでもあるんです」


 ようやく整った息で、中年女性教師は妙な忠告を語る。


「医薬品搬入口が分からないと困るのは、深歳ミトセ先生ですよ。時間がないんでしょう? 案内しますから、早く来てください」


「あはは~。済みません、そうでした」


 賑々にぎにぎしい臨時の催し物は終幕し、人垣が流動しながら崩れて行く。その機会にけ込むように、掴み所がない態度の深歳ミトセは、本来の目的に戻るため、中年女性教師を追った。





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