不定期更新編

第54話 すごい顔でこっちを見ている


「……ぱい、……ぱい」


 なんか声が聞こえる。


「ううん」

「……ぱい、……すよ」


 心地いい声だと思った。

 身体がゆらゆら揺れている。


 空の上、雲のゆりかごで寝ているようだ。


 いや、待て。

 雲のゆりかごということは、ここはどれだけの高度だというのだ。

 こんなところで生物が生きられるわけもない。


 結論は出た。

 この心地よさは、酸欠によって生命維持が難しくなっているのだ。


 まずいな。

 どうにかしてこの状況を……。


「先輩!!」

「うおっ!?」


 岬の顔が目の前にあった。


「な、なんだ?」


 微妙な顔で、周囲に目をやった。

 同僚たちが白けた表情で注目している。


「山田くん。ミーティングを続けても?」

「は、はい! すみません!!」


 おれは慌てて資料に目を落とした。


 ミーティングが終わり、会議ブースを出た。

 あとからやってきた岬が、背中をぽんと叩く。


「先輩が居眠りって珍しいですね」

「すまん。寝不足でな」

「あ、もしかして、わたしのこと考えてて眠れなくなっちゃいましたかー?」

「あー、はいはい。そうだよ。おまえの今日のパンツの色が気になってな」

「じゃあ特別に教えてあげます。今日は黒のレースでーす」


 断じて想像してない。

 本当だ。


「冗談はさておき。さっちゃんたち、先輩のアパートで暮らしてるんですよね?」

「ああ。まだクレオたちが到着しないからな」


 あの騒動から一週間ほどが経過した。

 向こうもご令嬢が着任するというのだから、相応の準備が必要なのだろう。


 たとえ到着したとしても、家を建てるまで時間はかかるはずだ。

 しばらくは、この生活が続くだろうと思う。


 もちろん、寝泊まりするのは歓迎だ。

 おれは多少、ひとが増えても熟睡できる。


「なにかあったんですか?」

「いや、なんというかな……」


 先日、岬が置いていったボードゲームの数々。

 それにすっかりハマってしまったカガミ一家と、遅くまでゲームに興じるのが習慣になってしまった。


 おかげで、まともに眠れていない。

 それでもカガミたちはぴんぴんしているあたり、そもそもの体力が違うのだと実感させられる。


 とはいえ、仕事に支障が出てはいけない。

 それは重々、承知している。


 一度、やんわりと断ろうとしたこともあるのだが……。


『神さま、今日はどれをするのですか? わたしは、このオセロというのがやりたいです!』

『いやな。サチ、今日はちょっと休ませてくれないか?』

『え?』

『今日はお休みして、また明日、な?』

『わ、わかりました。我慢します……』

『…………』


 断れるか!!


 しょんぼりしたときの尻尾がいけない。

 たらーんと垂れ下がって、物欲しそうにゆらゆら揺れるのだ。


 アレだ。

 小学校のとき、夏休みに出された成長日記。

 三日で枯れたアサガオにそっくりなのだ。


 あんなものを見せられて、断れるわけがないのだ。


 カガミに遠回しに断ってもらおうとしても……。


『やや、神さま。この将棋という遊び、なかなか面白いですな』

『そ、そうだな。カガミ、ちょっと相談が……』

『いやあ、あの戦争では何度、死ぬかと思いました。しかし再び家族に囲まれ、こうして神さまとゲームに興じることができるとは、本当に生きて帰ったかいがあります』

『…………』


 おまえたち、本当にそっくりな親子だよ!!


 ここは一家の中心たる母親に、それとなく誘導してもらおうと思った。


『あの、イトナ……』

『神さま。今夜はほら、ユニさまにいただいたワインを空けてみました』

『わかった! 朝まで付き合うから次々に注ぐのはやめてくれ!!』


 ……カガミが飲めないものだから、飲み仲間に飢えているらしい。

 こうして考えると、いちばん厄介なのはイトナだったな。


「というわけで、寝不足なんだ」

「あはは、嬉しい悲鳴ですね……」


 岬が気の毒そうに笑った。


 嬉しい悲鳴か。

 まあ、そう言われればそうだ。


 あのまま、カガミが戦争から帰らなかったら。

 あるいは、カガミが帰ったとき、サチたちがいなかったら。


 どちらにせよ、それは悲しいことになっていた。

 一家が無事に生活できていることは、この上ない幸福なのだ。


「あー。じゃあ、お疲れでしょうし、また今度でも……」


 岬が遠慮がちに言う。


「いや、気にするな。というか、帰ったらゲームをすることになるから同じだ」

「ありがとうございます。じゃあ、楽しみにしてますね」


 今日は、仕事上がりに岬と飲みに行くことになっている。

 なんでも「とても大事なご相談があるんです」とのことだ。


 もともと岬とは、仕事仲間として良好な関係を築いてきたつもりだった。

 この数か月のおいては、その垣根を越えて親密になったように思う。


 彼女がいなければ、カガミ一家ともうまく付き合えなかっただろう。

 そのことは感謝しきれない。


 だからこそ彼女の頼みも、おれは全力で聞いてやりたい。




「そして、居酒屋に来たわけだが……」


 テーブルの向かい側を眺めていた。


「さっちゃあん、そのもふもふ尻尾を巻き付けて、うへへへ……」


 岬がテーブルに突っ伏してしまっている。

 完全にダウン状態だ。


 ちょっと素面じゃ言えない恥ずかしい内容だ、と言うから飲ませてみればこれだ。

 そのせいで酔いつぶれては本末転倒ではないか。


 ……夢の中で、サチになにをしているのだろうか。


「おい、岬。大丈夫か?」

「……ふあい。大丈夫でふよう。さっちゃんはわたしがマフラーにしてますからねえ」


 ダメだこりゃ。

 しょうがないから、タクシーでも拾って送るか。


「ほら、立てるか?」

「はあい。せんぱい、今日は可愛いブラしてまふねえ。ふへへへ……」


 頼むから黙ってほしい。

 隣の席の会社員がすごい顔でこっちを見ている。


 会計を済ませて、店を出る。

 タクシーを拾って乗り込んだ。


「おまえのマンションはどこだ?」

「せんぱいのおうちにかえります!!」

「勝手に見るぞー」


 免許証で住所を確認。


 しかし、これは送らないとダメだな。

 カガミには事前に遅くなることは伝えているから問題はないだろう。


 おれは運転手に住所を告げて、岬のマンションに向かった。

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