第11話父と娘
式子内親王は琴を弾いていた。その様子を父親である後白河法皇は
かわいくてしょうがないといった目つきで眺めていた。
「こんな天女のようにかわいらしい女人がわが娘だとは信じられん。
悪い虫がつかないか心配じゃのう。ま、
わしと一緒に住んで居ればその心配はないか。」
と心の中でつぶやくと、声を張りあげて今様を歌い始めた。
出家しているので坊主頭に袈裟をかけているが、後白河法皇の
今様への情熱は一向に衰えることがなかった。
「仁和寺宮の兄上(守覚法親王)と違って、ずいぶん音痴ですこと。」
と音程が大幅に外れた父の歌声を耳にした式子内親王はくすりと笑った。
あれほど毎日稽古に励んでも、めったに歌わない第二皇子の守覚法親王が
やすやすと出して見せる美声に及びもつかない後白河法皇なのであった。
しかも当の本人は音程の大幅なずれにまったく気づいている様子はなかった。
だれもそれを当人に指摘する勇気は持ち合わせていなかったせいでもある。
あれから数年がたち、1176年に女御の平滋子が突然病に倒れて
35歳の若さで死去し、その翌年には式子内親王や以仁王ら
2皇子3皇女を産んだ高倉三位こと、藤原成子もこの世を去っていた。
今では式子内親王も以仁王も二十歳をとうに越していた。
「以前、和歌の習作をしたためた反故に混じって、
子供のようにつたない字で書かれた恋文があるのを
見つけた時は、こんなに大人しい性格の姫宮に色恋沙汰があったのかと
死ぬほど驚いて心配して悩んだものだ。」
と後白河法皇は思い出して眉をひそめた。
その手紙こそ、定家少年がこっそり置いてきた恋文であった。
琴を弾きながらも、自分の考え事に没頭していた式子内親王はそんな
父親の気持ちを知る由もなかった。
「お母様は幸せだったのかしら。5人も子供を産み、お父様が即位する前の
四ノ宮と呼ばれたころからそばにいて支えていたのに
ついに正式に女御などにはなれず、最後は若い女性に
寵愛を奪われて後宮の隅に追いやられてしまった。
わたしは内親王という身分に生まれてよかったわ。
結婚しなくていいのだもの。男の愛なんて移り気で信用できないわ。」
と心の中で不遇だった母親の人生について考えると式子の心は
悲しい気持ちでいっぱいになった。式子内親王の父、後白河法皇には摂家出身の皇后や女御がいたが、式子内親王らの母である藤原成子は摂家の出身ではなく、
正式に后妃になった藤原氏の姫君たちよりも身分が劣っていたのである。
ところで平安時代も末になると、斎王経験者であるかないかにかかわらず、
ほとんどの内親王は未婚のまま一生を終えることが当たり前になっていた。
しかし内親王が皇后や中宮に立てられた数少ない例があった。
式子内親王の曾祖父である堀河天皇の中宮は後三条天皇皇女、篤子内親王
であった。篤子内親王は堀河天皇の父、白河天皇の同母妹なので、
叔母と甥の結婚であった。篤子内親王は賀茂の斎院の経験者であった。
中宮、篤子は堀河天皇よりも20歳も年上だったが、
堀河天皇の強い希望により実現した結婚であり、夫婦仲はよかったという。
ただし子宝には恵まれなかった。
また、式子内親王の異母兄である二条天皇(1143~1165)の中宮は
鳥羽天皇皇女、高松院姝子内親王であった。姝子内親王(1141~1176)は二条天皇の父である、後白河法皇の異母妹であり、
これもまた叔母と甥の結婚であった。
東宮時代からの妃であったが、子供ができないまま
わずか二年でこの結婚は破たんして天皇と中宮は別居してしまった。
病に倒れた姝子内親王は19歳の若さで出家して院号宣下され高松院となった。
高松院姝子内親王は二条天皇の死後、
藤原信西の子で天台宗の僧侶である、澄憲(1126~1203)と密通し、
海恵(1172~1207)をひそかに出産した。
高松院は脚気と痢病により死去したと発表されたが
本当の死因は難産による産褥死であったといわれている。
海恵は実の父である澄憲が引き取り、出家して弟子になったという。
「そういえば、去年は叔母さまが秘かに出産した末に亡くなられたのだったわ。
叔母さまは不幸な結婚の後、出家した者同士で人目を忍ぶ激しい恋に
落ちてしまったのね。好きな人と一緒に暮らせず、実の子供とも引き離されて
どんな気持ちだったのかしら。わたしだったら耐えられないわ。」
と式子内親王は思ったが、内心では叔母の大胆さが少しうらやましくもあった。
「わたしは好きな人ができても、いつも片思いに終わるさだめなのよ。」
と忍ぶ恋を激しい調子でうたいあげた、自作の和歌を思い出して苦笑した。
「姫や、そなたには誰ぞ好いた男でもおるのかね。」
といきなり後白河法皇が話しかけてきたので
考え事に夢中になっていた式子内親王はぎくりとして琴を弾く手を止めた。
「なぜそうお考えになるのですか?」
と式子内親王がどぎまぎしながら尋ねると、
「いや、そちの詠んだ恋の歌があまりにすばらしいから
本当に恋してるのではないかと心配になったのじゃ。」
と父親は娘の目をじっと見ながら言った。
「いいえ、ご心配には及びません。あれは題詠にすぎません。」
と式子内親王は答えたので、色好みの権力者であるが娘の女心の機微にうとい
父親はほっと胸をなでおろしたのだった。
「なんだ、取り越し苦労だったか。ああよかった。」
と思ったのは後白河法皇だけではなく、部屋の隅っこに隠れて立ち聞きしていた
定家も同じだった。今日は小さなネズミに化けていたのである。
「はっきり振られてしまったけど、もう少し様子をうかがってから、また
胸に募る思いを打ち明けてみよう。」
と能天気な定家少年は考えていたのだった。
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