第5話 それは空から降ってきた
「うそうそ。そんなのってないよ」
「嘘じゃねーよ。じゃあ、俺が何で喋れるかって話になるだろ? 信じろよ」
「そうだけど……でも、全然人間だった名残がないよ?」
「んなこと、俺に言われても困る」
傍目には、私が犬に向かって一人でおしゃべりしているように映るだろう。しかも、声色を変えての一人二役。寂しすぎる。ここが森の奥で、目撃する人がなくて本当に良かった。もし誰かに見られてしまったら、頭の変な子だと思われただろう。
実際は一人二役をしているわけではなく、隣を歩く赤毛の獣――ウォルフラムと名乗った彼が喋っているのだけれど。
獣は、名前をウォルフラムというのだと言った。そして、自分は人間だったと言ったのだ。
朝食を摂りながら私たちはお互いのことを話した。といっても、ウォルフラムはあまり自分のことを覚えていなくて、どこから来たのかとか、なぜ森にいるかなんてことは記憶がないらしい。
でも、名前と、自分が人間だったということは覚えていたのだという。
私がうろに来るまでの間は、長いことまどろみの中にいたと言っていた。
私の姿を見つけて、はっきりと目を覚まし、そしてお腹が空いていることに気がついたということだった。
そして朝になって唐突に人の言葉を話し、「あ、俺って人間だったんだ」と思い出したというのがウォルの話だ。
「まだあまり信じられないけど……きっとそんなんだよね」
私は、神様が言っていたことを思い出していた。
この森には、呪われた人間がいること。そして、その人間と連れ立って魔物を退治しに行かねばならないこと。
きっと、ウォルはその呪われた人間なのだと思う。本人が何も覚えていないから、確証はないけれど。
「信じられないって、俺以外に呪われた人間がいてたまるかよ。こんな、喋る犬なんてモロそれだろ?」
「そうだけど……魔物じゃないよね?」
「俺が魔物なら、エミリアは今頃死んでるぞ? ガオー!」
そこまで疑っていたわけではないけれど、魔物かもという考えが捨てきれなくて尋ねたら、ウォルは気を悪くしたらしい。
しばらく何を話しかけてもガオガオしか言わなくなって、ケーキを一切れあげるまで機嫌が直らなかった。
ウォルは、私が森に来た理由と神様が言っていたことを話すと、「エミリアについていく」と言った。迷いなく、一瞬も考えることなく。
その理由を尋ねたら、「俺、目が覚めたらこんな姿になってて、記憶もないし。だから、暇だし」ということらしい。親切ぶってもいいものなのに、そういったところが一切ない。
「俺と会えてエミリアは幸運だったな。魔物と戦うんだろ? 俺、この姿だからガブっとやれば魔物死ぬんじゃねぇかな。頼もしいだろ?」
ウォルは私の歩幅に合わせて歩いてくれながら、そんなことを言って得意な顔をする。この顔、近所の犬が“取って来い”が成功したときにやるのと似ている。
そう思うとちょっとおかしいけれど、確かにウォルがいてくれて心強さはあった。
「そうだね。頼もしい! あと、私が背中に乗ってダダーって行くのは?」
「それは嫌だ。エミリア、重たいだろ」
「何だと!」
私が拳を構えて見せると、ウォルはからかうみたいに二三歩先に進んでクルクルと回ってみせる。
(一人じゃないって、いいな)
こういう感覚は久しぶりだ。
村の同年代の子たちとこんなふうにはしゃいだのは、いつのことだったっけ。特に、男の子とは大きくなるにつれて接し方が変わってきていたから、ウォルとのやりとりはちょっと子供に戻ったみたいな気持ちになる。
こうして軽口を叩きあえるってことは、ウォルは確かに人間で、たぶん私と同年代の男の子だ。
そんなウォルが隣を歩いているだけで、一人きりで歩いていた昨日とは違って今日は足取りも軽くて、どんどん進んでいける気がした。
寂しくない、心細くないというのは、それだけで力になる。
「そろそろ休むところの目星をつけとくか?」
「もうそんな時間?」
「いや、ちょっと天気が崩れそうだ」
空を見上げ、ウォルは鼻をスンスンとして匂いを嗅いだ。私も同じようにやってみるけれど、何もわからない。風の匂いが変わったというやつなのだろうけれど、私には朝見たときと同じように青空が広がっているようにしか見えない。
「ウォル、すごいね。さすが犬になっただけのことはあるね」
私が感心して言うと、ウォルは鼻をふんと鳴らした。
「あのな、こんなの人間でもできるんだ。慣れだよ、慣れ。じゃなきゃ釣りに行ったりしたとき、無防備なまま大雨に降られたりして大変なことになるだろ? 天気の変わり目の予知は男の嗜みだ」
「へぇ……」
そんな姿で言われてもワンコの嗜みにしか見えないんだけどなと思いつつ、私は黙っておいた。
さっきまで穏やかだったウォルの顔が、少し険しくなったから。鼻の頭に皺を寄せ、耳を神経質に動かしている。何か、私にはわからない気配や音に気がついたみたいだ。
「エミリア、気をつけろ。近くに何かいる」
「え?」
ウォルはそう言ったけれど、私には何もわからない。森の中はしんとしていて、鳥のさえずりさえ聞こえないのだから。
それでも、ウォルがずっと警戒した姿勢を解かないから私は怖くなって、近くにあった木の幹にそっと体を寄せた。
そのとき――。
「きゃっ!」
「どうした⁉︎」
何かが、スッと勢い良く服に入ってきた。襟口から背中まで一直線に、入ってきたというより落ちてきたという感じ。その入ってきたものは背中からお尻のほうに向かって、もぞもぞと動き続けた。
「虫か? でかいな」
「わかんない! ウォル、どうしよう?」
「俺、こんなだもん。どうにもしてやれねぇよ。あっち向いてるから自分でスカートに手を突っ込んで取れよ」
「やだよー」
さっきまでの緊張感はどこへやら。
私もウォルもあたふたした。
ウォルが向こうを向いたのを確認して、私はワンピースの裾から手を入れ、腰の辺りに引っかかっている“それ”をつかんで引き抜いた。
「でかい虫だなあ」
「……ウォル、これ虫じゃないよ」
つまみあげたものを見てウォルは虫だと言ったけれど、私には“それ”がどう見ても人にしか見えなかった。
手のひらに乗るくらいの、小さな人。その人は、固く目を閉じている。
「ウォル、どうしよう?」
私が手のひらに乗せたそれを差し出すと、ウォルは心底嫌そうな顔をして後ずさった。
魔物に出会ったら噛み付いて退治するって言ったくせに、こんな小さなものが怖いらしい。
「エミリア、とりあえずポイしろよ。魔物だったらどうするんだ」
「え……でも」
「今に目を開けて『キエーッ』とか言い出すぞ」
「やだ!」
ウォルがあんまり怖がるものだから、その気持ちが私にも伝染して怖くなった。噛みつかれたりしたら嫌だから、私は乱暴にならないように急いで地面に置いた。それでも、その小さな人型のものは動かない。
「死んでんのかな? さっきは動いてたのに……」
地面に置いたそれをウォルはスンスン嗅ぐ。それでも動かないから、私は拾った小枝でツンツンとした。すると、それは小さく「うっ」と呻いた。
「生きてる!」
死んでいたらどうしようと思ったのに、いざ生きているとわかると怖い。
私もウォルも一歩引いて、それが次に何をするのか怖々と見守った。
「う……そこの、お嬢さん」
「喋った!」
小さな人型が声を、しかも人語を発したことに驚いた。ウォルに至ってはもう何歩も後ろに下がって、声も出さずにいる。あんなに威勢のいいことを言っていたくせに、ものすごく怖がりみたいだ。
「だ、大丈夫ですか?」
得体が知れないから怖いという思いに変わりはないけれど、とりあえずそう声をかけてみる。小さな人は私の問いかけに、静かに、弱々しく答えた。
「俺は、実は人間で、しかも王子なんです。悪い奴に呪いをかけられて、こんな姿に……」
「小さくされただけじゃなくて、服までみすぼらしくされたんですね」
「う……そ、そうなんだ」
「大変ですね」
「それで……お嬢さんに頼みがあるんだけど……」
小人さんが自分のことを語り出したのはいいのだけれど、“頼み”という言葉が出た途端、私もウォルも身構えた。こんな状況で出るその言葉は、大体が恐ろしげなことか面倒くさいことと相場は決まっているから。
目を閉じているからか私たちが警戒している様子に気づかない小人さんは、少し間を置いてからとんでもないことを口にした。
「お嬢さん、呪いを解くために俺に口づけしてくれないか?」
一瞬、時が止まったのかと思った。風も止んで、木々を揺らす音すら途絶えた気がする。
でも、実際にはそんなことはなくて、びっくりしすぎて自分の思考がどこか遠くに行ってしまっていたのだとわかった。
「……エミリア、絶対嘘だぞ、それ」
「私もそう思う」
呆れ返った私たちは、身を寄せて小人からさらに距離を取った。恐ろしさはなくなったけれど、今度はその存在の胡散臭さに白けてしまう。
怪しいし、何となく頭が悪そう。魔物ではなさそうだけれど、面倒くさいことに変わりはない。
「エミリア、さっさと今日の寝床を探しに行こう」
「そうだね」
私がキスするとでも思っているのか、小人は動かない。だから私たちはもう置き去りにすることにした。だって、先を急ぐのに面倒なものに巻き込まれるわけにはいかないもの。
お腹が空いたとかどこかが痛いというならいざ知らず、キスして欲しいというのが頼み事なんて元気な証拠だ。だから私たちが見捨てても、きっとどっこい生きていくに違いない。
「ま、待ってくれ!」
「きゃっ」
私たちが歩き出す気配を察したのか、小人が起き上がって、ものすごい勢いで走ってきた。そして、私の体に飛びついた。
「王子とかキスとかは嘘だけど、人間だったのは本当! 気がついたらこの大きさで、何故か鳥に捕まってて、命からがら地上に飛び降りたところをあんたたちに拾われたんだ! 捨てないでくれ!」
「う、うん……」
私の服にしがみついて、小さな人は今にも泣きそうに叫ぶ。その様子はさっきのふざけたのとは違って、鬼気迫るものがある。だから、私はウォルと顔を見合わせて、頷き合った。
「とりあえず今日休むところを探すから、付いて来いよ」
「うん! 行く行く!」
小人は許されたのだとわかると、途端に態度が緩んだ。どうにも、調子が良い人みたい。
こっちとしては魔物だったらとか、死んじゃってたらどうしようなんて心配させられたのに。
でも、そんなことを言っても仕方がないから、私は肩に小人を乗せ、ウォルと並んで森を進んだ。
ウォルが「風の匂いが変わった」と言うから、今日は木々の開けたところで休むことにした。本当だったらまた木のうろや洞窟のような場所に行きたかったのだけれど。雨が降る心配がないのなら、屋根がない場所でも大丈夫そうだ。
寝床を確保できたのは、よかった。でも道中で別の問題が発生したことが、今とっても悩ましかった。
「……ねぇ、二人はなんで睨み合ったまま何も言わないの?」
食事を終えても、ウォルも小人さんも一言も発しなかった。睨み合う、というよりお互い眉間に皺を寄せたまま、じっと見つめ合って困ったように首を傾げたり考え込んだりしている。
事の発端は、自己紹介をしたときだった。
「私はエミリアっていうの。こっちはウォルよ」
「ウォルフラムだ」
「……ウォルフラム?」
ただ名前を言っただけなのに、肩の小人さんは途端に様子が変わった。しげしげとウォルのことを見つめて、「あいつ、なのか? いや、でも……」なんてことを呟いていた。
「あなたはなんて名前なの?」
「ルーファスだ。ルーって呼んでくれ」
私が尋ねると、小人さんはそう答えた。すると今度はウォルが、何かに気づいたように小人さんを見つめた。
それからだった。二人が難しい顔をして、何も言わなくなってしまったのは。
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