森の魔物と春待つ乙女
猫屋ちゃき
第1話 雨の降る森
雨が強くなりはじめた。
もう陽も落ちて、濡れた体が寒い。
震える体を抱きしめても、少しも温かくならない。
指先の感覚がなくなっているのがわかる。
カタカタと、歯の根が合わない。
ただ暗くて黒いだけの虚空を見つめて、私は絶望していた。
寒くて、心細い。
ザンザンと降る雨の音だけが、世界を包んでいる。
たとえ「助けて」と叫んでも、ここには誰もいないし、この真っ暗な空間が私の声を吸い込んでしまうだろう。誰にも私の声は届かない。ひとりきり、凍えていくだけだ。それは、静かな絶望。
(もしかして、私はこのまま、ここで死んじゃうのかしら)
そんな恐ろしい考えがふと頭をよぎるけれど、それを振り払う元気が残されていない。
知らない森の中で、こんなふうに独りしゃがみこんで雨に打たれて……寂しくて、涙が出てきた。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。
「この天候不良の原因を探りに、森へ行って来て欲しい。クラウディアの孫である、エミリアにしか頼めないんだ」
ひとりで暮らす家に村の偉い人がやってきてそう言ったとき、「ああ、そういうことなのか」と私は納得した。納得して、傷ついた。それは、私を世界の外へポンッと放り出すような言葉だったから。
これはようするに、厄介払いだ。そんなの、まだ子供の私でもわかる。
村の偉い人たちは、そんなまるで“お願い”をするような言い方で、私を危険な場所へと向かわせようとしているのだ。
でも実際は、それは脅しだ。選択肢のない私に“お願い”するのは脅して押し付けるのと何ら変わりない。選ぶ権利のない私は、たとえそれが不本意であっても従うしかなかった。
両親を早くに亡くした私は、おばあちゃんに育てられた。そのおばあちゃんも亡くなってしまえば、私は天涯孤独。
そんな十五歳の、まだひとりでは何もできない私をどうするか話し合って、出た答えがそれだったのだろう。
危険とされる森へ行かせる――つまり、私は死んでしまっても構わないということだ。
何年か前から変な天候が続いて、作物が穫れなくなっていた。
蓄えもどんどん少なくなって、どの家もいっぱいいっぱいなのはわかっていた。
私を引き取る余裕のある家がないことも。
――でも、たぶんそれだけじゃない。
私は、私とおばあちゃんは、疎まれていたのだ。疎まれるようになった、というほうが正しいかもしれないけれど。
村が豊かで平和なときは良かった。
おばあちゃんは薬屋を営んで私を育ててくれて、村の人たちもそのお薬を頼りにしていた。物知りなおばあちゃんの昔話は、子供たちに人気だった。
いつでもおばあちゃんのお店には人が絶えなくて、そうやって村の人たちの支えになっているおばあちゃんは私の誇りだったのだ。
でも、良くないことが起きて、それが長く続くと、人は原因を探したくなる。誰かのせいにしないと落ち着かなくなる。
おばあちゃんが言っていた。
人は不測の事態に直面すると、それを乗り越えるために仮の敵を作ることによって結束すると。そうしないと不安のあまり人々の気持ちはバラバラになって、余計にひどいことが起きるからだと。
だから結局、私たちを悪者にすることに決めて、村の人たちは結束したのだろう。
今でこそ薬も魔法も、多くの人が使えるものになって生活に根ざしているけれど、大昔はそうじゃなかったらしい。
人々は、薬を作ったり魔法を使ったりできる一部の人たちのその力を利用しながら、畏怖と忌避の眼差しで見つめていたのだという。得体の知れない知識と力を持つ彼らは、自分たちとは違う危険な存在なのだ、と。
そんな古い考え方が村の人たちにも残っていたらしい。
だから、薬屋であるおばあちゃんに大昔の魔女の印象を重ねて、みんなは天候不良をおばあちゃんのせいにしようとしたのだと思う。
悪い魔女が何かしているんだ、って――。
それから、おばあちゃんはだんだんと冷たくされるようになって、そのまま病気になって死んでしまった。
これまで村の人はみんな、病気になったときにおばあちゃんの世話になったのに、おばあちゃんが病気になっても何もしてくれなかった。それどころか、これまで薬や治療の引き換えにと届けてくれていた食べ物も滞るようになった。
それは、ゆるやかに確実に、おばあちゃんを排除しようという村の人たちの意思だったのだろう。
その意思通り、おばあちゃんは村の中から排除され、消えていった。
そして今度は残された私を排除するために、森へ行かせることにしたのだと思う。積極的に私を排除することは良心が許さないから、何か理由をつけて私を消してしまおうという意思を感じる。
この森には怖い話がある。
恐ろしい魔物が住んでいて、迷い込んだ人間を食べてしまうという話だ。
もう何十年も前に、実際に村の若者が何人もいなくなっているのだという。それがうんと昔の話なら、きっと人は信じなかった。でも、おばあちゃんが子供の時の話なのだという。まだいなくなった人のことを記憶している村人がいる限り、それは単なるおとぎ話ではなく本当にあった怖い話として、子供にも語り継がれていく。
そんな話があるから、村の人たちはこの森を黒い森と呼んで近寄らない。子供たちが間違って入り込んでしまわないように、大人たちは厳しく言い聞かせ、目を光らせていた。
おばあちゃんは、魔物がいるなんて怖い話はしなかったけれど、それでも「人間がほいほい踏み込んではいけない場所もあるんだよ」と森へ行くことは私に禁じていた。私に何かを強制することのないおばあちゃんが、それだけはいけないと強く言っていたのだ。
そんな場所へ、村の偉い人たちは私を送り出した。
さしずめ、私は魔物への生贄といったところだろうか。
そんなふうに思うのは、村の大人たちが森へ分け入って行って魔物を倒すか、機嫌を取るかという話し合いをしているのを聞いたからだ。
何て幼稚な発想なのだろうと思う。
天候を左右するほどの魔物が、私ひとりを生贄に捧げたところで気を鎮めるはずもないのに。
魔物にとっては、私はただのちっぽけな小娘だ。食べても美味しくないし、きっとお腹も太らない。
普通に考えれば、私なんて何の役にも立たない。
だから、私もみすみす死ぬために来たわけじゃなかった。
天候不良の原因を探って、問題を解決して村に帰る気でいたのだ。
そうすれば、私にも居場所が与えられるかも……そんなことを期待していた。いや、居場所を与えられるためには、そのくらいの成果がなければならないと思ったのだ。手ぶらで戻れば、再び森へと追い立てられるに違いないから。
薬屋だったおばあちゃんはすごく物知りで、そのおばあちゃんにいろんなことを教わっていた。それに、お勉強も頑張っていたから、私はそれなりに賢いと思っていた。
賢い私になら、もしかしたらみんなが考えもしないことができるんじゃないかって。
誰かが行かなくてはならないのなら私が行こう――そう覚悟も決めてきたのに。
でも、現実は厳しいもので、こうして雨に打たれて身動きが取れなくなってしまえば、私は無力だ。
何日か野宿をすることになっても大丈夫なようにと、火を起こす道具や食料も持って来ていたけれど、こんなふうになってしまえばすべて役に立たない。
雨風から身を守るための毛皮も、獲物を狩るための爪も牙も持たない人間の私は、こんなにも弱いのだ。
そんなこと、今まで考えもしなかったけれど。
森の中は真っ暗で、目を開けているのかも瞑っているのかも、もうよくわからない。暗闇に飲まれて、自分というものがなくなってしまいそうな、そんな感覚すらする。
(おばあちゃん……おばあちゃんの作ってくれる温かいスープが飲みたい)
薄れゆく意識の中、不意におばあちゃんの笑った顔が浮かんだ。
こんなふうに突然の雨に降られて帰ってきた私を、おばあちゃんはいつも優しく迎えてくれた。
体を拭いて、着替えを用意してくれた。それから美味しいスープを作ってくれたのだ。風邪をひかないようにと、冷えた身体が芯から温まるようにと。
おばあちゃんの作ってくれるスープは香草たっぷりで栄養が詰まっていて、おばあちゃんの優しさそのものだった。
あの温かさが恋しい。
もう二度と、あの幸せだった日々に戻れないのだと思うと、ふっと体の力が抜けていくのがわかった。
そのまま、どのくらいの間そうしていたかわからないけれど、ほとんど途切れそうになった意識の中で、私は自分の体が宙に浮くのを感じた。
(絵画の中で見たことがある、お迎えというやつかしら?)
そんなことを考えていたら、今度はゆらゆらと揺れるのがわかった。
死ぬときは、高く高く飛ぶように空へ登ると思っていたのに、今感じるのはそんな浮遊感ではない。
誰かに抱えられて運ばれる、あの感覚に近い。まだ小さかったとき、お父さんやお母さんに抱っこして運ばれた、あの感覚だ。
意識して目を開いてみたけれど、暗くて何も見えなかった。
見えないけれど、体を包み込まれる感覚は心地よい。ゆらゆらと、揺りかごに揺られているような安心感がある。
あったかで優しい、私を傷つける意思のないものに触れられているという安心感だ。
(これは、何かしら?)
懐かしいようなその感覚が何なのか考えているうちに、私の意識を手放した。
「大丈夫。今はゆっくりおやすみ。安全なところに連れていってあげるからね。そこは暖かくて、君を傷つけるものなんて何もないところだよ」
夢の中で、そんな声を聞いた気がした。
それは知らない人の声だったけれど、優しくて柔らかくて、すごく安心する声だった。
だから私は、ふわふわと幸せな気持ちで、夢の中に深く意識を預けたのだった。
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