第25話 ナロープッシュアップ

「あっ…あぅ…ふぅっ!…」


 艶かしい声がする。息を荒げて必死に感情を押し殺そうとするようなつぶやき。いいや声を我慢しようとする物のつい盛れ出てしまう喘ぎ声のような、そんな喜色に満ちた物だった。今この部屋の中では1人の人間が衣服を脱ぎ捨てて自らの行為に夢中になって励んでいる。


 こう聞くと大変卑猥な行為に聞こえるだろう。実際に女性が行っていた場合、情事をイメージさせる様な淫らな光景に違いない。けれども残念な事に、否一部の人間に取っては幸運な事にその喘ぎ声を出しているのは男性であった。というかマッチョであった。それは、まるでジョージが行っている様な逞しい過負荷を伴う筋トレであった。


 筋肉の額から汗の雫がおちる。汗という名のフレグランスを床に滴らせながら漢は尚も筋肉を痛めつける行為に余念がない。職人が神経を尖らせるように、軍人が己の銃の手入れを怠らぬように、彼は筋肉トレーニングを行っているのだ。それもただのトレーニングではない。



ナロープッシュアップ、である


 これは簡単に言ってしまえば腕立て伏せの事だ。両の掌の人差し指と親指で正三角形をつくるように近づける。そうする事で従来の腕立て伏せよりも更に過酷な負担を筋細胞へと与える事を目的とする。実際にやってみると分かるがかなり苦しい作業である。けれどもそのマッチョは微笑みながらそれを行っていた。


一回

六回

十二回


 大切な事はじっくりと尋常でないくらい長い時間を駆けながら行う事である。おじいちゃんのトイレ位長い時間をかけてじっくりと筋肉に負担をかける。また、その際に筋肉の動きを脳内で認知する事がコツだ。どの部位がどの程度の負担を受けているのかを常に意識する事が何よりも重要なのである。


 これらの方法により自身の筋トレの効率は大幅に増していく。弱火でじっくりと調理する事でうま味を増す調理法があるのはご存知だろうか?あれとはまるで違うがそういう事である。


 ミチミチと音を建てる上腕三頭筋。負荷が発生する事で産まれる筋細胞の呼吸は黄金にも等しい価値を持つ。荒くなる呼吸は明日への渇望へ、そして未来へのマッスルへと生まれ変わるのだ。自身の細胞が酷使され破壊されゆくこの一瞬一秒。この瞬間こそが堪らなく心地が良いのだ。



イメージしろ

想像するは常に最高の自分


漢は汗を流し己の象徴に呼びかける

筋肉という名の友との共闘

筋トレという名の熱いコミュニケーションを交わす。


息を長くじっくりと吐きながら

己の日課を柔軟に行っていくマッスル


一通りの行程を終えると満足げに息を漏らす天馬

その顔はなんとも満足げな表情だった


この異世界に着てから

彼は一日たりとも筋トレを怠った事などなかった




かつてジムマシンがないという日常に絶望しかけた。


 ボディビルダーにとってのジムマシン、すなわち器具を利用したトレーニングは不可欠な生命線と言い換えてもいい。マシンの使用の有無で筋肉の育成効率は劇的に変わると言っても過言ではないからだ。


 ジムマシンを使用しない。それはRPGゲームで『ひのきの棒』のまま全裸で魔王に挑むような物だ。魔王はおろか村人も失笑ものである。マシンを使用しないボディビルダーなど翼をもがれた天使にも等しいのだから。


マシンチェストプレスがなければ

どうやって大胸筋を育てれば良いのだと


レッグエクステンションが無いのなら

大腿四頭筋が育てられないではないかと



 レッグプレスが無いと気がついたその時、彼がこの世の終わりを実感し絶望するのも無理は無い事だった。戦力外通告を受けたプロ野球選手よりも恐怖した、一切の希望を見いだせない陰鬱な表情だ。


 絶望に身を投げパンツを引き裂いて全てを終わらそうとしたその瞬間、自身の脳内である1人のマッスルが語りかけて来た。


君はそれでいいのか、と



はっとしながらパンツを片手に呆然とする天馬

彼の脳内ではなおもマッチョに語りかけるマッチョが存在していた


炭火焼に失敗したハラミのような黒く焼けこげた肌

ラクダのこぶの如く盛り上がった僧帽筋


間違いが無い

ボディビルダー界の歩く人間国宝とまで呼ばれたあの漢


読者諸兄もよくご存知のあの人物


マッスル中橋が

天馬に対して語りかけていたのだ


『ジムマシンがないだって?本当にそれだけの事で絶望するのかい?』


『し、しかし……』


『プロテインとは魔法の飲み物ではない。ダンベルが鉄の固まりに過ぎないのと同じようにね』


『っ!?』


『ダンベルが無ければ自重トレーニングを行いなさい。君にはジムマシンがなくとも立派な肉体があるじゃあないか』


情けなく動揺するマッチョに対して

マッチョは優しく微笑みかけた


 それは幻覚だったのかもしれない。あまりの恐怖と絶望が生み出した幻想だったのかもしれない。しかしこの時、天馬の脳内では焼けこげた小麦色の肌の眼鏡をかけたマッチョが確かに存在していたのだ。眼鏡マッチョは愛おしげに天馬に対して微笑みかけた。



「あぁ…あっああ…あああああ!!」


 天馬は泣き崩れた。ジムが無ければなにもできない、そんな甘ったれた事をぬかす自分に偉大なる先達が喝を入れに来たに違いない。それは奇跡の出会いだった。指導者が予言を告げに来た天使と邂逅したように、彼は1人のマッチョを通して神の寵愛を感じた瞬間でもあった。


マッスル中橋


その偉大なる功績をのこしたボディビルダー界の英雄は

自身の生涯の最期にこう言い残した


 ボディビルダーとはジムへ通い、黒光りの筋肉をテカテカに輝かせて見せびらかす存在の事ではないのだと。筋肉を愛し共に有り続けたいと願うその気高き在り方を言うのだと



天馬はあの日の事を今でも忘れない

いいや、マッチョがマッスルで有る限り

決して忘れる事等ないのだろう


いつだって漢の脳内にはマッスル中橋が笑顔でそばにいるのだから


be with the muscle

常に貴方のそばに 筋肉が共に有らん事を




彼はこの世界に来てから

一日たりとも筋トレを欠かした事は無い

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