39.刃物を研ぐ鬼婆

 目覚めて真っ先に聞こえきたのは包丁を研ぐ音。


 砂音の冗談だろうと思いつつテーブルの方を見れば何の怪談か。向かいには、こちらを見ながら刃物を研ぐ鬼婆の姿が。


「……」


 いくら寝ぼけていたとしても言い訳できなさそうな、同族意識が呼び起こしたのだと思われる失礼極まりないイメージを振り払って。


「何してるんですか」、と。


 改めて僕は、いつの間にか上がり込んでいたらしき浮月さんのお母さんに尋ねた。すると彼女はこちらを見て。


「娘が帰ってこなかったものですから」、と。


 浮月家の家訓では、その家族が帰ってこなければ心当たりがありそうな相手の家で包丁を研ぐのかと余程尋ねようかとも思ったけれど、二日酔いのせいにしても八つ当たりに過ぎる。


「死にましたか?」と尋ねられて。

「はい」と反射で答えてしまって。


 ……。酔いのせいでなく、純粋に青くなる僕の向かいで。そうですかと呟いたきり、また手元の作業へと視線を戻す。よく見るとその包丁はうちのものだった。


「倒れておりまして」

「……はぁ」


 その主語が僕であると、意味が通じるのに少しかかる。


「何か作って差し上げようかと思ったのですが」

「……」


 待っていてもそれ以上の説明が続かず、省略されたのだろう文意を書き起こすなら、つまり。


 浮月さんの御母堂は娘が帰ってこないのを心配して、事情に明るそうな僕の家へと馳せ参じたは良いものの、不用心なことにその家は鍵が閉まってなかった上に居間へと上がってみれば家主は未成年飲酒で寝転がっており、ひとまず介抱のつもりで朝食(もしかしたら昼食かもしれない)を作ってやろうとしたがあいにく星田家の包丁はなまくらで、何はともあれ研がねば料理に取り掛かれまいとしていたところで、僕が目を覚ましたと。


 ……。少なくともたった二行の台詞で伝えるべき文量ではないかな。なんて頭痛を堪えるための詮ない思考は置いておいて。


「……そうですか、死にましたか」


 どこか安堵したような声に顔を上げる。


「嬉しいのですか?」


 こちらの棘に気付いたのか否か、諦念すら滲ませた微笑みで。


「わかりません」、と。

「……」

「あれは私どもの罪の形でした。同時に『あの子』の優しさの証しで、」


 だからこそ。責任と惰性で続いていた家族だったのかもしれない。されど僕はそんな言葉が聞きたくなくて。


「本物の『浮月志保』は、ずっと前に亡くなっていたんですよね」、と。

「……」


 彼女は答えず自身の持ち物を引き寄せて、中から巾着らしきものを机に出しこちらへと押しやった。


「『娘』から先月預かったものです」


 もしものことがあれば星田さんに渡すように、と。


「……」


 恐らくそれは僕が知っている方の『浮月さん』の遺品で、今彼女は確かにその主語を『娘』と呼んだ。


 つまりはそういうことだろうと息を吐いた。のも束の間。


「防空壕の、鍵です」

「……防空壕?」

「うちの社の裏に隠し階段があって」


 これが簡単な地図です、とチラシの裏紙を渡される。


「……」

「中身が何であるかは存じません」

「……どうして」気付けば僕は尋ねていた。「浮月さんとの約束を守るんですか」

「……」

「詳しく知りませんが、彼女はあなた方に疎まれていると聞いていました」


 生まれつき病弱だった実娘の依代として用意されたにも関わらず、心まで成り代わってしまった生き人形。


 それが『浮月志保』という名を分け与えられた『忌み雛』の正体なのだ、と。


「もちろん責めるつもりはありませんし、その資格も僕にはないでしょう。ただ、今更に彼女の想いを果たそうなんてどういう風の吹き回しかな、と」


 迷ったように少しだけこちらと視線を交わして。


「言ったでしょう。わかりません」、と。

「……」

「ただ。あの子が私どもの娘であったことには違いありませんから」

「罪悪感ですか」「違います」、と。

「私たちの娘であろうとしたんです」


 心なしかその疲れた無表情に憤りが含まれて見えたのは、流石に僕の願望混じりだったのかもしれない。


「子が遺したものを、親は無下にはできません」


 と、再度それに手を添え押しやる。


 事情は十分にわかった。だからひとまず先に無礼を詫びる。


「偉そうな訊き方をしてしまい申し訳ございませんでした。しかし」卓上の巾着を押し返す。「そんな深い想いを込められたものであるなら尚更、僕にはこれを受け取る資格がありません」、と。

「……」

「僕は」声の震えを抑えきれないまま。「浮月さんを裏切りましたし」


 と。


 舌打ち。「え」微かに聞こえて。


「お黙りください」

「………………」、既視感。


 浮月さん(母)はこちらの肝を潰すに十分な、初めての笑みで。


 はっきり申しましてですね、星田さん、と。


「そちらの女々しい感傷など私どもの預かり知るところではありません。がたがた抜かさず手前をどうぞお納めください」


 そう笑みを向けられて、誰が口答えできるだろうか。


「あ、はい」


 押し出したばかりのそれを震える手で引き寄せながらに思うことは、一度微笑むとぞっとするほどの美人なところまでやはり親子なんだな、なんて。


 この場面で考えることがそれなんて、自分でもどうかしてるんじゃないかと思う。いや本当に。


「いいですか、星田さん」と、やっぱり既視感。「あなたがあの子に何を為したかなんて知りませんし知りたくもありませんが」


 何故か研ぎたての包丁を握りっぱなしなままに。刃先を向けて。


「少なくともあなたには責任があります」

「……」修羅テン。いやいや、まさかまさか。「責任、ですか?」


 責任です、と頷く。


「誰かとともに生きるということをあまり軽く考えないでください。それは本来、生半可な覚悟で行えるべきことではありません。誰かの奥底に自分のための場所を作ってもらうということ。自分の欠片をそこに置いて、夢や意志を分け与えるということ。あの子はそんな大切な相手に、他の誰でもないあなたを選んだのです」


 そこで我に返ったかのように沈黙、一息置いて。筋違いもわかっていますが、と断りながら。


「星田さんの内側に残されたあの子の欠片を、どうか」


 ……。


 途切れた先の言葉は僕の中でも簡単に続けられて、それが続けられなかった理由もわかりすぎるほどにわかっていた。


 なるほど先の言葉数の少なさは過剰な本心を漏らさないためだったかと思いつつ、ここで即座に諾と返事ができていれば、僕としても自分をより良く誇れたものだったけれど、現実の僕は彼女の今にもこぼれ出しそうな瞳を前に何と返すこともできなかった。その仕草をどう判じられたのか、先に逸らされる。それから、と真ん中で割れている酒瓶に目をやって。


「若いうちのお酒もほどほどに」


 身体に悪いんですから、と。


 僕がシリアスを維持できたのはそこまでで、思わず吹き出してしまう。

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