19.二年前に消えたはずの僕の妹がそこにいた
「ただいま」「おかえり」
自宅の扉を開けて一歩目。期待もしていなかった返事が奥の方から返って来て束の間、固まる。奥へと足を踏み出しかけて、ともかくひとまずは靴を脱ごうと思い直し、一連の動作をこなすことにさえ苦労した。奥へ。
「お兄ちゃん、おかえり」
そして台所にいた彼女はもう一度、振り返ってそう言った。誰だかなんて問うまでもないし、何故やどうしてと尋ねることさえ不要でしょうと言わんばかりに。
それでも目の前の光景は昨日にはなく、かと言って過去にもなく(つまり妹の料理姿)、今日突如として現れたもので、こちらとしてはそれなりの説明が欲しくて、挨拶以上に何も語ろうとしない彼女の背後に立ち尽くしてみたりもする。
「……」
星田砂音。二年前に消えたはずの僕の妹がそこにいた。
初めて見る制服姿にエプロンをして、菜箸を持ちコンロに向かって、彼女は鍋の中身を見ていた。
微かに醤油の匂いがして、いつの間に料理ができるようになったのかなんてことを思う。ぱっと見た印象ではちょうど鍋から手が離せないようだったけれど、それすらも体よくこちらと向き合わないためのポーズに見えた。いや、これは僕の僻目だろう。いくら身内とは言え、訊きたいことがあるなら最低限それなりの礼儀というものがある。
「帰ってきてたんだ」
動揺を押し隠して何とかそれだけを口にした。
「昨日ね。あ、お兄ちゃんこれ使って良かった?」
そう指した先には空のタッパー。今朝に浮月さんが置いていってくれた腕だった。
「それは良いんだけど」
その中身が誰か尋ねられたらどうしようかと悩むところだったけれど、幸いにして彼女は特別気にした様子もなかった。
あるいはそれさえも牽制かと疑ってしまう(僻目二回目)。
「それよか制服着替えてきなよ」
そう追い出されて、普段は風呂に入るまで着替えもしないところを素直に自室へ戻る。自分だって制服のまま調理してるくせに、とでもとっさに言えていれば、兄貴ヅラも多少は様になったろうなんてことを今更に思い、ワイシャツのボタンを上から外しながら独りごちる。
「……そっか、帰ってきたのか」
どうしたら良いんだと首を傾げて、ひとまずおかえりを言わなくちゃと思った。
妹が用意した夕飯はカレーだった。
醤油の匂いがしたはずなのにと首を傾げつつ、砂音の向かいに座る。
「人肉初めて使ったよ。火が通らないね」
と、どこか所在なさげに笑う。
恐る恐る口を付けてみたカレーは良くも悪くも普通のカレーだった。残っていた野菜類に大したものはなかったはずで、たぶんカレー粉すら僕が普段使う買い置きを使っただろうから、違いはと言えば味的にも見た目的にも具材の切り方くらいにしか出てこない。
褒める言葉の代わりでようやく尋ねることができた。
「どうしていなくなったの」
「旅行」
どんな言葉が返ってきても困っただろうけれど、簡潔に嘘を答えられると一番困ってしまう。
されど乗る。
「国内?」
「海外。お母さんの親戚を辿ったの」
「……うちに親戚なんていたの?」
しかし砂音はその問いには答えずに、何かの呪文めいたものを呟いた。
「これね、ルーマニア語」、と。
拾って捨てるコミュ力。まさかこの子も『普通部』か。
なんて冗談を思いつつ、踏み込み不足な合いの手を返す。
「結構遠くまで行ったんだね」
「お兄ちゃん、」今更気付く。
彼女がまだ一口も自分の皿に手をつけていなかったことに。
そして唐突な。
「浮月さんと別れて」
「……ん?」
彼女の口から出てきたそれはやっぱりよく理解できない語彙で、またルーマニア語かとも思ったけれど、妹の強張った口元にそう尋ね返せるほどの神経を、あいにく僕は持ち合わせていなかった。
えっと、あれだ。
その件につきましては鋭意前向きに「真面目に答えて」
……修羅場テンプレ。
いや、もちろんこれも違うだろう。
「そも付き合っていないよ」
「あの子って浮月筋の肉人形でしょ」
君の透視能力はわかったからこれ以上僕の心臓強度を試さないで欲しい、なんて。
『肉人形』。それは浮月さんが抱える『異常』を指し示すのに十分な悪意だった。
「確か本人は『忌み雛』って言ってたけど」
「自称なんてどうでもいいよ」
と、怒ったような勢いに任せてようやく自身のスプーンを口に運んで。途端、きょとんとしたような顔に味噌が足りなかったかなと呟いた。
カレーのどこに味噌を突っ込むタイミングがあるだろうかと僕は戦慄し、怖すぎる言葉は聞かなかったことにする。
「ただの部活仲間なんだ」
「知ってるよ『普通部』でしょ」
「だから、さっきからどうして」
そんなことまで知っているんだ、なんて馬鹿げたことを尋ねかけて。ようやく気付く。
そう言えば砂音が着ている制服は、僕の通う学校のそれと同じだと。
二年ほど顔を合わさなかったからと年齢差が変わるはずもなく、記憶が正しく時空も歪んでいなければ、現時点の妹は高一で僕のひとつ下だろう。
浮月さんの言葉を思い出す。あの学校では今、二つの『異常』が重なっている、と。
僕や浮月さんと。もう一人。感染源。
「……」
色んな物事が脳裏で繋がった気がして、勘違いであってくれれば御の字とは思いつつ。
「君が白地さんを殺したの」、と。
そう問いかけた声は震えていなかっただろうか。
しかしあっけらかんと。
「そうだよ」困ったように笑った。「もうとっくに知ってると思ってた」
「あー、」
どうしろと言うんだ、この状況。
現実逃避に口まで運んだ物体からは、カレーの味が薄れつつあった。
無理に飲み下した勢いで尋ねる。
「もしかして二年のクラスを、頭から順番に襲わせてみたり?」
「知らない。白地ちゃんに任せっきりだから」
年上をちゃん付け。
「でもまぁ、そのうち。学校ぜんぶ乗っ取りたいなって」
その言葉に改めて状況の逼迫具合を痛感、僕は戦慄した。
身体の震えを抑えきれず、スプーンの先が皿をカタカタ鳴らした。
まずい。まずいまずい。すごくまずい。
「どうかしたのお兄ちゃん?」
「……えっと」
たぶん。あくまでたぶんだけれど、僕は。
浮月さんにものすごく怒られる。
妹が今回の事件の主犯だったこととか、その兄のくせにまったくそんな可能性に思い至ってなかったこととか、そもそも妹の存在を浮月さんに話していなかったこととか。
そんな長々とした説教を予感して、僕の背中は冷水でも突っ込まれたみたいに凍え切る。右肩から先はいつのまにか機械じみた何物かに置き換わっていて、ベルトコンベア的に運ばれて来るスプーンの上のヘドロ状物質からはすでに何の味もしなかった。
しかしどんな時でも探してみれば救いの糸とはあるもので、天啓は羽のように舞い降りて気付けば頭の片隅に居座っている。
「……いや、きっと大丈夫」
「そう……?」
僕は妹の正体を浮月さんには黙っておこうと決意した。
嘘を吐くわけでもなし、黙秘は人類に許された永劫の権利で、僕は今こそ見ざる聞かざるの末席、三番手に置かれた猿になる。なんて。
そうすると差し当たっての問題は目前の、妹からの追求だ。円滑な人間関係。例え立場上は敵であろうとも言葉は通じ、きっと友好は結べる。
脳裏にあるのは部則第一条。『適応する姿勢を見せよ』。
さて、と僕は口を開く。
「どうして僕に『普通部』をやめてほしいの」
「どうしてそんなこだわるの」
質問を質問で返され、出鼻をくじかれる。
「浮月さんとは仲良くしておきたいのだけど」
「そんなの気にしなくても大したことないじゃん」
……。
そこでようやく既視感を覚え始めて、気付いてしまう。
いつの間にやら兄妹の認識にかくも齟齬が生まれてしまったのだろうかと考えていたけれど、恐らく彼女自身は何ら変化していないのだと。変わってしまったのはきっと僕の方で、だからたぶん横車のつもりもなく本当にわからなさそうに、砂音は微笑んだ。
だって、と。
「昔からそうだったでしょ、うちら兄妹」
「……」
言われてみればそうだったと思い出すのは僕の方だ。
僕らはそんな風に周りの被害を顧みず生きてきた。というより、僕たち家族はそんな存在だった。しかし今個別のエピソードを思い返してみれば、どれも『部則』には馴染まないことばかりでどこか身の縮む思いがする。黒歴史。
なるほど、僕が『普通部』で学んできたのはこういうことだったのかもしれない、と。
たかが一月半。されど一月半。
その重みを込めて。
「趣旨替え、したんだよ」、と。
「あ、そう」
しかしさして興味もなさそうに。
「それよか、別れなって」
「……えー」
人の話を聞かないのは幼さかそれともそういう打算なのか、なんて多少戸惑う。
それにしてもこういうずるさだってある種の技術というか、恐らく上手く生きていくためのコツで、わかりやすい単純な暴力でのゴリ押しから徐々に距離を置きつつある彼女の方も、僕とは違う道ながら何だかんだで人らしくなってるみたいじゃないのと嬉しくなる一瞬。
精一杯の威厳を期待して、こほんと咳払い。
「ともかく、浮月さんには借りもあるしそう簡単には抜けられないよ」
むろん貸し借りだけじゃないけど、そういった細々とした機微をここで一から百まで解説するほどの暇は、あいにく持ち合わせていないし。
むしろそれより。
「どうして学校を乗っ取ろうとしてるの?」
「……どうしてって、何?」
「……」
その底冷えしたような硬い声音に瞬間、寒気がした。
「どうしてってのにも色々あるよね、お兄ちゃん。動機、理由、それから目的」
「僕が訊きたかったのは。」
それは妹が今更になって帰ってきた。
「動機かな」
「……」
彼女はしばらく、答える気もなさそうに僕の口元の辺りを見ていた。
しかしやがて。
「復讐かな」、と。
「……」
「私はね、お兄ちゃん」
ものすごく怒ってるんだよ、と。
今すぐ叫び出したいのを堪えるような震えさえ滲ませて、見てるこちらが苦しくなってしまうほどの笑顔で言うものだから。僕は束の間言葉を見失う。
「……怒ってるって、誰に?」
「誰にって、言われても難しいな」と、ぼかされる。「人間かな。もしかしたら」
神様かも。と続けた。
「神様?」
「お母さんがね、」そして唐突に。「今も戦っているの」
「……」
「戦ったって仕方のない相手だよ。『彼ら』は私たちが人の形になり始めるよりも前の時代から、この世界に住み着いていたんだから、そもそも殺せる相手でもないし、むしろ向こうだって私たちを個別に認識して殺したりできるようなスケールじゃないんだ。だけどお母さんはそんな奴らを一人残らず叩きのめそうとしている」
私はあの人を止めたくて、だからその手伝いをしているの。
と言われて、僕は首を傾げる。
「矛盾してない?」
「してないよ。何を言っても止められないなら、何もしないよりマシじゃん」
なおも首を傾げる僕に痺れを切らしたかのように、それで、と。
「お兄ちゃんは結局、浮月さんと別れてくれないの?」
「別れるというか、僕が『普通部』を辞めたらどうするつもりなの」
「遠慮なくあそこ潰せるかなって」
「……」
聞けば聞くほどに妹と浮月さんの敵対は必至で、仮にこの場では、僕が『普通部』を辞めるから彼女には手を出さないでくれと頼んだとしても、どうせ本人が白地さんらへの襲撃をやめてはくれないのだろう。
むろん浮月さんのせいにするつもりでもなく。
「悪いけど、やっぱり無理だよ」
そんな返事など予め知っていたかのように少しおどけて。
「じゃあお兄ちゃんごと潰しちゃうね」
と、スプーンを突きつけられる。行儀の悪い。
「どうしてそう簡単に白黒するの」
微妙にスプーンの射線から外れつつ、玉虫色万歳な僕は苦言を呈する。
僕の視線をしばらく正面少し斜めから受け止めて。こちらの意志が変わり得ないことでも確認したのか、砂音は落胆したように肩を落とした。
「そっか……お兄ちゃん取り込み失敗か」
「ん?」
何となく既視感を覚える光景、再び。それは幼いころ見慣れた仕草だった。
この妹は何かをやらかした時、反省するより先に兄を共犯へと引きずり込もうとした。それが失敗してようやく申し訳なさそうな顔をするのだ。
大方こういう時は、すでにやってしまったことの誤魔化しに失敗している最中だっけ。
と、案の定砂音はこう続けた。
「先に謝っとくけど、ごめんね。お兄ちゃん」
「……何が?」と、嫌な予感。
手を合わせて。
「浮月さん今頃、殺されているかも」
血の気が引く瞬間。
呼び止める彼女の声を一顧だにせず、僕は居間から飛び出していた。
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