机上探偵ファンタジア
柳よしのり
プロローグ
*
それはよく晴れた暖かい春の日だった。
交番勤務の
阿久巡査はパトロールが好きだった。街を見回り、人々が平穏無事であるときが警察官という職業にあって一番に務め甲斐を感じるのだ。顔馴染みになった地区のご老人達から「ご苦労様」の一言でもあれば、その日は書くのが億劫な勤務日誌ですら喜々として書けてしまう、阿久巡査はそんな男だった。
だからその日も、勤務時間も残りわずかに差しかかり、道を聞かれただけで万引きの通報すらない平和な一日が終わったと、ある種の満足感にも似た感情を覚えていた。あとは交番に戻って雑務を済ませれば、帰って一杯やろう、そんなことを考えて自転車を漕いでいた。するとどうだ。静かな住宅街だというのに騒がしい物音が聞こえてくるではないか。阿久が自転車のペダルを漕ぐ足を止め、その音源を探すと、今し方に通りがかったワンルームアパートの二階、その一室の扉を乱暴に叩いて声を上げている男がいた。
どうやらその男は、何度も部屋の住人を呼んでいるようだが、どうにも様子がおかしい。パトロール中である阿久巡査がそれを無視出来るはずがない。
「どうかしましたか?」
阿久巡査が素早く駆け寄りかけた声に、その男は表情を固めて身を固くした。それだけで不審者と断定するわけでもなし、大抵の人間は警察官に声をかけられればそんな反応をするものだ。だから阿久巡査も、どうにも居心地悪そうに目を伏せたその男に、改めてゆっくりとした口調で話しかけた。
「こちらの部屋の方に何か?」
「あ、えっ、あ、その、僕は宮井の同僚なんですけど」
宮井? と一瞬、阿久巡査は疑問に思ったが、なんてことはない。この表札もかかっていないワンルームアパートの住人の名前だと直ぐに思い至った。
「彼女、会社を二日も無断欠勤して、携帯も出ないし、それで課長から、家が一番近いから様子見てこいって言われて……」
制服の警官を前にしてまだ緊張しているのか、その男の説明はあまりわかりやすいものではなかった。しかし、阿久巡査も職務質問などでそんな態度の人間には慣れたもので、大体の事情は把握出来た。宮井というこの部屋の主が音信不通になっているらしい。
「部屋は留守なんですか?」
「返事はないんですけど、でも、中には居るようなんですが」
そう言われれば、玄関横の窓越しに薄っすら蛍光灯の明かりが点いているように見える。扉に耳を近付けてみれば、テレビ音声に聞こえる音もする。
阿久巡査もインターホンを鳴らしてみるが、室内からの応答はなかった。
「すいません。警察ですが」
阿久巡査は室内に聞こえるように声を張り上げ、男に習ってドアを叩いてみたが、それでも住人が出てくることはなかった。直ぐにノブに手をかけるが当然のように鍵がかかっている。念の為に玄関横の窓、恐らく炊事場の窓だろう、その窓枠に指をかけるが施錠してあるのかピクリとも動かなかった。
「住人の方と二日間連絡とれないのですか?」
「えっ? い、いえ。三日前に有給とって休んでて、その前が週末だから……」
つまり、六日経っている可能性があるのだ。阿久はこれまでの経験から嫌な予感がした。こういう状況は珍しくなかった。独り暮らしの人が急病に倒れれば、発見が遅れてしまう。そうして亡くなった人を阿久巡査は何人も見てきた。幸運にも治安の良い地域を担当してきた彼だからこそ、病というのはごく自然に突然やってくるものいうことを嫌という程、目の当たりにしてきた。
折角、平和に一日が終わろうとしていたのに、これはもしかする。阿久巡査は直ぐ様、無線で状況と部屋に入る旨の報告をした。そして部屋の鍵を持ってくるよう、アパートの管理会社に連絡をいれる。警察官とはいえ、何の確証もない状態では、阿久巡査の一存で扉を壊して部屋に入ることは出来ないのだ。
管理会社の人間が来るまでの時間がもどかしい。しかし手持ち無沙汰に何もしないでいられる状況でもない。鍵が届くまでの間、やっと警察官という存在に慣れてきた同僚と名乗る男に対し、阿久巡査は自身の緊張が伝わらないようにと、出来る限り平然と、世間話を交えて事情の聞き取りを行った。
そして待ち望んだ管理会社の車が到着した。到着した管理会社の人間に、早く玄関を開けるようにと急かすと、阿久巡査は躊躇なく扉を開けた。
後から思えば、気密のいい近年の建築技術が恨めしく思える。しかし、何も知らない彼らは玄関を開ける意外の手段を持ち合わせていない。
その瞬間、室内の空気が弾けるように流れ出した。
むせる異臭。先程までは何の臭いもしなかったのに、室内には鼻を突く悪臭が立ち込めていた。
阿久は嫌な予感が的中したかと、顔をしかめる。いや、顔をしかめた本当の理由はそんなことではない。それは確実に死臭による嫌悪感そのものだった。
元より手狭なワンルームだ。玄関に一歩でも入れば部屋の中は一望出来る。出来てしまう。
「はははは……」
思わず漏れた声。笑い声にも取れるその声は、決して楽しかったわけでも嬉しかった訳でもない。阿久巡査は、我知らず肺から意味のない声が漏れ出ていたのだ。
これは何の冗談だろう、と警察官の阿久巡査ですらそう思ってしまう。部屋に敷かれたカーペットはその体液を存分に吸い込み、赤く、黒く、完全に色が変わっている。部屋の家具という家具には飛び散った血痕。そして部屋の中央には遺体。どこからどう見ても死んでいるとしか考えられない遺体が横たわっていた。
そんなもの映画以外で見ることがあろうとは、そこには全く現実感のない異様の光景が広がっていた。阿久巡査も警察学校で資料写真を見ていなければ、玄関から部屋を覗いた二人の男達と同様に吐物を撒き散らしていたのかもしれない。
二人に下がっておくように注意するのを忘れてしまったと、阿久巡査が後悔するゆとりすら何処にもなかった。
ただ、腰に付けた無線機を取るしか、無意識に応援を喚ぶしか出来なかった。
「東一〇三より本部。……
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