第21話キンモクセイ

 玄関に一歩足を踏み入れるなり緊張がゆるんで

しずくはかばんを背中から下ろすとどさりと床に放り出した。

首のあたりを締めつける窮屈なワイシャツと襟首にゴム紐を巻き付けて

着けるリボンをはぎ取るように外すとふうっとためいきを一つついた。

部屋着として使っている着慣れて柔らかくなった

古びたピンクのトレーナーに着替えてしまうと

しずくはベッドにどさりと倒れ込んだ。

「このごろ疲れやすくなったような気がする。

 どうしたんだろう。肩も凝るし」

 しずくは寝返りを打ったが腰に鈍い痛みが走って顔をしかめた。

「うっ,痛い。重い机をもったせいだ。これも全部あのばか男のせいだ」

と思うとますます大河のことが憎くなった。

耳の奥ではまだあの「愛してる」という絶叫が木霊していた。

「もともと虫が好かない奴だと思っていたけど最悪だ。

 気色悪いこといいやがって。」

と思うとかっかと体がほてってきた。

しかしそのうち睡魔が襲ってきてしずくは熟睡してしまった。

夢の中でしずくは5歳の幼児に戻っていた。

 家の庭にビニルシートをひいてしずくは由紀とままごとをして遊んでいた。

 キンモクセイの花の香りがあたりにたちこめていた。

しずくは小さい頃からこの花の匂いが大好きで

毎年咲くのを楽しみにしていた。

「ああ,甘酸っぱいいい匂い」

としずくは胸いっぱいにその香りを吸い込んでじっくりと味わった。

木から散った黄色い小さな花が地面に降りつもってまるで

特製のじゅうたんをひいたようだった。

 ふとあることを思いついてしずくは

「ちょっと行ってくる。」

と言って立ち上がった。

「おねえちゃんどこ行くの?」

と由紀が心もとなげにきいた。

「いいから待ってて」

というとしずくは姿を消した。間もなくして

しずくは大きなこうもり傘をもって戻ってきた。

「由紀ちゃん。かさをさして木の下に立って手ごらん。

 お姉ちゃんが雨を降らせてあげる」

というとしずくは木の幹をゆさゆさと揺さぶり始めた。

揺さぶられて落ちてきた黄色い花がかさの表面にぶつかって

ぱらぱらと音を立てた。由紀はきゃっきゃっと言ってはしゃいだ。

その後何度もこの遊びを花が終わるまで二人はくりかえし楽しんだ。

 とそこで夢が途切れてしずくは過去から狭い自分の部屋に戻っていた。

「ここはどこ!今さっきまでお庭で遊んでいたのに!由紀は?」

 戸惑いながらしずくは辺りを見回した。

「なんだ。全部夢だったのか」

ややあって完全に目が覚めてからもしばらく横になったままで

甘美な夢の余韻を楽しんだ。もう一度夢の続きを見ようと

また眠ったが今度はトイレで弁当をこそこそ食べる夢だったので

がっかりして目を覚ました。

「あのころは楽しかったなあ。でも今はひとりぼっち・・・

 便所飯までしてるって由紀が知ったらきっと軽蔑するだろうなあ」

 しずくはあふれる涙を抑えることができなかった。

「しずく!しずく!」

と階下から母が自分を呼ぶ声がしてしずくはあわてて跳ね起きた。

いらだっている声の調子におびえてしまった。

「何だろう。何か私のことを怒っているのかな。

 怖いけど早く行かないとよけい怒るぞ」

 しずくは急いで階段を駆け下りて居間に向かったのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る