DCDー警察庁警備局情報部亜人対策課
江木坂亭
2018年7月8日
あの熱い夏の日、僕は自身の訓戒に逆らった。
だが今になって思う。
人生に無為などない、どんな些細なことでも意味があり、全ては未来へ繋がっているのだと。
§
1917年から1937年までのあいだ、ハワード・フィリップス・ラヴクラフトはその短い人生の中で己を取り巻く環境と嘗ての悪夢、己の内に潜み宿る狂気を小説として書き上げた。
『こちらマザーバード、ストーク及びファルコンは現状を報告しろ』
彼が没し、オーガスト・ダーレスとドナルド・ウォンドレイらがアーカム・ハウス・パブリッシングを立ち上げるまで評価される事は殆どなかった作品群、その中では往々にして『人間が五感を通して認知している世界は真実のごく一部に過ぎず、世界の裏側とでも言うべきところには我々の常識を三度塗り替えてなお余る冒涜的な事実が隠されている。その事実に対し矮小な人間はそれを認知できていない、或いは無意識的に認知せずおり平穏無事に過ごしている錯覚を得ているだけに過ぎない』、といった具合の共通認識が根幹に存在している。
ロバート・アーヴィン・ハワードといったラヴクラフトの同士たちや、ラヴクラフトの後継者たちが世界観や設定の一部を引き継いだシェアワールド作品の中でもそれは同様である。
「こちらファルコン1、
なお、本事案において一般の負傷者が1名発生、被害者は男性、年齢は17歳から20歳
応急処置とD系感染症、及び同族化は簡易検査を完了、それらの兆候は見受けられないとするも、万一に備え対処の用意を願います
なお、先ほど報告した反復結界と
『ファルコン4が?“
「祝福儀礼済みの銀糸で聖句が刻まれたバンテージ巻いてタコ殴りにした後コブラツイストしてたわ」
『結局は肉体言語か』
「そんな所ね、ファルコン1、報告終わり」
だが、その認識は物語の中だけであろうか?
クトゥルフの呼び声のフランシス・ウェイランド・サーストンや、インスマスを覆う影の私のように隠された真実の一端を知り人知れず、狂気に呑まれた人間がいないと誰が断言できるだろうか。
『ファルコン3とファルコン5はパッケージの到着を待て、ヴァルチャーは待機を解除し直ちに出動せよ』
『ヴァルチャー了解、現場へ急行する』
『ファルコン3、了解です』
『ファルコン5、承知した!』
事実として、僕はほんの数分前まで世界の裏側に存在するのであろう異形の者に追いかけ回された挙句に横腹を切り裂かれ痛みに悶え苦しむ中、突如として出現したゴテついたウェットスーツのような服を着た女性に助けられ、ヘリに担ぎ込まれているのだから。
§
僕――
ただただ、毎日を勉強と友人たちと寂れたゲームセンターや各々の家で過ごす。彼女はいないのでゲームや漫画、小説の中に非日常的な刺激を求めて妄想に耽る。
だが、僕はこれを無為だとは思わない。非日常的な刺激――例えば魔法や異能力――など、創作作品の中だけで十分なのである。時に爽やかに、時に憂鬱に朝を迎え、学校へ行き、友人と語らい、部活に励み、夜を迎え、朝に備える。こうした何事もない日常が如何に素晴らしいものであり、尊ばれるべきものであるかを僕は父親から教わった。
「聡、世の中の見えない部分にどんな刺激があろうとも、覗き込んだり、あまつさえ足を突っ込もうなどと考えてはいけないよ
……ツァストラはかく語った!深淵を覗き込む時、深淵もまたこちらを覗いているのだ、と」
「あなた、それニーチェには違いないけど本が違うわよ」
母曰く、父は自身が語ったように刺激を求めて世界を放浪し、割と本気で痛い目を見ていたようである。2年前、自動車事故で両親を亡くしてしまった今その委細を知ることは叶わない。だが父の教えを実践するならば、それを知ることはいけないことなのだろう。
別に、父の教えだからと律儀に守っているのではない。僕自身が17年という若輩でありながらも僅かに、少しずつ、確実にそれが真理なのであると実感したからに他ならない。
「(この本、前に読んだな)」
そして、夏を目前に控えつつも猛暑が続く中、クーラーの効いたファミリーレストランでドリンクバーとささやかな注文のみで読書に耽ることこそ、今現在僕が望める最大限の幸福であり、日常の代名詞だ。
だが、そんな日常もたったひとつのケアレスミスで台無しとなってしまった。
「(巻を一つ間違えたか)」
数頁読み進めたところで違和感に気がつき、全体をパラパラと捲り裏表紙も確認すると、やはり巻がズレている。
「失敗した……」
あまりの長さと巻数に躊躇したが、どうしても気になるのでええいままよと文庫本120巻に渡る大長編を古本屋で一気買いしたのだが、身の丈に合わないことはするものではないと実感した。
鞄の中身を確認すると、今手に持っている文庫本以外に本はない。ここは電子書籍でもと思ったが、以前アメリカ資本の大手企業が運営する電子書籍を買ってはみたもののどうしても集中できずに切ってしまい、結局同じ本を紙で買い直す憂き目を見たのを思い出し、スマートフォンを閉じた。
「すいません、会計を」
このファミリーレストランに昼食がてら入店したのは1時間ほど前である。人生に無為な事などない、何事にも意味があると常日頃から思っている自身ですら、この1時間は無為であったと思わざるを得ない。
父から譲り受けた年代物の腕時計を確認すると時刻はまだ13時半で、貴重な日曜日を家に帰って浪費するのはあまりにも惜しい。
「ありがとうございました」
「どうも」
そう思うが早いか、足早に会計を済ませて外に出る。愛車であるクロスバイクに跨って漕ぎ出した。向かう先は駅前の書店である。
だがどういったわけか、この日の僕はとことん運というものに見放されているようだった。駅前の書店で宝探しでもと思い足を向けて見れば臨時休業。ならば新しい夏物の服でも買おうと服屋に行けばサマーセールで激混み故に買えたものではなく。最終手段だ今日の夕飯は豪勢に行くぞ、と勇んでスーパーへ赴くも一昨日のカレーがまだ残っており処理しなければならない事を思い出して断念。もう何もかも諦めて家に帰ろうとすれば、5年に渡り己の足となってくれた愛車が盗まれていた。
「(今日は厄日か?)」
そして、終いには10年以上の時を過ごして慣れたはずの土地で道に迷う体たらくである、スマートフォンの充電も切れていた。
周囲を見回してみれば、人気のない民家と鬱蒼とした雑木林、心細く明滅する電灯には虫がたかっている。
一昔前のホラーゲームにこんな所があったなと思い出すが、それが不安感に恐怖を上乗せしてくるのでそれ以上思い出すのをやめた。
「(一先ず坂を下ろう)」
この辺りは盆地、或いは谷のようになっていて、坂道を下って行けば四車線以上の大きな国道に出る事ができる。それを利用して知った道へ出ようと考えたわけであるが、それが事態を余計に拗らせる事になろうとは予想だにしなかったのである。
「(更に迷っただと……!?)」
気がつけば、何度も同じ場所を通っていた。その回数は既に三回目であり、見覚えのある民家と雑木林、明滅する電灯が出迎えた。
流石にありえない、どう考えてもおかしい、己は坂道を下って国道は向かっていた筈だ。なのにどうして同じ道に出るというのか。坂道を登った記憶はない、緩やかな坂道ではあるが登るのと降るのでは足にかかる負担が段違いだし、そもそも一本道であったのでまたここに戻るという事はあり得ない事なのだ。
「……どうなってんだ」
いい加減疲労が累積してきた体を湿気と気温が蝕み、頬を汗が撫でる。お気に入りのTシャツは汗でジットリと湿り、下着まで濡れている有様だ。
「……迷い家、とは違うか」
柳田國男だったか佐々木喜善だったか、前に読んだ本の内容を思いだすが、仄暗く照らされた二階建て半木造建築は訪れた者へ富をもたらす迷い家にはお世辞にも見えない。基礎部分であろうボロボロのコンクリートは苔生し、壁には蔦が這い回り、レトロな模様入りガラスは埃塗れな上にヒビ割れている。いるのかどうか定かではない家主には悪いが、これはどう考えても呪いの家か何かだろう。
「さて、どうしたもんか」
古くからの悪友や父がいたならば、電柱から電気を盗んでスマートフォンを充電する方法でも知っていそうなものだが、ここにはいないし父に関してはこの世にすらいない。
もしや、この状況は詰んでいるのではなかろうか。
現状考えられる打開策は気長に車が通るのを待つか、何らかの手段をもってして警察や消防に気がついてもらう事、もしくは再び知った道に出るまで歩き続ける事だ。
しかし長い間整備されていないであろう波打った道路に車が通ったような痕跡は見当たらない。事実として、ここ一時間あまりの間に自動車が走ってくるどころか走る音すら聞こえた試しがないのだ。
いくら田舎であるとはいえ、防衛軍の大きな駐屯地や演習場があるこの地域にはそれなりの人口があるし、町の中央近辺には大きな国道が通っているからして、夜間に聞こえるのは虫の声だけ、なんて事はない。
だが今はどうだろうか、車の音も、電車の音も、ヘリの音も、人の声も聞こえない。鼓膜を叩くのは草のざわめきと自分の吐息、足音だけなのだ。
「……ッ」
冗談ではない。僕はいつから和風ホラーの登場人物になったというのか。
己は小市民であり、庇護される側の人間である。お世辞にも生死をかけた困難に立ち向かうような勇気は持っていないし、立ち向かえるだけの武器もない。
そんな状況なんて、想像しただけで怖気が走る。
「(山で遭難した時はその場を動かないことが肝要だと聞いた……この状況が遭難と言えるかどうかは怪しいけれども)」
そう思い、人気のない不気味な民家の軒下へ腰を下ろす。夜露に濡れた蔦がジーンズを濡らすが、梅雨明け間もない初夏特有の湿気と散々歩き回ったお陰で汗だくの今、知ったことではない。
なんの力もない小市民である僕には、こうして誰かが通りがかることを望む他になかったのだ。
「……はっ」
そうしてどれほどの時間が経っただろう。疲れからか、つい居眠りをしてしまった。時計を覗き込むと20時半を回ったところである。つまり僕がこの近辺で迷子、というより遭難してから二時間ほどが経ったということだ。
「……?」
そんな時だった、道路を挟んだ向こう側の草むらが風もなく騒めいた。
すわ地元住民かと色めき立つが、それは間違いであった。
「……っ!!」
悲鳴をあげそうになる口を両手で塞ぐ。何故だか、声を出してはいけないという強迫観念に捕らわれたからだ。
今思えば動物的な直感、言うならば生存本能とでも言うべきものが働いたのだろう、次の行動は速かった。小さな物置の陰に隠れ、暗がりに紛れてこっそりと様子を伺う。
「なんだよ、アレ」
まず見えたのは腕だ。
毛のないのっぺりとした肌は魚の臓器を思わせるもので、色は死体のように青白い。長い指はゴツゴツとしていて、爪は鋭利な刃物のようだった。
次いで草むらから覗いた足も同様で、テレビでも見たことがない、本でも読んだことがないーーいや、第一印象はUMAのチュパカブラ、そのステレオタイプな姿が近いだろうか。
「ココココ……」
そして、ソレはそんな鳴き声を発しながら明滅する明かりの元に現れた。
その顔面はチュパカブラのようにエイリアン然としたものではなく、潰れたカエル、或いは出来の悪いミイラのようで、表情はない。
だが、粘性の高い唾液が滴る口から覗き、例の不気味な声と共にガチガチと鳴らされる歯は猛獣のソレである。
「コココ……ココ……」
怪物はどうやら何かを探しているらしく、歯を鳴らしながら黄色く濁った気色悪い眼をグルグルと動かして周囲を見回している。
「ココ……」
「……ッッ!」
この時、何故逃げると言う選択肢を思いつかなかったのか、いや、仮に逃げたところでなんだというのだろう。何回も挑戦したが同じ場所へ戻ってきてしまうというのに、どこへ逃げろというのだ。
ぺたり、ぺたりと死が迫る音がする。死ぬと決まったわけではないが“怪物に気付かれれば殺されてしまう”と半ば確信していた。
故にーー
「うわあああああああああ!!」
「コガッ、グゴゴッッ!!」
近くにあったバールのようなものを手に取り、渾身の力で殴りつけると、怪物は苦しげな声を上げながら倒れた。
慣れない行為に手首と掌がジンジンと痛むが、知ったことかと殴打し続けた。
「オラッ!このっ!!」
「グオ!ガァゴ!」
血の気のない皮膚が裂け、血飛び散り肉が爆ぜ、服と顔が赤黒く染まっていく。
そんなことはどうでも良い、今はこいつをーー
「クゴ……グアゴゴゴゴゴゴゴ!!」
「ひっ!?」
あれだけの殴打をものともせず、怪物は上体を起こして咆哮し、威嚇する。
よく見るとカエルかミイラと評した顔は映画で見るゾンビのようで、ボロ布のように穴だらけの頰肉をブチブチと引き千切りながら唾液と血を撒き散らす。
そのあまりの悍ましさに僕は後退り、攻撃の手を緩めたーーそう、緩めてしまったのだーーその刹那、プロボクサーもかくやという速度で爪が突き出され、左脇腹を切り裂いた。
「ひっ、ぎっーー」
肉を裂かれたことによる、今までに感じたこともない猛烈な痛みが脳を焼く。視界がチカチカと明滅し、今にも意識を手放してしまいそうだ。
「死ん、で!たま、るか!」
ここで意識を飛ばせば居眠りでは済まない。永久に僕が目を覚ますことはない。
そう確信し、力を振り絞って怪物の腕めがけて鉄パイプを振り下ろした。
「ゴガッ!!」
「クソっ!バカヤロー!このっ!」
腕が折れたのだろう。怪物が呻きながら腕を押さえている、今がチャンスだ。
鉄パイプを右手に保持したまま、左手で傷口を押さえて駆ける。
兎にも角にも逃げなければならない、あのこの世のものとは思えない怪物から、少しでも距離をとらなければならない。さもなくば己を襲うのは死の恐怖に他ならない。きっと手足を切り裂いて動けなくして、内蔵をぐちゃぐちゃにかき混ぜて、痛みにのたうち回りながら血と涙に濡れて命乞いをする僕を嘲笑いながら少しずつ、まるでフレンチでも楽しむかの如くゆっくりと咀嚼するに違いない。そんなのは死んでも御免だ。
「死んでたまるかッ!クソッ!死んでたまるかッッ!!馬鹿野郎!!!」
内蔵がこぼれ落ちていないのが不思議なくらい深い傷からはドクドクと血が流れ出て、僕の生命活動を着実に止めようとしている。
逃げるためとはいえ、傷口を押さえながらとはいえ全力で走った故かその勢いは増しているように思えた。
「ふぅっ、クッ」
息が苦しい、足が重い、頭がクラクラする。だが足を止めることは許されない、そう遠くない所から怪物の特徴的な声が聞こえてくる。夜目が効くかどうかは判断しかねるが、着実に僕を追い詰めていることは確かだろう。
「……いっそ」
あんな怪物に嬲り殺されるくらいならば、自ら命を断とう。
そう思い、足元に転がる尖った石を拾う。
だがそう簡単に死ねるだろうか、うろ覚えだがなにかの本で人間はそう簡単に死ねないとか、頚動脈を切ったところですぐには死なないとか、そんなことを読んだ記憶がある。
こんな時ばっかりは本の虫で雑学だけは深い自分を呪いたくなった。自分が無学なものであれば、簡単に死ねたのではなかろうか。そんな事ばかり頭に浮かぶ。
死に瀕した時には走馬灯が見えるというが、アレは真っ赤な嘘だろう。いや、統計が取れているわけではないから嘘ではないのだろうが、自分に限っては嘘だった、それだけの話だ。
「コココ……」
ああ、もう怪物がすぐそばまで来ている。
はやく、はやく死ななければ、おそろしい、めにーー
「死ぬにはまだ早いわよ」
今まさにからっ首を掻き切らんと、石を持つ手に力を込めた時だった。
目の前に何かが現れた。
「敵にやられるくらいならって、武士道めいた潔さは評価するけど、タイミングを間違えないことね」
暗雲立ち込める闇夜だった筈が、その時だけは雲の切れ目から月が覗く。
それは人間、それも女性だった。
「直に医者の所へ連れてってあげるから、今はこれで我慢して」
凛とした声でそう言うと、腰に巻いたポーチから包帯のようなものを取り出し、シャツを捲って腹に巻いた。
「これでよし……それとこれを飲みなさい、痛み止めよ」
女性は小さな瓶を取り出し、蓋を開けて僕の口にねじ込む。
一瞬の苦味と仄かな甘味は栄養ドリンクのようであったがなるほど、確かに痛みが引いていくのがわかる。
だがその代償だろう、痛み止めと謳われたその薬は僕の意識を徐々に希薄にしていく。
「3分もすれば用は済む、あんな屍食鬼なんかすぐに、ね」
そう言う女性を霞む目を気合いでこじ開けてよく見ると、ポーチやらベルトならでゴツゴツしているが、その下はやけにぴっちりした服を来ていることがわかる。
出るとこ出て、締まるところ締まったメリハリのある身体は凄まじい破壊力で、それが月明かりに照らされて、なんだ、その、非常にエロい。
「どうしたの?まだどこか痛むところがあるならいいなさい」
友人がやっていた18禁のゲームにこんなのがいた気がする、なんていうんだっけ。ああ、そうだーー
「……対魔忍?」
「次におかしなことを言うと口を縫い合わすわよ」
「……ごめんなさい」
「兎に角、今はじっとしていなさい、この悪夢はもう長くない」
その言葉を最後に、僕の意識は途切れた。
DCDー警察庁警備局情報部亜人対策課 江木坂亭 @egisaka
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