【番外編1】告白のその前に1


 首都の中心は、市庁舎と時計塔を囲む広場。その大通りを東に進むと王宮へと続く高級住宅街になる。その反対の西は、庶民が好む気軽な飲み屋や安価な宿屋が並ぶ街路。


 静かな高級住宅街に向かう途中の横道を進むと、昔ながらの花街の一角がある。娼婦が角に立つようなものではない。錬鉄製の柵に並ぶのは装飾された固く閉ざされた門、屋敷のようにみえるが、実は馴染みの上客しか取らない店。

 出窓には花をあしらい、凝った意匠の透かし彫りのランタンに灯りが入れられているのが営業中の証。


 その屋敷が立ち並ぶ間隙にするりと入ったひょろりと背が高い人物は、奥の石階段を軽い足取りで降りていき、突き当りの石壁に挟まれた金属の板の前に立つ。


 誰にも見られていないし、つけられてもいない。もし彼の姿を見たものがいても、彼がどこから現れていつのまに消えていったのか、全くわかりもしないだろう。


 その人物――ディックは、ノブも何もない板に手をのばす。行き止まりの壁にしか見えない場所。だが、ある一箇所に掌で触れるとデジタルの数字が浮かび上がり、彼は迷いなく決められた番号を押す。


 すると、その板はまるで仕掛けのように右の溝に吸い込まれていく。その奥はトンネルのように先が見えない薄暗い通路。橙色の光が奥にほのかに見える。


 床は靴を下ろすのがためらうほどの磨かれた木目細工。左右は一人しか通さない狭い幅のメタルの壁。木材とメタルと垣間見える優しい光、その組み合わせが高級感をもたらす。


 ディックの格好は、この空間では異様だ。腰にひっかけるように履いたほつれたパンツにヴィンテージのジャケットは、裏通りのバーのほうが似つかわしい。

 だが、漆黒の店内で本物の蝋燭の炎を灯すシャンデリアの抑えた光の下に立つ姿は、妙に溶け込んでいた。


 控えめな匂いを放つ蘭の横で深く頭を下げる案内人に、ディックを侮る様子は一切ない。


 ディックは軽く手を上げると、卵を斜めにカットしたようなクッションをきかせた椅子が配置されたテーブル席を横切り、正面のカウンター席へと進む。


 カウンターの奥に立つマスターの背後には、下から上へと小さな水が昇っていた。時折、キラキラと雪の結晶のようなものが周囲を舞う。

 彼の左右には上品にカッティングされたクリスタルのウィスキーグラスが並び、抑えた金色の光に照らされている。


 カウンター席に座る体格の良い人物の横に座り、ディックはビールを頼む。


「こんな店でビールかよ」

「ビールはどこでも同じ味だからな」


 グラスと小瓶が差し出され、マスターが注ごうとした手を制止する。ディックは中身をそのままに、瓶を相手に掲げた。対して既に座っていたシリルも、透明な液体が入ったグラスを掲げる。

 氷なしで五十度のウォッカを水のように飲む女だ。突っ込んだシリスの方こそ、高級店で頼むような飲み方じゃない。


 だが馴染みで上客の二人に対して、何かを言うような店ではない。ここは、二人の行きつけだった。

 飲み干したシリルが、カウンターに向きなおり「ドライマティーニ」と頼む。頷いたマスターがグラスを取り出し、静かに作り始める。


 歪みなく丸くカッティングされた氷は、グラスの幅ぎりぎりの大きさ。透明でありながらもアルコール独特の歪みのある液体の注がれたグラスと、丸い氷の合間に挟まれたマドラーは、どこにも触れず音一つ立てずに静かに回され、シリルに差し出される。


 カクテルなんて可愛らしいものを、と思ってはいけない。


 マティーニの作り方は多種あるが、これはジンをウォッカで割ったものだ。シリルは水でも飲むように、チェイサーもなくクイクイ喉に流していく。


 ディックも最初の瓶をあけて、同じものを頼む。


 ――なんとなく二人は待ち合わせもせずここに来る。会える確率はそれなりに高い。


「で?」


 仕事のことは話さない、それは本部で話せばいいこと。そんな愚痴は酒と時間の無駄だ。


「……ねえよな」


 ディックが人によっては凶悪と見る人相を、しかめて漏らす。酔っているせいもあるが、その目だけで人を射殺せそうだ。


 端的なセリフに込められた不満をシリルは見事にすくい上げていたが、すぐには答えない。


 ――リディアとディアン、二人のことは、それぞれの立場から見守っていた。

 リディアに対しての表向きの思いは、親友として、または兄貴として。

 だがそれぞれ好意以上の感情を持っていることは、互いに知っている。


「――なあ?」


 繰り返すディックにシリルはようやく口を開く。


「リディは特に不満を持ってないみたいだけどな」


 シリルは無造作にグラスを空けたあと、大した問題じゃないとでも言うように返事をした。そしてグラスを突き出す。

 同じものを作り始めるマスター。余裕を見せているが、かなり緊張を強いられる技術だろうとディックは感じている。


 だがすぐに今日の目的を思い出す。


「俺が。はっきり言って不満だね」


 不満どころか、殴ってやりたい。本音を漏らすディックにシリルは苦笑を漏らす。


「もう殴ったろ」

「アレは別だろ」


 リディアがシルビスに捕らわれていたときに、助けてこなかったディアンを殴ったことをシリルはいう。


 ――あれは別だ。理由が違うが、今度のも殴ってもいいと思う。


「返り討ちにされるだろうけどな」

「わかんねーだろ」

「じゃあ兄を辞めちまえば?」


 痛いところをつくシリルにディックは口を引き結んで、黙る。

 答えられるわけがない。

 リディアへの思いも付き合いも長くなりすぎて、自問するのも飽きた。その結果から今に至るのか、この先もこうでいいのかも、わからなくなっていた。


 ただ時々酔うと、やりきれなくなる。

 だが――。

 一番はリディアを傷つけたくないということ。そして、実際にリディアを見ると、これでいいんだと胸の奥で再認識する。

 言わなくていい、手を出さなくていい、行動を起こさない自分にホッとするのだ。胸の奥で疼くような痛みには慣れた。


 一番頼りにされている存在、それでいい。それを失いたくない。

 子どものころからの付き合いだからか、ディックにだけ見せる幼さの混じる無邪気な笑顔、時々自分を見上げる不安げな瞳も助けてやりたくなる。

 安心させるように頭をかきまわすと立てる笑い声が好きだし、頭を軽く叩くと緊張がほぐれ緩やかになる眼差しが好きだ。


 酔うといつも認識する。


 ――好きだと。


 リディアが母国のシルビスから解き放たれて、ディアンと付き合うことを容認したのは、確かに自分たちだ。

 そして、二人が付き合い出したらいきなり恋人同士のようにいちゃついたり、デートをするとは思わなかった。


 ディアンは忙しい。そしてリディアも食事につれてけとか、ブランド物を買えとか言うような性格ではない。表向きは普通だ、裏でも普通なのではないか。


 ただ自分たちのボスが、独占欲を丸出しにするのは予想していた。

 だが、リディアがディアン相手では、付き合い始めの一番楽しい時を作れないのではないか、という危惧も当たってしまった。


「夫婦喧嘩は犬も食わねぇって言うだろ。口を出すだけバカを見る」

「夫婦じゃねーし。今のままじゃリディがあんまりだ」


 今の関係ではあまりにもリディアが不憫だ。

 リディア本人は、気にしていないように振る舞っているが、時々ディアンを見て、所在なげに立ちすくんでいるようにも見える。


 二人の間で何らかの言葉を交わしたのであっても、言動が恋人のようにならないのじゃ意味がない。

 もっと大事にされて、もっと甘やかされて、表でも裏でも、楽しい日々を送らせてやる、不安な顔をしていたら気がついて、それを払拭させる、それが男の役目だとディックは思ってる。


 自分だったらという押し潰していたやり切れなさが、頭をもたげてくる。


「酒が足りねえんじゃねぇの?」


 確かにビールじゃ酔えない。

 シリルのグラスを指し、同じものをと頼む。

 でてきたグラス煽ると、火のような熱さが喉に落ちていくが、まだ酔える気がしない。


「もっと強いのがほしいなら、ジンをジンで割ってもらえばいい」


 シリルの煽りに、ディックは「それを」と頼んだ。


「――お前はいいのかよ?」


 そして、シリルにこの状況を看過していいのかと聞く。愚痴を言って分かち合うのはバカみたいだが。

 シリルはいつも妙に達観しているところがある。だからこそ飲むのには、最適な相手なのかもしれない。


「私は今のままがいいね。振られてるしな」

「……」


 そのことはなんとなく知っていた。リディアは言いふらす性格じゃないが、長く見てればわかる。その時期は、なんとなくリディアの様子も変だった。


 だがシリルは不思議なほど落ち着いていて、そしてリディアの親友を貫いている。その自己抑制できる秘訣を知りたいとも思う。


 ディックの気まず気な顔を見て、シリルが笑う。女の笑い方ではない。卑しさも色気もない、唇を釣り上げて自信と余裕を見せる大人の笑い方だ。両手を組んで、そこに顎を乗せる。その目には酔いのかけらもない。


「言ってなかったな。――私はリディを一度イかせたことがある」

「――っ、はっ? ちょっっ」


 爆弾発言にディックは最初吹き出しそうになり、つばを飛ばしそうな距離でシリルに詰めると、シリルは顔を歪めた。


「この店で吐くなよ」

「ちげーよっつ。どういう……何があったのか、きかせてもらおうじゃねえか」

「無理やりじゃねーし。ま、あとはな。こういうのは人に話すもんじゃないだろ」

「よく言う!」

「若い時は色々あんだよ」


 ディックはカウンターに肘をついて、伏せた額に手を置く。眉間を揉む、急に頭痛がしてきたような気がするのは気のせいか。


「安もんの酒じゃねーんだから、悪酔いはしねーよ」

「……知ってる」


 マスターは席を外してくれたようだ。こういうところがこの店で気に入っているが、今の告白は最悪すぎだ。

 リディアのその時の顔――想像しかけてやめた。自己嫌悪で本気で吐きそうになる。


「いまんとこ、リディへの嫌がらせはねぇから、それは安心しな」

「……」


 師団は、女団員が少ない。だが、その中では男好きの奴も少なくないのだ。あちこちの男と関係を持っている女もいるし、それにあやかっている男も少なくない。

 既婚者どうしの浮気の噂もよく聞く。


 ディックも誘われるが、そういう女はゴメンだ。プライドを傷つけないように、うまくかわしている。


「リディは女に当たられやすいんだよ」

「――パティの件か? キャッシーもいたな」


 パティことパトリシアは、リディが一二歳の時に同室だった女だ。彼女は二〇代半ばで、常に部屋に男を連れ込んで二段ベッドの上でやりたい放題だった。


 それも問題だが、ある時男は下段のリディのベッドに潜り込んできた。リディアは抵抗して未遂に終わったが、それ以降パティはリディアを憎んだ。


 ディックもディアンも気づかなかった。リディアはとにかく言わないし、感情を表さない。常に無表情だったのだ。


 異変に気づいたのは、リディアが部屋に帰らず食堂の隅でやけに魔法陣を作り始めたからだ。顔をしかめて、無心で魔法陣を書きなぐっていた。それは自衛のためだった。襲おうとする最低な男を撃退するため、ベッドに貼り付ける魔法陣を一人で考えていたのだ。


 ディックは魔法陣づくりを手伝い、根気強く話しかけて、ようやく事の次第をしったのだ。


 キャッシーは、リディアが十四から十六歳の時に同室だった女だ。こいつも男を部屋につれこんでいたが、嫉妬深く、彼氏がリディに少し興味を示すだけで、リディをいじめ抜いた。


 そしてキャッシーはディアンが好きだった。ディアンに相手にされないキャッシーは、リディがディアンを意識していることに気づいて、事あるごとに、リディアを挑発して鬱憤を晴らしていたのだ。


「浮気をされると、男は彼女を責めるだろ。女は彼氏じゃなくて、相手の女を責めるからな」

「……リディは浮気相手になってねーだろ」

「女にとっては同じなんだよ。リディにちょっかい出す彼氏がいたら、リディが憎いってな」


 ディックは息をついて、頭の後ろで腕を組んで、椅子にもたれかかった。


「アンタが防波堤になってくれて、ありがたいぜ」


 シリルは女にモテる。師団の中では、ディックよりもモテている。そのシリルがリディアの親友を表明しているから、リディアはディアンと付き合っていても女からの妬みの被害を防げているのだ。


 ディックもなるべく目を光らせているが、これでリディアがディアンと付き合っていることを、あからさまにすれば防ぎきれないだろう。


「それを鼻にかけるぐらい図太くなってくれりゃあ、いいんだがな」

「つーか。それは、アイツの仕事だろ!!」

「リディアもボスも不器用なんだよ」


 「庇えよ、バカ」とディックは自分の上司に悪態をついた。


「いちゃいちゃしなねーのが、腹立たしかったんだろ」

「うまくやれてねーのが、腹が立ってんだよ」


 庇ってやるのも男の役目だろ、と。んで、セックスしかしてない。


「セフレ扱いとかふざけんじゃねーよ!!」


 リディアに聞いたわけじゃない。が、見てればわかる。そんな扱いをリディがされるなんて、許さない。


「ボスとのこと――リディアには言ったさ。そしたら言うんだ」


 しんみりとした口調に変わったシリルの声音に、ディックはちらりと視線を流した。シリルのグラスは空になっていた。無敵に思える彼女だが、流石に酔ってきたのか。いや、全然そうは見えない。


「――“あの母親”から唯一言いきかせられたことがあるって」

「それって、生家でのことだよな」


 シルビスでのことをリディアが話すことはめったに無い。

 ディックの覚えによると、存在感がなく、全て父親のいいなりで、何の助けにもならなかった印象にも思えるが、それでもリディアに取っては母親だ。


 なんかの有益なアドバイスをもらえたとも思えないが……。


「なんだって?」

「『男の人から求められたら絶対に断ってはいけない』ってさ」


 ゴン、っとデイックはカウンターに頭を打ち付けた。


「っあ、あああ――!」


 声を上げて、頭をかきむしりかけてやめた。流石に目立つ。が、どこにこの感情を持っていけばいいのか。


「っ、あー! リディの教育、間違えた!」


 くそっと毒づくディクの横で、いつの間にか現れたマスターに、シリルは強いやつを、とディックを指差していた。


 そして目の前のグラスには液体が注がれる。シリルが最初に飲んでいたウォッカだ。


「気つけかよ」

「一気にイケよ」


 置かれたボトルを見たら六十度とある。ディックは口に入れて顔をしかめた。


「――ロックにしてくれ」

「薄めたら旨くね―だろ」

「飲めねぇよ」


 氷を入れてもらい、改めて酒を口にする。


「で? お前はそれをいいって思うのか?」


 それをリディアは守ってんのか? だからあんなことになってんのか? シルビスは相変わらず、ろくな影響をリディアにもたらさない。


「私も言ったよ。そりゃだめだって」


 シリルは早くもグラスを空にしていた。やけにペースが早い。つられていたら、早々に潰れそうだと、ディックは少しペースを抑える。


「それぞれの意見を言い合う、そして尊重するのがパートナーだって」


 ――女にも断る権利がある。

 自分の意思を表明する。恋人であっても嫌なものは嫌だと言える、それが平等で正常な男女関係だ。

 シリルはそう伝えたらしい。


「でもなぁ。リディアはそれを言ったとき――」


 シリルはふっと笑った。空になったグラスを傾けて眺めている。


「いいんだって、笑ったんだ」


 ディックの納得のいかない顔に、シリルは追加する。


「『求められたら嬉しい』ってさ」


 ディックは顔を歪ませて、そして腕の中に埋もらせた。やっぱり酔っているのか。頭の中で言葉が渦を巻いてきた。


 あんなもん飲ませるからだ。


「譲らなきゃよかったって、思ってるか?」

「……チゲーよ」


 ディックはすべての思いを押し殺して、そして喉から吐き出した。


「ビールにしときゃよかった、って思ってんだよ」


 ――リディアが選んだんだ。自分は選ばれなかったのだ。選ばせようとしなかった、動こうとしなかったなんて、言い訳だ。


 胸を突き刺す痛み。残っていた酒を煽れば喉を焼いて、痛みが消えていく。


 ずっと兄貴でいいなんて言いきかせてきたが。


 ――ずっと好きなのかもしれないな。


 ディックは顔をあげて、顔を歪ませながら笑みをつくった。どうしようもない自分への自嘲と、それが自分だという誇りのようなもの。


 この思いは苦いが、甘く痛く、それを時々思い出しながらいつか世帯を持つのかもな、と。

 ディックに十分にダメージを与えたことを認識しながらもシリルは、それより、と別の話題をふる。


「もっと大きな問題がある」

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