234.in her secret heart has pain
横幅三十センチほどもない、断崖絶壁を歩く。
ディアンは子どもを背負っていた。子どもは肉付きが悪かったが、こういうものを背負ったことがないディアンにはそれなりに重い。
学校では魔法を放つ方法しか習得せず、体力も筋力もつけてこなかった。なんで俺が、と思うものの、こんなのを背負って潰れたくない。
立つことができないくせに歩くという彼女に、いいからと強引に背負ったのだ、今さら自分で歩けと放り出しにくい。
(くっそ。ぜってー、鍛えてやる)
こんなやせっぽちのガキひとり背負えないとか、ありえないだろ。
――それにしても、あなたが暇潰しに
「別に、最下層まで行く必要はねえだろ。五層の最奥に
――ああ。なるほど確かに。最後の使節団モリスとかいう男でしたな、悪魔との契約に敗れて元の世界に帰ることは
背負っていた子どもが、背からずり落ちる。
「おい、つかまってろ!」
自分の服もずり落ちる。後ろに叱咤するが、それでも子どもはディアンの足元まで落ちてしまう。もう力がないのだ。先ほどまで熱かった身体がもう氷のように冷たい。
「くそっ!」
ディアンは落ちた子どもを拾い、今度は胸に抱え込む。震えてもいない。寒さで震えるのは、筋肉の収縮で熱を生産するため。だがその余力もないのか、ぐったりとしているだけ。
できるだけ胸に引き寄せる。
――おやおや、名だたる魔界の貴族たちを切り裂き踏みつぶしてきた魔王が、まさかの子連れ狼とは。これは見もの。
「うるせえ、消すぞ」
――よいですよ。どうせ有り余るほどの命、一度や二度、二十や三十潰されてもかまいませぬ。それよりも、現れましたよ。
目の前には巨大な門。黒光りし、精緻な浮かし彫りがされたそれは、地上の天才彫刻家を
天辺もどこまであるのか先が見えない。あらゆる魔法も怪力をもってもしても、開かぬと言われる魔界の
その前には、ドラゴンにも引けを取らぬほどの巨大な獣。
黒い毛波、突き出た鼻に、立った耳、その姿形は犬にも似ている。しかし、その目玉は溶けて垂れ下がり、耳は焼けてただれ、なによりも左半身は瘴気に覆われ闇に沈んでいた。
その獣がディアンを見て、敵愾心もあらわに背をかがめ、喉を鳴らしてぐううと唸る。
――これはこれは。『犬をも吠える醜さよ』と言いたいところだが、陛下の顔はなかなかのもの。だがその残虐さは、かの人の王より勝る。
茶化す公爵に苛立ちばかりが募る。
「だまれ」
――とおさぬ。
唸り声に交じり、魔界を全域に轟くような声が響く。
――とおさぬ。
「へえ」
ディアンは犬畜生を見据える。
途端に目の前の獣がぐう、と苦し気に喉を鳴らし、頭を垂れ、足だけを踏ん張る。じわじわと魔力で圧をかけるディアンに、それでも逆らうのはさすが魔界の門の番犬といったところか。
――とおすわけにはいかぬ。
魔力がうねり、怨嗟の声がこだまする。
そしてぼきり、と不吉な音が響き、犬が半身を崩す。またぼきりと音がして、犬が地面に沈む。両足を折ってやったが、それでもディアンを睨む目は変わらない。
――我らが王にも従わぬ、その役目に対する忠実さ。百万回死んでも生き返るしぶとさは、さすが魔界の番犬といったところ。
公爵が感心と呆れを漏らす。
――おまえはまだ“おう”ではない。
――たしか、たしかに。この者は戯れに第五層までを蹂躙しただけ。深層まで制覇したとは言えぬ。
――そやつは、ひかりのせかいのもの。とおすわけにはいかぬ。
「じゃあ、死ね」
ディアンのその一言で、獣の身体が膨れあがる。いびつな風船のようにあちこちが伸びてはり出し、もう唸ることさえできない。あとは内部から破裂する、そう思えた瞬間。
「や……めて」
胸元から声が震えた。
「邪魔をするな」
胸に抱えた存在に苛立ちとともに低く返す。見下ろしもしない。
正直、まだ生きていたのかとさえ思う。
「おねがい……します」
――見下ろすと熱を帯びた目が見上げていた。緑の瞳が濃く濡れている。その間にも獣の悶え苦しむ唸りが響く。
「やめて……やめてください」
震えた声、手がディアンに伸び、そして掴む寸前でやめる。潤んだ目が、強く戒めるように引き締められて、それでも声が乞う。
「おねがいします。やめてください」
なんなのだ。
いままでの張り合う態度ではない。何かに怯えながら乞う姿にディアンは呆気にとられる。
――いやはや。人の子どもが魔界の獣の命を乞うとは。
「これを」
そして、がくがくと震える手が胸元から何かを差し出す。それはディアンも初めて見た翠玉だった。
――これは、なんと見事なエメラルド!!
公爵の下舐めずりがきこえるようだった。
子どもがディアンの腕から無理やり離れ、地面にしゃがんで石を差し出す。
とたんに番犬は、怪我さえ忘れたかのように翠玉にしゃぶりつく。いつのまにか、大型犬のサイズになり、尻尾さえふっている。好物を奪われまいと、前足で押さえ夢中だ。
子どもは手を差し出しかけて、その首に触れようとして迷っている。
「やめておけ」
ディアンの忠告に逆らうかのように、その手がそっと犬の首に触れてさする。驚いたことに魔獣の番犬は噛みつきもせず撫でられたまま。
子どもは何度かその首を頭を慰めるかのように往復する。
「ごめ……んね。……痛かった、ね」
その口が呟く。
同時に魔界の門が、音を立てて内側に開いた。
*in her secret heart has pain
( いたみを秘めた彼女のこころ)
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