48.妄想と執着
「――湿布、貼ろうか」
ウィルが、リディアに掴まれたままの手を引き寄せようとしたその時。
リディアはウィルの手をあっさり離して、立ち上がろうとする。
その間の悪さ。あとほんの少し早く抱きしめていればよかった。
ウィルが伸ばしかけた手を彷徨わせている時、立ち上がりかけたリディアが顔を顰めた。訝しく思ったのは、一瞬。
リディアの身体が揺らいだと思えば、彼女がいきなりバランスを崩してウィルの方に倒れ込んでくる。
「っ、きゃ」
「わ」
なんで? と思いながら、慌ててその体を支えようとしたが間に合わなかった。リディアの顔が、ウィルの横顔を掠め、肩にぶつかった。
「……ぅっ」
「わりぃ、平気?」
「……ったあ」
リディアが呻いて、顔を手で押さえている。ごんって音がしたし、鼻か歯か何か固いものが肩に当たったし、痛かっただろうと思う。
必要はないけど、反射的にウィルはリディアに謝っていた。だって防げなかったし。
「リディア、大丈夫かよ」
肩に手を回して顔を覗き込むウィルだが、リディアは更にそのまま姿勢を崩して地面に崩れてしまう。
「な、おい? 何やってんの!?」
「足、しびれて、つ」
ウィルは身をのりだして、慌ててリディアの上半身を支えるが、彼女の手はウィルの肩から胸に滑り落ち、離れてしまう。
しっかりと腰に手を回して更に前のめりになって支えるウィル、なのにリディアはウィルにつかまろうとしないから地面に座り込んでしまう。
「な、どうした? 足痛いのかよ?」
「ちょっと、立てな、い。待って」
リディアの様子が変だった。
ウィルは中腰の姿勢で、乗りかかるようにリディアを支えていたが、彼女は目をぎゅっと閉じて呻く。
「リディア!?」
床についた両足が崩れ、力が入っていない。
「――何をやってるんだ! 貴様っ」
突然、開け放たれたドアが、勢いで壁にぶつかって激しい音を立て跳ね上がる。
それが閉じる前に、手にした箱を机上に向かい放り投げたマーレンは、狭い通路を肩だけでなく全身を怒らせてズカズカ部屋に入ってきた。
「なんだよ、急に入ってくんなよっ」
「うるせえぞ、俺が入ってこなきゃ何する気だったんだあ? この低能ヤリチンが」
ウィルは、胸ぐらを掴んできたマーレンを睨みつけ、同じように胸元を掴む。
マーレンの鼻の頭には苛立たしげにシワがより、紫色の瞳はより濃く、深紫というよりも黒に近くなっていた。
「はあ? 俺がヤリチンなら、てめえは何だよ? 殺戮魔法をばらまいて、弱っちいものを殺して喜ぶ頭の可笑しいサディストのオ○ニー野郎が」
「何だと、きさま!」
「聞こえてねーならもう一度言ってやるよ。童貞」
「この、性病野郎がっ! 殺してやる」
「――ねえ。それ以上やり合うなら、両方の口を本気で縫い付けるわよ」
低く響いた声は、下から聞こえてきた。「あ」とウィルは慌てて、リディアに向かってしゃがみ込んで手を差し出す。
「リディア、ごめっ、平気か?」
リディアは、まだ立ち上がっていなかった。足を不自然に伸ばした姿勢で、ウィルを睨んだ後、伸ばされた手をパシッと叩く。
はっ、と鼻で笑う気配がしたが、リディアがそちらを無言で睨むから笑ったマーレンも黙る。
何の言葉をかけていいのかわからず、二人の男子が黙って空間が静かになったのは一瞬。
リディアが床に手をついて、足をそろそろと引き寄せて何とか立とうとしているのを見て、ウィルは改めて手を伸ばしかける。
「なんで、お前が怒っているんだ」
「……」
マーレンが余計なことを言うから、余計にリディアの顔がこわばる。
「お前には、何も言ってないだろう。お前を放ってこいつの相手をしたことは悪かった」
リディアは黙ったままだ。
「おい、マーレン」
「黙れ。貴様とは話さねえ」
(こいつ、ほんとにわかってねーのか?)
母親とか姉貴とか彼女が理由もわからず怒っている時、余計なことを言わねーほうがいいって、学んでねーのか。
「仕方ねぇな」
そう言ってマーレンがリディアを抱きかかえようと、手を伸ばしかける。ウィルは思わず「やめろ」と牽制しようとしたが、それ以上にリディアの「触らないで」という冷たい声で、マーレンの動きが見事に固まる。
中途半端にかがんだままの姿勢で、一瞬見せたのは途方にくれた顔。
「自分で立てるから」
「いや、立てねーだろ」
さっきから成功していないし。
次にウィルが手を伸ばしかけると、リディアはまたもや「このままにして」と言い出す。
「なんで!」
リディアは黙ってそのまま這いずって机に掴まり、はじめて子どもがつかまり立ちするようにゆっくりと上半身を伸ばして左足をだらりと垂らしたまま、右足だけで立ち上がろうとしている。
そのムキになっている理由がわからない。
ウィルはハラハラして思わず手を出しかけるが、拒絶の視線に次第に苛立ちが募りだす。
「リディア!」
「心配してくれて、ありがとう。ふたりとも」
そして立ち上がったリディアは、二人を見据えて言う。
今度は怒っていない、嘆息して疲れたような顔だ。けれど額に汗が滲んでいるし、机に手をついて左足を浮かせたままで不自然な様子にウィルは座れよと言いたくなる。
「俺に腹を立てているのか?」
マーレンがまた馬鹿なことを聞く。怒っている女に「怒ってんの?」と聞いてどうすんだよ。余計に怒鳴られるだけなのに。
けれどリディアは怒鳴りもせず、首を振っただけ。
「いいえ。腹がたっているのは自分によ。二人が喧嘩をしたのは、私のせいだから」
「じゃあ、俺を無視するな。――会話を、閉ざすな。口を利いてくれ」
マーレンが偉そうだけど、随分と気落ちした様子で殊勝に言い出すから、ウィルは内心驚く。
誰だ、こいつ。
「なあ、リディア。座れよ」
ウィルが言うと、リディアは「いい」と断る。さっきまでいい雰囲気だったのに、こいつのせいだ。ウィルはマーレンを後ろから睨む。
「その前に、互いに罵倒したことを謝って。そして握手をして」
「はあ?」「なんで」
「根拠のない汚い言葉よ。明日からまた机を並べるのだから、謝って。二度と言わないと互いに誓って」
「俺様は口にしたことを否定しない」
「マーレン・ハーイェク・バルディア!」
リディアがぴしゃりと名を呼ぶ。その迫力にマーレンが思わず口を閉ざす。
「王族だからこそ、汚い言葉は慎みなさい。あなたは国の顔なのよ。そして、間違いを認める勇気を持ちなさい」
「……」
「ハーイェク」
「悪かった」
最初マーレンが誰に謝罪しているのかわからなかった。顔を背けて、壁の方を見て口をモゴモゴ動かすだけ。
でもリディアがこちらを見て促すから、え、謝られたのか、とわかる。
「で、ウィル・ダーリングは?」
「え、俺? ああと、ええと……悪かったよ」
「握手」
リディアの言葉に、ウィルの方からマーレンに歩み寄る。
マーレンは不貞腐れて耳がピクピク痙攣していたけれど、ウィルが手を差し出して、「ん」と促すと仕方なく握ってきた。
「私も悪かったわ。軽率な行動で二人に心配をかけたわ。ごめんなさい」
そしてリディアが頭を下げる。その行動によりも、軽率な行動ってなんだ? とウィルは顔に苛立ちを募らせる。
俺と二人きりになったこと? 自分を慰めたこと? いい雰囲気になったこと?
「足をひねったのよ。それを気にせず無理な姿勢をしていたから、転んでダーリングに助けてもらったの。ハーイェク、わかった?」
「無理な姿勢ってなんだ」
マーレンが訝しげに、けれど何かを予感したのかリディアを探るように見つめる。
ウィルの手を押さえるために、リディアはしゃがみこんでいた。
足を痛めていたのに、無理な姿勢でいた。それを理解しウィルは顔は顔を歪ませた。全然気づかなかった。
「しゃがんでいたら、足がしびれて」
「なんで、しゃがむんだ。こいつの前でしゃがんで、何をしていたんだ!」
マーレンがいきなりスイッチが入ったようにリディアに詰め寄りだして、今度はリディアが困惑を見せる。
「ちょっと、ハーイェク。何?」
「まさかお前、こいつに……」
(あー)
男のウィルは、マーレンが何を疑ったかわかる。が、それをリディアにいったらマーレンだけじゃなく、自分にまで絶対口を利いてくれなくなる。
マーレンの悔しそうな顔に、リディアはまだ気づいていない。
これ、わからせないほうがいいだろう。
(そりゃ……してくれたら最高だけどさ)
あ、やばい。
想像したらちょっと男としての生理的な反応が起きそうになって、ウィルは慌てて意識を逸らす。
こんなことで、リディアに嫌われるわけにはいかねーし。
(……落ち着け、俺)
リディアの首を傾げる様子を見て、早口で話題を変える。
「まあ、ええとマーレン、いいだろ。それより」
「よくねえ。てめえ殺して――」
「マーレン・ハーイェク。いい加減にしなさい」
リディアのたしなめる声に、マーレンの耳がピクリと動く、そしてチッと舌打ちをしておとなしくなる。
なんかおもしれー、と言ってはだめだろう。ウィルは口を閉ざす。
「手当をしていただけよ。ところで、ハーイェク、どうしたの? 何か用があったのでしょう」
リディアの問いに、マーレンは不承不承といった様子で口を開き、ウィルを指差す。
「こいつを学科長が呼んでる」
「は?」
「あのうるせえ女が保健室で騒ぎまくって、学科長に話が行った」
「つまり、ダーリングを学科長が呼んでいるってことね?」
リディアは早く言ってよ、という顔でマーレンに念を押し、ウィルに視線を向けた。
「わかったわ。ハーイェク、教えてくれてありがとう。ダーリング、行きましょう」
ウィルは「行きましょう」と言われて返事に困る。
え、とか、何で来るの、とか。リディアの気持ちは嬉しいけど、それは流石に恥ずかしいだろ。
「なんでお前が行くんだ。こいつは糞の後始末もできねえガキなのか」
「ハーイェク、お口」
注意をされたマーレンが黙り、リディアといえば、ようやく机から手を離し、そろりと足を踏み出そうとしていた。
それを見てウィルはリディアの前に立つ。
手を伸ばし、その頭に触れる。ようやく柔らかな髪に触れる。
それは想像していたのとは全然違っていた。柔らかくて、滑らかで、手が沈み込む。気持ちいい、ずっと触っていたい。
「てめえ、何をする!」
「ダーリング?」
リディアがすぐに頭をふって拒否するから、触れられたのは一瞬だけだった。
「一人で行ってくる。流石に付き添いは勘弁してよ。けど、ありがとな」
全然カッコよくないけどさ、少しは格好つけたいだろ。
「でも、私もそこにいたのよ、説明するわ」
「学科長は俺しか呼んでないし。そこに入っていく必要はないだろ」
「確かに、呼ばれていないのに行くわけにはいかないわね」とリディアは黙り、けれどまだ逡巡している顔だった。
「それより、リディア。どうやって帰るんだよ、その足で」
ウィルはそれをはっきり聞くまでは、出ていかないと告げる。マーレンが目を細める。
「てめえに関係ねえ。早く去れ」
「マーレンに任せるぐらいなら、行かねー」
リディアはまた始まった、と顔に諦めを宿して、それから二人に交互に視線を向ける。
「タクシーで帰る、だから気にしないで」
「俺が送っていく」
「なら俺も」
マーレンにつられてウィルも声を放つと、リディアが釘を刺す。
「私はタクシーで帰る。さ、ダーリングは行きなさい、あ、手に湿布しなきゃ」
「いいよ。手当サンキュ」
ウィルは、手を振ってリディアに背を向けた。
リディアの動かそうとしない足が心配だけど、当の本人がその怪我をおしてウィルに付きそいをしようとしたのだ。ぐだぐだマーレンに嫉妬しているのが情けなかった。
それ以上に、こんなときに呼び出しされて、リディアに付き添えないことも情けなさに拍車をかける。
リディアが動かないまま、ウィルの背中に声を掛ける。
「何かあったら、端末にメッセージ送ってね。すぐに行くから」
ウィルは、手だけ振った。けれど、胸に何か熱いものがこみ上げてきた。
(そういう事、言うから……)
だから、煽られるんだよ。
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