『心の繋ぎ手』 ティアーズレイン編

八橋裕

第1話 深罪の聖女

 

 そこでは、『心』が泣き叫んでいた――……。


 その心の所在は、千種万様の感性と感情を持ち合わせる人間の心中――〈心識の空庭〉と呼ばれる内界に在った。


 遮蔽物や境界線も無い、見渡す限りの広大無辺の空間――。

 静謐かつ清澄なる空気によって満たされる群青の庭園――。

 内面での逡巡や葛藤、それが可視化される人心の深層――。

 人格の一部から成る化身、形象化された精神体の住処――。

 現身と共に心魂が、星へ回帰する為の経路となる聖域――。


 大いなる空と海の境界の狭間にある精神空間。青く澄み渡る天球に白亜の雲が浮遊し、下方にはそれらを鏡のように映し出す湖海が広がっている。そんな情緒ある心象風景は、実に神秘的な印象を感じさせるのであった。

 しかし次の瞬間、そのような壮麗なる空間には似つかわしくない――その心を酷く嘆かせた悲痛の大声が周囲に響き渡る。


「やめてぇぇェェ――ッ!!」


 それはまだ幼い声質による哀願の叫び。それを耳にした者は皆、その心を痛め不憫に思う程の感情が含まれた悲鳴にも似た一声だった。

 そしてその声を発した人物は、必死の形相を浮かべた――〝白色の幼女〟であった。

 何故そのように彼女を形容したかと言えば、その身を純白のドレスで包み、また僅かな穢れも見られない純潔性が感じられるその姿形からである。

 次いで視点を移すと――幼女の直ぐ傍には、その小さき彼女を背後から抱き締める形で制止する別の人影が在った。

 その抑制者の正体は――〝桜色の淑女〟と表現することが妥当な存在であり、自らの両膝を水面に突き、両腕を幼女の腹部に回し、相手の身動きを封じている格好が視認できるのであった。

 どんな理由があるのかは不明であるが……その淑女の方も、幼女と同じだけの悲痛な感情を抱えながら、しかしそれを噛み殺している様子が窺い知れた。

 構図としては、白き幼女が訴え駆け出そうとしているのを――桜色のドレスを纏う淑女が押し止めている、そんな様相が見て取れる。

 どうにかして拘束を解きたい幼女の方は、その身体を揺り動かし抵抗を試みるがやはり難しい。大人に対しての子供だ。当然、体格や筋力の差は大きいのだろう。

 すると更にその一方では――、

 必死になる幼女のその目線の先、自身を制止する淑女とはまた別の人物が上空を仰ぎ見て佇立している姿が在った。

 その第三の登場人物とは、今この瞬間も猛り続ける幼女の――その行動理由かつ目的対象であり、幼女や淑女と同じ様式のドレスを着装しつつも……その色彩は漆黒に染まり、どこか冷たく妖しく危なげな情調が感じられる存在と言い表せた。

 そんな〝黒色の魔女〟と名状することが適当な人物である彼女は、他の二者から孤立するようにして距離を置く。

 とはいえその黒き彼女の胸中にも二人と同じだけの――秘めたる激情を抱えている様子がひしひしと伝わってきていた。

 そして奇怪なことにその三者は皆、酷似――いや、〝同一人物の顔貌〟をしており、それにも拘らず〝瞳の形態〟は各々異なっている……、という異様な顔ぶれとなっているのであった。

 似て非なる者――彼女たちは同一人物でありながらも備える性質が異なる、まさに三者三様の存在と言い表せた。

 また幼女と淑女・魔女の間には明確な年齢差が窺え、顔立ちや体格にも大きな差違が認められた。とはいえ元々の主体となっている人物には変わり無く、つまりは子供の幼女が成長した後の姿が、大人の淑女や魔女であると理解できる。

 次いでこの点が最も重要となるが……そんな彼女たち三者こそが、人間が持つ三面性の実像――〝心を擬人化した存在〟であり、心中にて内在する思念体・精神体とも言い換えられる〝人心の化身たち〟なのであった。


 己の感情が反映され、人の形を成して顕現する〈心識の空庭〉……。

 その精神世界にて可視化される心情の構成図。人格の関係図――。

 そんな心の一部である彼女等が創り出す場面は――、心中での葛藤。主張の対立。ゆずれない意志の衝突であり、そして……。

 とある一人の女性の内心においての――その〝苦渋と悲哀の発露〟なのであった。


 情景の全体像としては依然、〝白色の幼女〟が〝黒色の魔女〟を必死に制止しようとしている――けれども、〝桜色の淑女〟が幼女を背後から抱き留める形で、その行為を阻んでいる様相が続いていた。

 屈せぬ意思を宿した幼女は、自身の動きを封じられても尚、せめてもとその小さな手と腕を伸ばし、涙の飛沫を宙に飛ばしながらも精一杯の声量を上げる。

「だめぇ! お願いだから、もうこんなコトはやめてよ――ッ!!」

 遮蔽物の存在しないこの空間において、その悲嘆は空虚として辺り一帯に響く。

 それ故に黒き魔女の耳にも、健気な幼女の必死な訴えは確実に届いているはずだった。

 だがしかし――それでも、あの狂気にも似た私情に駆られた魔女を、思い留めさせる術には至らなかった……。


 そして白き幼女の想いを振り切るかのようにして魔女は、その〝濃厚な害意と私欲に満ちた双眸〟を見開くと、顎を引き前方を睨み据える。

 一方の淑女は変わらず渋面を浮かべたまま、人知れず堪え忍ぶようにして下唇を噛み締め続けていた。

 それから魔女は大量の空気を肺に送り込むと――大きく開口。非情ながら確固たる意志と共に牙を剝き、まるで悲鳴のようにして吼える。


「……っう、ううぅぅ――うあああああああぁぁァァ――、」


 ここで主観の認識先は移行し、舞台は〈内界〉から〈外界〉――〈心識の空庭〉から〈現実世界〉へと転変する。


「――――ァァあああああああああああああぁぁァァァ!」


 現在も尚その心の葛藤を抱える〝彼女〟は、獰猛を色濃く表した双眸を剥き、鬼気迫る突進を続けていた。

 左右の手に握られる一対の〝氷の双剣〟を勢いのままに振り下ろし、その〝想いの先〟でもある〝彼〟を相手に攻め立てる。

 しかしながら、そんな彼女とはまた別の見解を持つ彼の方も、その絶対零度の凶刃を掻い潜りつつ、自身の得物である〝砂鉄の黒刀〟を以て応戦していた。

 そして両者の異質な刀剣同士による甲高い衝突音が響くと、彼女の目から零れた涙が透明な飛沫となって対立する彼の頬を叩く。

 すると彼女の内心を察する彼も、人知れず歯噛みし――、

 ――くっ……、やっていられない――ッ。

 そのやり切れぬ思いを胸中にて吐き捨てるのであった。


 時分は黎明。所在は霊園正門付近の街道。路傍には細工が施された外構フェンスが並んでいた。

 視線を移せば交戦中の彼と彼女の他に――少女が二人。その戦闘の成り行きを見守っている姿が視認できる。

 沈痛な面持ちでいる〝黄色の少女〟はその目を背け、もう一方の〝紫紺の少女〟は胸元で両腕を組み、黙然と目先の戦闘を見据えていた。

 どちらの少女もその心を痛めながらも堪え忍び、相手の邪魔にならぬよう自重している様子が窺い知ることができた。

 男女二人による私闘は尚も継続し、静寂な世界において互いが得物を振るい打ち合う音だけが鳴り響く――。

 鋭い斬撃や刺突、素早い疾駆と跳躍、巧妙な体捌きに受け太刀。両者の加速する切り結びは、薄暗い宙に剣筋の軌跡――無数の青白い光芒を刻むのであった。

 間断の無い攻防は一進一退であり、また剣技において互いの力量は拮抗し、熾烈な闘争は終わりの見えない様相を呈していた。

 するとそんな膠着状態と化した戦況を嫌い、自ら動く者が出る――。

 それは先んじて戦術を変えた彼女の方であり、突如その全身から青色のオーラを立ち昇らせると後方に跳び、自身の【元素能力】を急速発動。おもむろに震脚して見せると、自身の周囲の地面から身の丈ほどの氷の棘を突出させた。

 続いて再度、地を踏み叩くことでその氷柱を破砕し、人体を殺傷するに適した形状と数量の氷塊を生成する。

 そして彼を標的として彼女は、その宙に浮く氷の弾丸を躊躇いなく――射出した。


【元素能力】とは――、【自然界の元素】を操作する力のことを指し、まるで魔法の如く術技を使用できるものであった。

 一方、数多迫り来る凶弾に対して彼の側も、そのまま被弾するまで無抵抗でいるような真似はしない。

 彼女同様、即座に【元素能力】を駆使し、急ぎ飛来する氷の散弾に対処すべく――その身を橙色のオーラにより包むと、腰を屈めて地に両の掌を突いて見せた。

 無論それは能力発動の予備動作であり、己の身を守るために地表の一部を隆起させることで正面に防壁を作り上げたのであった。

 直後、激しい破砕音と共に無数の氷弾が土壁へと衝突する――とここで、彼の方も反撃に転じて見せる。

 氷塊が突き刺さったままの土壁を裏側から勢いよく蹴り破ることで、生じた大小様々な破片を飛礫として、今度は彼女に対して射撃を仕返して見せたのである。

 彼の目論み通り、石と氷の混合弾が彼女へと襲来する。しかも直前まで壁面が彼の姿や行動を隠す死角にもなり、彼女の反応が一歩出遅れる格好となる。

 此度は此方が奇襲を受ける側となった彼女――とはいえ、彼女にとってその程度の攻撃など別段気構える必要もない小事であった。

 その表情に微細な変化も見せず彼女は、再度全身をオーラにより発光させると――突き返された散弾を何と無防備のままその身で受けて見せた。

 まるで身を捨てるような彼女の異常行動に、黄色の少女からも短い悲鳴が上がる。

 そして次の瞬間、容赦なく散弾に貫かれる彼女の白く細い肉体――……。

 その被弾した顔は半分を抉り取られ、肢体の至る箇所が穿たれ、胴体を貫通して生じた空洞からは向こう側の背景が見える程の損傷が確認できた。だが――、

 そんな甚大な被害を受けたはずの当人の彼女は、全く動じてはいなかった……。

凄惨な損傷を受けても尚、その立ち姿を保ったままの彼女は、まるで幽鬼のような印象を感じさせる。

 何故そのような半壊状態であっても平然としていられるかというと――それは、彼女が有する【元素能力】に関係していた。

 それは自らの肉体を【水の元素】へと変化させ、迫る弾丸を透過させる芸当を披露して見せたのである。

 そのように起きた現象の真相を知れば、彼女が先の攻撃で実質的な損害を一切受けていないことも理解できるのであった。

 そして数秒の間に彼女は、その欠損した身体を元の健全な状態へと復元させて見せた。

 そんな人外なる変身を目の当たりにした彼は思わず、その胸中にて憂いを帯びた声音で呟く。


 ……当たり前のように、【流体化】してくれるなよ……。


 その特異能力の詳細は不明ではあるが、彼の側も何か事情を知っているが故の憐憫の思いが窺い知れた。

 それから彼女は何事も無かったようにして、無表情のまま戦闘を再開するのであった。

 しかしながら、これまでのような戦術では同じ戦況が続くだけ――そう判断した彼女の方が、一息に決着をつけるための強行手段に打って出る。

 一度相手との距離を大きく取った彼女は、その身に宿すオーラを全開にすると――氷の細剣を握る片手を上方に掲げ、更にその刃先の上空に巨大な氷槍を生成する。

 今度は到底――先の土壁では防ぐことが叶わない規模の質量攻撃が予想され、それを受けて彼の方も緊急回避へと移る予備動作を見せた。


 ――一気に此方を一呑みにする一撃を仕掛けるつもりか……。

 ――だが、大振りの攻撃であるならば容易に躱し、今度は此方が相手の隙を突くこともできる。


 しかしそんな彼の反応と目論見を予測していた彼女は――もう片方の細剣を振るい、水の奔流を生み出してそれを地表へと奔らせた。

 続いて瞬時に液体であった水流を凍結させ、固体へと変化させることで――彼の両足を地面に縫い付けることに成功する。


 ――くっ……、此方の注意を上に向けさせると共に回避を意識させ、最初から足元を狙って身動きを封じる算段だったのか……。


 そんな彼女の巧妙かつ狡猾な戦術により、彼が氷の足枷でその場に釘付けとなっている姿が見定められると――止めの追撃とばかりに、無慈悲にも巨大な氷槍が投下される。


「あっ、危ない――ッ!!」


 ここでこれまで二人の私闘を傍らで静観していた黄色の少女から、緊迫と焦燥の声が発せられた。

 絶体絶命の窮地に陥った彼を見受け、遂に居ても立っても居られなくなったその少女は、争う二人の仲裁を試みようと身を乗り出す――が、隣に立つ紫紺の少女から制止の手が差し込まれ、行く手を阻まれてしまう。

 黄色の少女は堪らず、紫紺の少女へと哀願の色を浮かべたその顔を向けるが――そんな健気な思いを受けても尚、部外者である自分たちが私情を優先して邪魔立てする事を良しとはせず、その首を横に振るのであった……。


 一方の戦場では氷槍が地表へと激突し、凄まじい轟音と震動――衝撃の余波が一帯に広がっていた。

 次第に巻き起こった土煙が霧散し、上空から落下する小石などの欠片が落ち着くと――目に飛び込んできたのは、巨大な氷槍が半ばほど地表に突き刺さり埋没している異様な光景であった。

 また必然と言えるのか……、氷塊の直撃に晒されたであろう彼の姿は確認できない。

 そんな……っ、と黄色の少女からは思わず絶望の声音が漏れる。

 だが、そんな悲しみに暮れる最中――、

 視界の端の暗がりから彼が歩み出、地面に得物の先端を突き立てると――自らの無事を証明して見せたのであった。

 如何に彼がその被害を最小限にできたかというと、衝突の寸前にて足元を覆う氷へと黒刀を突き入れ、続いて【元素能力】による震動を発生させることで拘束を砕き、間一髪の場面において圧殺の危機から脱し、必定の死地から逃れていたのであった。

 とはいえ巻き起こった衝撃波や飛散した破片により、その身は大きく吹き飛ばされて負傷した状態にあることが分かる。

 そんな傷つき汚れた彼の外見からは、辛うじてその命を拾った状況にあることが窺い知れるのであった。


「はぁ……危なかった、少しでも対処が遅れていれば間違いなく死んでいた――」


 先の一撃が及ぼした破壊の残痕に息を呑み、彼は余裕の消え失せた声色でそう呟いた。

 そのように彼が危機感を募らせていると……その傾斜が掛かった氷塊の末端へと、それを放った術者である彼女が上空から舞い降りる。

 その〝白い革靴〟の靴先からしなやかに着地して見せ、邪悪な双眸を以て彼を睥睨する。

 すると彼の方もその物々しい気配を肌で感じ取り、其方を見やった。


 高低から交わる目線。衝突する戦意。相反する真意――。

 彼は眉間に皺を寄せて険しい表情で彼女を見上げ――、彼女は冷然とした態度を崩さず彼を俯瞰し続ける。

 そして……その彼の姿を見据える彼女の凍てつくような瞳には、まるで自身の心を氷結させたかのように――、

 一切の温情を感じることができなかった……。

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