第34話 魔女の呪い

「じゃあ聞く限りでは、明るくて品行方正な女生徒だったってこと?」


 さらに翌日。僕らは休み時間の教室で日野崎に四谷先生に聞いたことをそのまま語った。


「そうなんだよ」


 いつものようにセーラー服を着た日野崎はふうむ、と腕を組んで黙り込んだ。


「やっぱりどこか不自然だと思うか?」

「ううん。でももしかしたら、その人は本当は悪くないのに何か事情があって部を離れることになったのかもしれない、ってそう思ったんだ」


 日野崎は目を伏せて感傷的な表情でつぶやいた。


「ほら。あたしも前にちょっとした行き違いで一度サッカー部を辞めたことがあったからさ」

「ああ。あの件か」と明彦が呟いた。


 僕は数か月前の出来事を思い出す。


 日野崎はうちの学校に転校してきたとき、サッカー部に入部し大会のレギュラーになった。しかしたまたま試合で前の学校と対戦した際にやむを得ない事情で休んだにも関わらず、わざとサボタージュしたのではないかと誤解された。


 そのため部内での居場所をなくし一度部活を辞めたことがあったのだ。その後、紆余曲折を経てまたサッカー部に戻ってこられたが、本人としてはやはり楽しくない思い出だろう。


「そう考えると、あのロッカーの悪戯もほかの部員がその幡ヶ谷さんっていう人のイメージを悪くするために仕込んだものなんじゃあないかって気もするし、これ以上昔のことを引きずっても仕方がないと思う」

「じゃあ、もう良いのか?」

「うん。魔女の呪いなんてものは気にしないことにするよ。あの変な紙切れも片づけて、ロッカーは私が使う」

「そうか」


 何のためにあんな文章が書かれた紙がロッカーに貼り付けられていたのかは不明だが、日野崎はもう気にしないということだったし四谷先生にも過去のことをあまり掘り返さないように釘も刺されているのだ。


「わかったよ。明彦も、もういいよね」

「もともと日野崎の不安を解消するためにしていたことだからな。日野崎が納得したんならそれでいいさ。……今日も練習なんだろう? がんばれよ」

「ありがとう。今日は二人も見に来てよ。衣装は着ないけど舞台稽古するからさ」


 日野崎はそう言って、はにかんで笑った。


 わからないことはいくつか残っているが、これはこれで一件落着だろう。僕はこのときそう思いかけていた。




 そして、その日の放課後。それは起こった。


 僕らは日野崎と一緒に演劇部の部室、つまりホール横の控室に来て扉に手をかけた。


 しかし部屋の中にいた部員たちは僕らのことを一顧だにせず、ロッカーのあたりを取り囲むように立ち並んでいたのだ。そう、あの魔女のロッカーのあたりだ。


「何だ?」と明彦が僕の横でつぶやく。


 何か雰囲気がおかしい。


 十数人の演劇部員たちがそろっているのに妙に静かだった。明彦の声に一瞬遅れて反応したかのように、彼らは入ってきた僕らを一斉に振り返ってみる。


「どうしたの? 何かあった?」


 僕と同じ感覚にとらわれたのだろう。日野崎が誰にともなく尋ねる。


「日野崎さん……」


 烏山さんだった。おろおろと困惑した表情で彼女は僕らに目をやる。何か良くないことが起こったらしいのは伝わってきた。


「これ……」


 彼女が指し示したのは魔女のロッカーの扉だった。


 扉は開けられた状態で、日野崎が着用する予定だったロミオの衣装が乱暴に放り込まれていた。しかも赤い色の液体が塗りたくられ、とどめに一枚の紙が衣装の上に置かれていたのだ。


『警告する。このロッカーを使用する者は魔女の呪いに触れるものと知れ』


 紙切れには殴り書きでそう書かれている。


「何だよ、こりゃ」

「私たちが来た時にはこうなっていたんだ」


 答えたのはあの理知的な雰囲気の女子部員、仙川さんだ。


「お前、もともとロミオ役やりたがっていただろ。日野崎さんに嫉妬してこんな悪戯したんじゃあないのか?」


 男子部員の一人が冗談めかしてそんなことを言い出した。だが仙川さんからすると神経を逆なでする発言だったらしい。


「馬鹿も休み休み言ってほしいね! そりゃあ、ロミオ役を志望していたのは事実だけど。だからってこんな趣味の悪い悪戯したりなんかしないよ。高井戸の方こそ、今日部室に一番に来たらしいじゃないか。君の方がよっぽど怪しい」


 高井戸と呼ばれた男子生徒はむっとして黙り込む。


「あの、ちょっと聞きたいんだけど」


 僕は烏山さんにそっと声をかけた。


「何?」

「少なくとも、昨日の放課後の練習終了時は異常なかったんだよね」

「ええ」

「それで今日練習に来た時にこうなっていたってことは、今日の朝から終業のホームルームくらいのまでの間に誰かがこれをしたってことだろうけど。その間この部屋の鍵ってどうなっていたの?」

「特にかかっていないの」


「おいおい。不用心すぎやしないか?」と明彦が口を挟む。

「だって平常授業でもこのホールを使うことはあるし、貴重品なんて置いてないから。早朝、用務員さんが開けたら、夜に閉めに来るまでそのままよ」


 ということは、この嫌がらせは誰にでもできたことになる。ここに日野崎が使う衣装があることを知っていた演劇部関係者なら誰にでも。


「何だ。まだリハーサルを始めないのか?」


 背後から怪訝そうな低い声がかかった。柴崎先生だ。


「先生。これ……見てください」


 烏山さんがおずおずと汚されてしまった衣装と紙切れを差し出した。


「これは……ひどいな。誰かの悪戯か?」


 柴崎先生はロミオの衣装についた赤い液体を手で触って匂いを嗅いだ。


「どうやらこれはただの水彩絵の具だな。洗濯すれば落ちるだろう」

「そうですか。でも、誰がこんなことを……」

「誰かは知らんが大方、魔女のロッカーのうわさを面白がって便乗したんだろう。それならこれ以上ネタにされないように、このロッカーの使用は控えた方がいいかもしれないな」

「そうですか」

「日野崎。すまないが、しばらくは我慢して段ボールか別のロッカーを使ってくれ」

「はあ……」


 日野崎は若干釈然としない表情をしていたが、顧問の先生の言葉に異を唱えるべきではないと思ったのか、素直に従った。


 だが、僕の胸の中では何とも言えない嫌な感覚がわき上がっていた。呪われたロッカーを不安がっていた日野崎がせっかく前向きになろうとした矢先にこの有様だ。明らかにここには何らかの悪意がある。そしてそれはおそらくこのロッカーとそれをかつて使っていた幡ヶ谷礼香という女子生徒に関係があるのだ。


 日野崎は気にしないようにするとさっき言っていたし、四谷先生は過去のことを掘り返して誰かを傷つけるようなことはするべきではないと僕に忠告した。だが、今何もしないでいたら更に傷つく人間が増えるのではないだろうか。


 少なくとも、この魔女のロッカーのいわれに便乗した誰かのせいで、演劇部員たちは不安がり疑心暗鬼にとらわれている。


「烏山さん」


 僕は演劇部長である彼女にそっとささやく。


 すでに演劇部員たちはリハーサルの準備を始めようと、舞台のセットや小道具の確認などバタバタ動きはじめていた。


「何?」

「ちょっと話があるんだけどいいかな」


 僕は烏山さんを部室から連れ出して、廊下で二人きりになる。


「話って?」

「確認するけど、演劇部員の中で日野崎のことを疎ましく思っている人間とかいるのか? もしくはロミオ役をすることに反対しているやつとか」

「そりゃあ、最初は部外者を重要な役に据えることに反対した人もいたけれど、いざ実際に日野崎さんに来てもらって参加したときには、彼女がはまり役だってみんな納得してくれたわ」

「本当に? 全員が?」

「ええ。だいたい、文化祭まであと二週間よ? ここで他の人に代わったりしたらかえって混乱しちゃうわ」

「じゃあ、あんな風に嫌がらせをして得をする人間なんていないってことか」

「そう断言できるわね」


 烏山さんは腕組みをしながら力強く頷いた。


 彼女の言うことは理に適っている。


 部内の人間が日野崎に反感を覚えて、追い出そうとするならもっと早く行動に移しているはずだ。文化祭目前のこの時期で日野崎の使う衣装を汚して嫌がらせをしても、演劇部の公演に支障をきたすだけだ。


 じゃあ誰が何のために?


 あるいは一見誰の得にもならないように思えてもあの嫌がらせには意味があるということか? そしてそれが四年前に所属していた幡ヶ谷礼香という女生徒と関係があるということなのか?


「もう一ついいかな」

「何?」

「四年前か五年前に演劇部に所属していた生徒の名簿とかって残っているかな?」

「名簿?」

「ああ。幡ヶ谷という女子生徒がこの部を去ったときに、本当は何が起きていたのか確認したい」

「あなたたち、本当に友達思いなのね。私たちとしてもそれで事態が解決するのならありがたいけれど。でもうちの部に残っているのも単純な名簿だけで住所とか連絡先までは載っていないよ?」

「なぬっ?」

「当時の演劇部員の連絡先を確認したいなら、過去の卒業アルバムと照らし合わせないと分からないんじゃあないかな」

「そ、そうなのか……」


 そうなると職員室に行って見せてもらわないといけないわけだ。しかし、すでに四谷先生にああ言われてしまった以上「すいません。昔の卒業アルバムを見せてください。演劇部のOBと連絡取りたくて」などと言って、アルバムを借りるわけにもいかない。


「でも、要はうちのOBと連絡が取れればいいんだよね」

「そうだけど」

「それなら大学に行ってみるっていうのはどう?」


 烏山さんは人差し指を立てて僕にウインクして見せた。

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