第32話 魔女の九九

「星原。いるか?」


 僕はいつものように図書室の隣にある空き室のドアを開けた。僕と星原は放課後にこの空き室で一緒に勉強会をしている。ただ、僕の方は予備校や明彦と帰りに遊びに行くこともあるので基本的にはこの部屋を使っているのは星原の方だともいえる。


 革張りのソファーで小柄な少女が寝そべっていた。黒髪を肩のあたりで切りそろえていて肌は儚げな雪のように白い。彼女は僕の声を耳にして面倒くさそうに起き上がる。


「『世の中に、人の来るこそうるさけれ』」


 僕の方を見てニッと笑ってみせる。


「『とはいうもののお前ではなし』ってね。どうしたの。今日は勉強会には来られないんじゃあなかった?」


 僕と明彦は演劇部での一件でとりみだしていた烏山さんから「魔女のロッカー」とやらにまつわる事情を聞き出した。そして問題の紙片を調べるために一枚拝借して、明彦と別れて星原に会いに来たというわけだ。


「とりあえずこれを見てくれないか」


 僕は星原に例の紙片を差し出した。


「何これ?」


 そこには殴り書きでこう記されている。



『私の後進となるものに警告する。 幡ヶ谷礼香』


『一を十となせ。二を去るにまかせよ。三を等しくせよ。しからば汝は富まん。四は棄てよ。五と六を七と八に成せ。かく魔女は説く。かくて成就せん。すなわち九は一にして、十は無なり。これを魔女の九九という』



「この間から日野崎が演劇部に出演を依頼されて一時的に参加しているんだけどさ。うちの演劇部の部室には魔女のロッカーと呼ばれている、使ってはいけないロッカーがあったらしいんだ。開かずの部屋みたいなものかな。……それで、たまたまその禁じられたロッカーを日野崎が知らずに開けてしまった。その中にあったのがこの紙切れ。これだけじゃあなくて同じ内容のものが何十枚もロッカーの中にびっしりと貼られていた」

「魔女のロッカー?」

「ああ」


 烏山さんに聞いたところによると、四年ほど前にうちの学校の演劇部に癖の強い一人の女生徒が所属していたという。彼女は容姿も優れていて演技力も光るものがあったが、他人に対して高圧的で傲慢なところがあったのだそうだ。そのため他の部員からは陰で嫌われていた。


 ある時、文化祭で劇をする際にヒロインを部員の中から決めることになり、当然彼女は立候補した。彼女自身、実力からいって自分が選ばれるという確信と自負があったのだろう。だが実際には選ばれたのは他の女子部員だった。そして代わりに彼女が演じることになったのは悪役の魔女だった。


 実力はあっても人望に欠けていたのが原因だったのだがプライドの高い彼女はそれを認められず、その後自主的に部を辞めた。いやそれどころか、しばらくして学校からも去っていったのだそうだ。去り際に彼女は『私をおとしめたことを必ず思い知らせてやる』と憎々しげに部の関係者に告げた。


 彼女が使っていた一番右端のロッカーは、代々演劇部のトップと評価される実力者が使用するロッカーとして引き継がれていたものだった。


 しかし彼女が去ってからは呪いがかかっており使用者に不幸が降りかかると伝えられていて、いまだに使おうとする者がいなかった。


 その話を聞かされた日野崎が縁起の悪いものに出くわして気に病むような様子だったので、僕は何とかできないかと星原に相談に来たわけである。



 話を聞き終わった星原はふうんと小さく相槌を打ってから、こんな風に話を切り出した。


「ねえ、月ノ下くん。そのロッカー、今まで開けた人はいなかったの? その女子生徒が去ってから何年も経っているんでしょう?」

「ロッカーには錠前がかかっていた。その女子生徒がかけたらしいんだ。……といっても四桁の数字を合わせるよくあるタイプの奴だから根気よく合わせていけば開けられたとは思う。日野崎に聞いたところでは、数字ダイヤルがわずかにずれていて何となく合わせてみたら開いちゃったんだって」

「じゃあ、何年か前に部員の誰かがすでに開けたことがあったのかもね。それで中を見て不気味に思ってまた閉じた、とか。この紙に書かれている幡ヶ谷はたがや……れいか? その礼香れいかという人が、その魔女と恐れられていた人なの?」

「ああ。転校したのか自主退学か知らないが、演劇部でのいざこざの後で学校を去ったそうだ」


 だが、部活にいづらくなったからといって学校もやめるというのは少し大げさな気もする。たまたま他の理由で学校を去ることになったか、そうでなければ誰かが話を誇張したのではないかと僕は内心考えていた。


「その人が部を辞めるきっかけになったその劇のタイトルとかってわかる?」

「『眠り姫』だったかな。もっともこれについては烏山さん、日野崎をスカウトした演劇部の人だけど。彼女もだいぶ前に先輩から聞いた話だからはっきりとは覚えていないとも言っていたな」

「ふーん。なるほどね。もしかして『ファウスト』なのかと思ったけれど勘違いだったかしら」


 星原は含みのあるような物言いをする。


「何だ? もしかして何かわかることでもあるのか?」

「結論から言うわ。この紙片に書かれている文章だけれど。別に呪いの言葉でも何でもないわ」

「へえ?」

「ここに書かれているのはゲーテの戯曲『ファウスト』の一節よ。俗に魔女の九九と呼ばれている文章ね」

「魔女の九九?」

「そう。……月ノ下くんは『ファウスト』ってどんな話か知っている?」

「たしか、ファウストという名前の博士が悪魔メフィストフェレスを呼び出して、願いを叶えてもらうんだよな。でも最後に悪魔に騙されてしまうんだっけ?」


 星原は僕の言葉に小さく頷いた。


「大体そんな感じね。とても長い話だから大まかにまとめると、学問の研究に明け暮れて年老いたファウスト博士は自分の命が尽きかけているのに未練ばかりが募って煩悶していた。そこに悪魔メフィストフェレスが現れる。ファウスト博士はメフィストフェレスの甘言に乗せられて悪魔の契約をする。魂と引き換えにこの世の全ての美と享楽を味わうことを、この世の中で最も美しい瞬間を手に入れたいと願うの。それから彼は魔女の薬を手に入れて若返ると、素朴な町娘グレートヒェンに恋をする」

「要するに、学問ばっかりの人生を送っていたけど普通に青春をしてみたくなったわけだ」


 星原は僕の言葉にくすっと笑った。


「ま。俗っぽいけどそういうことね。だけど、せっかく彼女と愛し合えたのに誤解とすれ違いからグレートヒェンは罪人として投獄されて死んでしまうの」

「それから?」

「それから、ファウスト博士は自分の人生を充実させるために皇帝に仕えて国を再建させたり、戦争で活躍したり、神話の世界に旅立ったり、とにかく冒険を繰り広げる。最後に理想の国を作り上げたと確信するのだけれど、それはメフィストフェレスの策略で騙された彼は魂を取られて死んでしまう。しかしその魂は天国の恋人グレートヒェンが祈りをささげてくれたため地獄に落ちることなく救済される、という話よ」


 なるほど。詳しいところは知らなかったがそういう話なのか。


「名作なのかもしれないけど、ものすごく長そうで読破できる気がしないな……。それで魔女の九九とかいうのは? どう関係しているんだ?」

「序盤のところで、魔女がファウスト博士に若返りの薬を作るために呪文を唱える場面があって、その呪文が魔女の九九なの。でもこれ自体は一から九までの数字に神秘学のように世界の成り立ちを表現して詩のような形にしただけで、実際はそんな深い意味はないという風に作中では評されている」

「何だよ。もっともらしいけど、ただの意味のない戯言ってことか?」


 星原は僕の言葉に悪戯っぽく微笑んで見せた。


「いやいや。実はこれ、ただの戯言でもないの。この言葉に従うことで魔方陣を作ることができるのよ」

「まほうじん? 悪魔を呼び出すのに使うやつ?」

「それは魔『法』陣。マジックサークル。私が言っているのは魔『方』陣。マジックスクエアよ。ほら。縦三マス、横三マスの九マスに分けられた正方形にそれぞれ異なる数字を入れていくパズル」

「ああ。あの縦とか横とか、どの列全てを足しても等しくなるようにするやつか」


 彼女は「ちょっと待ってね」と呟くと、ノートを取り出してシャープペンシルで何やら書き込み始める。やがてノートに九マスに分けられた正方形が描かれた。


 一番上の段には左から「1」「2」「3」。

 真ん中の段には「4」「5」「6」。

 一番下の段には「7」「8」「9」。


 この状態だと単純に1から9までの数字が左上から順番に並んでいるだけだ。


「これをどうするんだ?」

「いい? 見ていてね」


 星原は魔女の九九の文言を唱えはじめる。

「『一を十となせ』」


 星原は消しゴムとシャープペンシルでノートに書かれたマス目の数字を書き換えていく。左上の「1」が消されて「10」になった。


「『二を去るにまかせよ』つまりここは通り過ぎる」

「『三を等しくせよ』。これも数字は同じままでいい。これで一番上の段の合計は十五に増えた。これが『しからば汝は富まん』ということ」


 星原のシャープペンシルは「2」「3」を通り過ぎて真ん中の段に移った。


「『四は棄てよ』つまりここはゼロ」

「『五と六を七と八に成せ』これは5と6を7と8に入れ替えるということ」


 真ん中の段の「4」は「0」に、「5」「6」は「7」「8」へと書き換えられた。さらに下の段の「7」「8」も「5」「6」に書き換えてしまう。


「『かく魔女は説く。かくて成就せん』こうして魔方陣は完成する。『すなわち九は一にして、十は無なり』九マスで一つの形となり、十マス目は存在しない。つまり棄てられた4は最後のマスに入れるしかない」


 星原は一番右下のマスの「9」を「4」に書き換えた。


「『これを魔女の九九という』」


 星原が書き換えた九マスの中の数字を僕は確認する。


 一番上の段には左から「10」「2」「3」。


 真ん中の段には「0」「7」「8」。


 一番下の段には「5」「6」「4」。


 縦と横の和を暗算してみると、確かにどれも十五になっている。


「なるほど。だけど魔方陣って一から九までの全ての数字を使うものじゃあなかったか? これだと零と十が入った代わりに一と九がないぞ?」

「でも、九つのマス目で一つの正方形を成しているでしょう? つまり形そのものに一と九が使われている。つまり零から十までの数字が含まれた調和のとれた世界を表現しているの。本来のルールを若干無視している変則バージョンの魔方陣というわけね」


 星原はこれでおしまい、とノートを閉じた。


「ほほう。なかなか面白い話だった。……しかし、なんだってこんな古典の戯曲を引用して紙に書き込んでロッカーに張り付けるなんてことをしたんだろ」


 首をひねる僕に星原は「うーん」とうなってから口を開いた。


「単なる嫌がらせだったのかもよ? 昔、アメリカのクリントン大統領が次の代のジョージ・W・ブッシュ大統領に政権交代するときに嫌がらせでホワイトハウスの全てのコンピュータのキーボードからWの字を抜いた、なんて話もあるわ。ロッカーに意味ありげな紙片を貼り付けるくらいの悪戯をする人も居たって不思議ではないんじゃない?」


 そうなのだろうか?


 でも貼り付けた本人に聞くことができない以上確かめるすべはないな。


 まあ、少なくともこれで恐ろしげに見えた文章に大した意味がなかったことは確認できたのだ。


「これ以上は考えても仕方なさそうだな。……ありがとう。星原。今日分かったことだけでも日野崎に話してみるよ。呪いの言葉じゃないと分かっただけでも元気が出るかもしれないしね」

「大したことはしてないけど、どういたしまして」


 星原は片目をつぶっておどけてみせた。

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