第2話 回想、そして過去の因縁

 それは一週間ほど前のことだった。


 いつも星原と僕は勉強会をするときは、事前にメールで互いにやり取りをしている。しかしこの時はたまたま星原が人気のない廊下を一人で歩いていたので、いちいちメールで尋ねることもあるまいと思って僕の方から声をかけて尋ねたのだ。


「星原。今日はいつも通りの時間でいいんだよな?」

「月ノ下くん」


 振り返った黒髪の少女が微笑んで答える。


「ええ。私の方も特に用事はないし、放課後待っていて」


 だがこの時、周りに人がいないというのは僕の勘違いだった。僕たちが話しているのを見ている第三者の存在に僕は気づいていなかったのだ。


「へえ? 星原さん、男の子と付き合っていたんだ。意外ね?」


 後方から聞こえてきた声に振り向くと一人の少女が立っている。僕よりも背の高い、はつらつとした印象のある少女だった。


 髪型は毛先が首にかかるあたりで短く切りそろえている。ボブカットというやつだろうか。何かスポーツでもやっているのか、しなやかな健康美を感じさせる四肢。それでいて筋肉質というほどでもなく、女らしさをほどよく感じさせる胸のふくらみが美しい曲線を形作っている。


 だが何より特徴的なのはその目だった。少しつり目だが、大きくてキラキラしている、猫のような瞳。鼻筋も通っていて、ある種の美人ではあるのだが……。


 何だろう。理由は分からないが、僕はこの子にどうも拒否感がある。


綾瀬あやせ……さん」


 星原のつぶやきが耳に届く。どうやら星原はその子と顔見知りのようだった。いや僕も一応顔は何度か見かけている、たしか隣のクラスの生徒だったような気がする。ただ一年の時も別のクラスだったので名前までは知らないし、話したこともなかった。


「ふうん。星原さんの趣味ってこういう人なんだ。へええ」


 綾瀬と呼ばれたその少女は、僕の事をじろじろと無遠慮に品定めするように見ている。


 僕はなんだかあまりいい心地ではなかった。


 それにこの状況。星原と話しているところを第三者に見られ、しかも恋人同士というふうに受け取られているこの状況はなんともまずい気がした。


 僕と星原はそれなりに親しい間柄ではあるし、少し前に僕から星原に「これからもそばにいたい」というようなことを伝えたものの付き合っているかというと微妙な線だ。結局星原が僕の事をどう思っているのかはわからないし、デートらしいことをしたわけでもない。


 ここで星原と僕が付き合っているなどという噂が流れて、顔を合わせづらくなってしまったら。それにそういう噂が流れることは星原にだって迷惑がかかるのではないか。そもそも僕が声をかけるときにもう少し周囲に気を配っていれば。僕は心中で臍を噛みながらも何とかこの場を取り繕おうと言葉を紡ぐ。


「いや。別に付き合っているわけじゃなくて。たまたま、中間テストに備えて勉強会をするというだけだよ」

「へえ。そうなの。あまりそういう風には見えなかったけどそうなんだ? 私は、C組の綾瀬。君は?」

「B組の月ノ下だけど」

「そう。月ノ下くん。ふうん。じゃあ彼女とかいるわけ?」

「いや、別に」


 綾瀬という少女はなおも僕と星原に絡んでくる。


 僕は星原の顔をちらりと見た。なんだかこわばっているようだ。


「あの、綾瀬……さん。何か私に用でもあるの?」


 星原がトーンを抑えた声で尋ねる。


「ああ。あのほら、来週のクラス対抗の球技大会。星原さんはテニスに出るんだってね。私もテニスに出ることになったから、よろしくって伝えに来たのよ」


 星原はそれを聞いて、何だかますます硬い表情になっていた。


「そう。こちらこそ、よろしく」


 彼女はその言葉に軽く微笑んで、踵を返して去っていった。




 綾瀬という少女と言葉を交わした日の放課後、いつも勉強会をしている空き室で僕は星原に尋ねた。


「なあ星原。あの綾瀬とかっていう女の子。星原と何かあったのか? 単なる知り合いにしては何か態度に含むものがあったみたいなんだが……」


 星原は僕の問いに物憂げにため息をついて答えた。


「あの子の名前は綾瀬響子あやせきょうこさん。私の中学時代の同級生だったの」

「へえ。それで? その中学のころに、その綾瀬さんとなにかあったのか?」

「……えっとね。あの子、小学生のころからテニスを習っているとかで、すごくテニスが上手いの。中学の時、地区大会の上位に入賞するくらいの腕だったのよ」

「そりゃすごいな」

「……でもね。私、その綾瀬さんにテニスで勝ってしまったの」

「へ……。えっ! 星原ってテニスやっていたのか?」


 こういってはなんだが、星原は線の細い文学少女という外見である。もちろん普段の様子を見る限り特に運動神経が悪いわけではないが、大会の上位入賞者に勝つほどテニスが上手いとは思いもしなかった。


「いや、やってはいたけど。なんて言ったらいいか……」

「?」


 星原は困ったような顔をして、顔を伏せた。




 星原がその後、重い口調で説明したところによると、確かに星原にはテニスが趣味の親戚のおじさんがいて、その人の所に遊びに行くときに何度かテニスを習ったことはあるらしい。しかし腕前そのものはあくまで人並であり特に上手いというレベルではないのだという。


 中学の授業でテニスをやる場面があったときに、体育教師から「この中でテニスをやったことがある者はいるか?」と聞かれたときに真っ先に挙手したのが件の綾瀬という少女であり、星原も一応経験はあるということで、少し遅れて手を挙げた。


「ただ、その時のタイミングと周りの反応がねえ……」と星原はぼやいた。


 綾瀬という少女がテニスをやっていることは、それ以前から周りの人間もある程度知っていたし、そのクラスでテニス部に所属しているのも彼女だけだった。


 ちなみにこの近辺の中学校にはテニスコートがない所もあるらしいし、学校によっては部活で使うことはあっても授業でテニスをしないところもある。僕のいた中学ではテニスコートはあったが、結局授業ではやらなかった。競技人口としてはサッカー、野球、バスケの次くらいに来るような感じらしいので、中学に入るより前にやっている人間はさらに「特別」な印象があるというわけだ。


 なので、綾瀬さんが手を挙げた時も周りはまあそうだろうな、という羨望交じりの反応だったのだが、そこに星原が遅れて手を挙げたので「えっ。星原さんもやっていたんだ。すごい!」と驚かれた。


 そして綾瀬さんとしては(これは僕の推測だが)自分だけが脚光を浴びるはずの場面で星原という対抗馬が現れたので星原の事が気に入らなく思えたようだ。


 その後テニスの授業が始まって何週間か過ぎたころ、授業の最中に「ちょっと試合をやってみない?」と声をかけられたのだという。


「でもね、綾瀬さん、私に必要以上に対抗意識を燃やしていたみたいで、力がいつもよりも余計に入ってしまったらしいの……」


 最初は綾瀬さんが優勢だったものの自分以外に経験者がいたという認識が動揺を誘ったのか、フォルトになったり、ラリーで打ちやすい絶好球を返してしまったりとミスが目立ち始め最終的にはフォームが乱れてサーブミスを連発する始末だったのだそうだ。


「それで、結果的には綾瀬さんの自滅みたいなものなんだけど。周りの人たちは『すごい! 地区大会に上位入賞の綾瀬に勝った!』って騒ぎ立てちゃって。私はどうしたらいいかわからなかったの。でも綾瀬さんは悔しそうな目で私をにらんでいたわけ」


 その時の情景を想像した僕は、思わず気まずい心地になって顔をしかめた。


「こういったらなんだけど、たまたま自分の他にテニスをやっている人がいるからって動揺するくらいのメンタルで、よく大会の上位まで行けたもんだな。……まあスポーツとか全然得意じゃない僕なんかに言う資格ないかもしれないけどさ」

「そのあたりは人によるんじゃない? 相手も学校を代表するくらいのプレイヤーだったら、条件も同じだし互いに緊張してるし、全力を出して負けても仕方がないって思えるけど。私みたいなテニス部にも所属していない人に、もし負けたらって考えて逆にプレッシャーになってしまったのかもしれないわね」

「しかし、その話を聞く限り、星原に悪いところは何もないような……」

「うん。綾瀬さん自身も自分のミスで負けたこと自体は理解しているんでしょうね。実際その後、別に綾瀬さんからいじめを受けたとか嫌がらせをされたということはなかったわ。ただ、ほとんど口を聞かないような感じにはなったけど」


 星原は憂鬱な表情でソファーに寄りかかり天井を見上げた。


「私もたまたま同じ高校には入ったけどクラスは一年二年連続して別になったし、忘れかけていたのよ。だから何の気なしに球技大会でテニスを選んでしまったわけ」

「なるほどな。でも向こうは覚えていてあの時は実力で負けたわけじゃないと自分に証明したいわけだ」

「まあ、そうでしょうね。確か組み合わせだとC組と一回戦で当たることになっていたから。きっと綾瀬さん一方的に点差をつけて私を負かすつもりなんじゃないかしら。まあ、たかがクラス対抗の球技大会なんだし別に重く考えたくはないんだけど、少し憂鬱だわ」

「星原も大変だな」と僕は同情した。


 そう。この時点では僕も多少関係しているとはいえ、まだ他人事のつもりでいたのだ。いたのだが……。

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