放課後対話篇2
雪世 明楽
テニスと「百足の踊り方」
第1話 感覚の言語化
想いは正しく伝わらない、なんていうけれども実際頭の中で考えていることを正確に言葉として表現するのは簡単そうに見えて難しい。
例えばとても苦しい気持ちを抱えて悩んでいるときに、窓の外をみると自分の気分とは何の関係もないかのように雲一つなく透き通った青空が広がっている時に感じる世界からの疎外感。
あるいは二人きりの時には楽しく過ごしていた相手が別の知人と一緒にいると、相手とその別の知人だけが自分と話していた時より楽しく盛り上がっている時の気持ち。
そんな感覚的な経験を言葉にしろと言われた時、正確に伝えられる人間がどの程度いるのだろう。豊富な語彙を持つ人間が国語力を総動員させて文章にしたところで、せいぜい六十パーセントも形にできればましだろう。
更に言うならば表現の粋を凝らして伝えようとしたところで、正しく受け止めてくれるかは、受け手の知識や精神状態に左右される。果たして伝えた言葉のうち何割を理解してもらえるのだろう。
言葉というのは他者に意思を伝えるためにあるにもかかわらず、その機能を十分に発揮しているとは言い難い。
例えば今、僕の目の前の参考書に書かれた文章にしてもそうだ。
「混沌とした情動の中にある概念に、名前が与えられることで初めてそれは存在を知覚され、理解へとつながる、か。この人一体何が言いたいのかな」
僕は目の前の大学の試験問題の過去問題集をにらみながら、ぼやき半分につぶやく。
天井には部屋を照らす青白い蛍光灯。床にはタイルカーペットが敷かれ、備品を収納する棚が端に置かれている。それなりに整然としてはいるものの壁には多少の褪色やシミがあり、どことなく年季が入っていた。
ここは本校舎内の図書室の隣にある半分倉庫として使われている空き部屋だ。
部屋の中央に置かれたテーブルの周りにL字を描くように二人用のソファーと一人用のソファーが置かれている。僕はその一人用のソファーで頭を抱えていた。
「そんなに難しいかしら? 確かに言い方はやたらと難解だけど、筆者の意図はわりと理解しやすいと思うわ」
隣の二人掛けのソファーに座った少女が髪をかきあげる。ブレザーの制服を着て、黒い髪を肩のあたりで切りそろえた色白の少女である。彼女は
僕、
そして、それをきっかけに小説家志望であった彼女から、自分の書いた小説の構想を聞いて意見を聞かせてほしいと頼まれ、学校内にある空き部屋で放課後一緒に過ごすようになったのだ。その後夏休みを前にした七月に小説は完成して、僕と彼女の文芸部じみた活動も一段落した。しかしその後も勉強会をするなど時間を共有する日々が続いていたのだった。
今も大学受験のために、一緒に現代文の問題集を解いていたところである。
「それじゃあ、星原はこの筆者の意図を理解できたのか。……できれば僕にもわかりやすく教えてほしいんだけど」
僕の言葉を受けて彼女は言葉を探すようにしばし瞑目した。
「そうね。こういう筆者の主張が概念的な書き方しかされていないときには、具体的な事例に置き換えれば腑に落ちると思うわ」
「具体的な事例?」
「例えば今回の場合だけれど。……月ノ下くん、こんなエピソード知っている? あるところに日本に何年も暮らしている日本語ペラペラのアメリカ人がいたの。それである人がそのアメリカ人に『生きがいって英語で何ていうんですか?』と尋ねた」
「うん」
「すると『そういえば、英語には生きがいという言葉がありませんね』って言われたの」
「え? 生きがいって言葉、英語にないの?」
「和英辞典とかで調べると、例えばREASON FOR LIVINGなんて書いてあるけどね。でもそれがないと生きている理由がないということを一語であらわす日本語の『生きがい』にあたる名詞はないみたいよ」
「そうなのか」
「ということは、その人は日本に来て『生きがい』という単語を知るまで、生まれてきて良かったと思うような楽しいことがなかったのかという話になるのだけれど。でも普通の人が毎日を生きてきて人生の楽しみが全くなかったなんてことはないと思うの」
「なるほどね。今までの人生の経験の中で、心の中で生きがいを感じることはあった。しかし、それを言葉で言い表す手段を持っていなかったから、知覚することができなかったと」
星原は僕の言葉にうなずいて満足したように微笑んだ。
「そうそう。つまり、日本に来て『生きがい』という名詞を使うようになって、心の中の名前のなかった感覚を理解するようになったのよ」
「言いたいことはわかってきたよ。……つまりこの筆者の言っている『混沌とした情動の中にある概念』というのはまだ形容する言葉が発明されていないような、感情や経験のことを言っているわけか。そしてその感情や経験に名前を付けることで人間はそれを自覚し、理解できるようになる、と」
「そういうこと。私の教え方も満更じゃないみたいね」
「ああ、わかりやすかったよ」
僕は称賛の意味を込めて、小さく拍手をする。
と、不意に気になって時計を見ると十七時二十分だった。そろそろ行かないとまずいな。
「……あ、あの、星原」
「ん、何?」
「ちょっと今日用事があるんだ。悪いけど、今日はもう抜けさせてくれ」
星原はノートに書き込む手を止めて僕を咎めるように睨んだ。
「……何? まさか。本当にあの子のところに行くつもりなの?」
僕はそんな彼女の視線を受けて、何だか少し後ろめたく感じてしまう。
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