発明家の遺産

姶良守兎

発明家の遺産

「あ、おじいさん、どうぞこちらへお座りください」


 満員電車に、杖をついた老人が乗り込んできたのを見て、青年は、とっさに声を掛けた。最初、老人は遠慮して座らなかったが、青年が「いえ、いいんです。次の駅で降りますから」と言うと、老人はお礼を言い、席についた。

 その後すぐ、青年は、これから仕事で訪問する客先のことを、色々と考え始め、すぐに老人のことなど忘れてしまった。


「あのう……済みません」


 青年が目的の駅で電車を降りると、背後から、誰かに声をかけられた。振り返ると、先ほど席を譲った老人だった。彼もどうやら同じ駅で電車を降りたようだった。


「先ほどは、どうもありがとうございました」老人は、青年に深々と頭を下げ、丁寧に礼を述べた。

「わたくし、こういうものです」彼は、使い込んであちこち擦り切れた財布から、角がくしゃくしゃに潰れた、ぼろぼろの名刺を取りだして、青年に差し出した。


「はあ……わざわざご丁寧に……どうも」

 青年は名刺を受け取った。そこには「発明家」という肩書きと、老人の名前、連絡先などが書かれていた。怪しいジイさんだな、と彼は思った。そもそも発明家なんて、なにか資格があるわけでもないし、本人がそう主張すれば良いだけだ。


 いぶかしむ青年をよそに、老人は続けた。

「こんなに親切にされたのは久しぶりで、感動しました……そうだ、ちょうどお昼時ですし、昼食をご馳走させていただけないでしょうか」


「いえいえ、当たり前のことをしたまでですから、どうぞお気になさらず」

 青年は、そう言いつつも、怪しんでいた。席を譲ったぐらいでご馳走してくれるなんて、なにか裏があるのではないか? おごると見せかけて、あとから「実は持ち合わせがなかった」などと言って、逆に金を払わされるのではないか?


 だが老人は食い下がった。「とんでもない、それではわたしの気が済みません」


 駅のホームは、人でごった返していた。二人が押し問答をしているのを見て、何を揉めているのかと、興味本位の視線を浴びせつつ、通り過ぎる人もいた。青年は困った。これからお客さんとの約束があるのに、暇を持て余したジイさんと、昼食なんぞ、つきあっていたら、間違いなく遅刻だ。


「まあどうぞ、ご遠慮なさらず。とびきり豪華な昼食をご馳走しますよ」

 青年が躊躇していると、老人は満面の笑みで勧めてくる。そこで青年は一つの案を思いついた。

「すみません、今、仕事中で、時間がありませんので……」そう言って彼は自分の名刺を差し出した。「会社の連絡先が書いてありますので、こちらにご連絡ください」


 老人は名刺を受け取り、仕事の邪魔をしたことを詫びると、ばつが悪そうに立ち去った。


「やれやれ、納得してくれて助かった。『知らないジイさんと食事をしていたので、約束の時間に遅れました』なんて、お客さんに言えないもんな」


 ――――


 彼はその後、客先への訪問を終えて会社へ戻ると、職場の女性社員にこう言った。

「僕の外出中、僕あてにセールスの電話が掛かってこなかったかい?」


 彼女は、なかったと答えた。


「そうか、良かった。実は言うのを忘れていたんだけれど、昨日の夕方、みんなが帰ったあと、一人で残業していたら、しつこいセールスの電話が掛かってきたんだ。また掛かってくるかも知れないから、その時は、断ってもらえないだろうか?」

 彼は適当な作り話をしたうえで、その電話の主として、例の老人の名前を伝えた。


 彼女は眉をひそめた。「最近、そういうの、多いわよね。大丈夫、怪しい人からの電話は、取りつがないようにするから安心して。他の人たちにも伝えておくから」


 案の定、その後、「怪しげなジイさん」から数回の電話があったようだが、外出中だとか会議中だとか、適当な言い訳をして、すべて断ってもらった。そのうち老人は諦めたらしく、連絡は途絶えた。やがて青年も同僚たちも、その老人のことなどすっかり忘れてしまっていた。


 ――――


 青年が、日々の仕事に追われている間に、季節は一巡した。


 ある弁護士事務所から、青年の勤め先に、彼あての手紙が届いた。彼は驚いた。何か、訴えられるようなことでも、やらかしたのだろうか?


 戸惑いながらも封筒を開けてみると、差出人の弁護士は、ある人物の代理人とのことだった。彼は弁護士の名前は記憶になかったが、その弁護士が代理人を務める人物の名前を、以前どこかで聞いたことのある気がした。


「もしかしたら……?」

 彼はデスクの中から名刺ホルダーを取り出し、その中から、目当ての、そしてぼろぼろの名刺を探し当てた。

「これだ……やはり、例の自称発明家のジイさんだ。もうあれから一年ほど経つだろうか? 本当は、こんな名刺、必要ないんだが、何かトラブルになると困るから、念のため取っておいたんだ」


 彼は手紙を読み進めた。


 「例のジイさん」は身寄りのない発明家だったが、青年と会ったあと間もなく、病気が見つかり、余命いくばくもないことがわかった。そこで遺産を、親切にしてくれた青年に相続することに決め、それを遺言書として残したそうだ。

 発明家の遺産には、家と貯金、そして発明の成果が多数含まれていた。更には、それらの発明により、特許使用料が定期的に入るらしいのだが、その金額を見て驚いた。


「俺の年収よりずっと多いじゃないか」だが、彼は次の瞬間、思いとどまった。「いや待てよ。もしかしたら、新手の詐欺かも知れない」


 そこで彼は、その自称発明家とやらをインターネットで調べてみた。パソコンの前に座ったまま、世界中の情報を集めることのできる、今の時代は本当に便利だ。

 その老人は、数々の発明で財を成した人物のようだ。理由はわからないが、晩年は他人との接触を拒み、ひっそりと暮らしていたらしい。


「そうか、あのジイさん、本当に発明家だったんだ……疑って申し訳なかったな」


 ――――


「立派な家だなあ。俺の狭いアパートとは桁違いの広さだ」


 数ヶ月後、正式な手続きが終わり、自分のものになった大豪邸を訪れて、青年は驚いていた。税金もかなり取られたようだが、それを差し引いても、当分遊んで暮らせるだけの蓄えがあった。


 豪邸の二階に仕事場と思われる部屋があり、デスクの上には腕時計のような機械と、それに関係しそうな資料が置かれていた。資料には「読心器」と書いてあった。


 彼は、興味本位で、資料を取り上げ、読んでみた。それは老人が作り出した発明品の一つで、腕時計のように手首に着けておくだけで、テレパシーさながらに人の心を読むことができるそうだ。動作原理についても書かれていたが、彼にはちんぷんかんぷんだった。

「これが理解できるくらいなら、もっといい仕事についてただろうな。まあいいや、この腕時計みたいな機械が、その発明品のようだ。早速試してみよう」


 彼はその「読心器」を腕にはめてみた。見た目は、良くあるスマートウォッチと変わらなかった。そして資料とにらめっこしながら、操作してみた。


「画面上で、この『プラス』のアイコンをタップすると、検出範囲が広がり、最大、周囲二十メートルにいる人の心が読めるのか……『マイナス』のアイコンは範囲を狭めることができ、目の前にいる人だけに集中できる。そのほかにも、いくつかのアイコンがあるが、オプション機能のオン・オフだな。使い方は意外と簡単なようだ」


 そして彼は、部屋の窓から外の風景を見た。すると黒ずくめの、怪しい男の姿が目に留まった。プラスのアイコンをタップして検出範囲を最大にしてみた。すると男の持つ負のオーラが、どす黒い影となって、男の周囲に放たれるイメージが彼の心に広がった。


「おおお……見えるぞ」青年は興奮した。


 黒ずくめの男の少し前を、老婦人が歩いていた。男には気づいていない様子だった。青年は、読心器の画面上で、スピーカーの形をしたアイコンをタップして「心の声」オプションをオンにしてみた。すると、男が発する「心の声」が聞こえた。


(バアさんのハンドバッグ、二百万円ほど、入っているはずだ。楽しみだぜ)


「あ、危ない」彼は思わず小さく声をあげた。直後、黒ずくめの男は突然走り出し、老婦人のバッグをつかんで強引に引っ張った。

(俺の目の前で、大量の現金なんか持ち歩くからだ。悪く思うなよ)

 黒ずくめの男は、心の声でそう言い残して走り去った。


 老婦人はバランスを崩して転び、その場にへたり込んでしまった。彼女の絶望感が伝わってきて、なんともやりきれない気分になった。


「本当に、人の心が読めるんだ……すごい発明品だ」青年は驚いた。


 その後、青年はアパートを引き払い、老人の残してくれた豪邸に住むようになった。一人で住むには広すぎるようにも思えたが、その広さにも、すぐに慣れた。慣れないのは、部屋数が多く、掃除が大変なことだったが、金で解決した。家政婦を雇い、身の回りの世話を全て頼んだのだ。


 そして間もなく、勤めていた会社も辞めてしまった。


「働いても働かなくても同じだ。それどころか、働いていたら、金を使う暇がない。つまり、今の俺にとって、働くのは、むしろ勿体無いことだ」


 彼は妙な言い訳をして、遊んで暮らすようになった。だがそれでも使いきれないほどの収入があった。発明家の遺した財産は、それほどの価値があったのだ。


 ――――


 青年が優雅な暮らしを満喫していると、ある日、自宅を訪れる者がいた。青年がインターホンに応答すると、その訪問客はこう切り出した。


「以前、この家に住んでいた家主の、遠い親戚にあたる者でございますが、実は、この家の相続権があることが分かり、訪ねてまいりました」


 訪問客の話し方は丁寧かつ穏やかだったが、声の調子は力強いものだった。インターホンに備え付けられたモニターには、目つきの鋭い男性の姿が映っていた。


「いえ、そんなはずはありません」青年は相手の主張をはねのけた。「故人の遺志で、法的な手続きを経て、私が正式に相続したんです」


「そうおっしゃると思いましたよ。ですがこちらにも言い分ってもんがある。だが細かいことは、どうでもいい……法律やら、そういう固いことは抜きにして、まずは本音で、腹を割ってお話ししましょうや」


 青年は、男の態度に不信感を抱き、例の読心器を身につけた。すると、その男からは、ある非合法な組織への忠誠心が感じられた。そして彼の相続した遺産を、殺してでも、横取りしようとしていた。思わず血の気が引いた。

 彼はインターホンの近くにある赤い「緊急通報ボタン」を押した。これで警備会社に通報が行き、すぐに駆けつけてくれるはずだ。


「これ以上、お話をするつもりはありません。どうぞお引き取りください」青年はきっぱりそう言い、話を切り上げようとすると、男が本性を現した。


「ちょっと待てコラ! こっちの話はまだ終わってねえんだぞ!」


 男は門扉を蹴るなどして暴れたが、間も無く警備員が駆けつけ、事なきを得た。


 翌日、彼は警備会社と相談し、二十四時間体制で警備員を配備するように手配した。金はかかるが、発明家の遺産のおかげで、なんとかなりそうだった。


 自称相続人は、その後も幾度となく、訪れてきたが、ことごとく追い返した。


 他にも、噂を聞きつけた数々の人物が、自宅を訪ねてきた。多くは、金目当て、もしくは興味本位と思われた。また、取材と称して新聞社やテレビ局も、多数、来たのだが、果たして本物だかどうなんだか。いずれにせよ、あらかじめ約束した人物以外は全て断り続けた。


「みんな、俺の羽振りが良さそうだと思って、近づいてくるんだ。家は厳重に警備しているから、まだいい。しかし、うかつに外を出歩くと、強盗に遭うかもしれない」


 そこで青年は、外出を控え、家でひっそりと暮らすことにした。外出そのものが危険というのもあるが、同時に、派手な暮らしぶりで目立つのを嫌ったのだ。どうしても出かける必要がある場合には、運転手付きの車に乗り、さらに車を降りてからも、常にボディーガードをつけた。


 ――――


 月日は流れ、青年はやがて老人となった。人付き合いを絶ってしまったため、友人もなく、孤独に歳を重ねていった。外出も、運動も、ほとんどしなかったせいで、足腰は弱り、歩くには杖を必要とするようになっていた。


 そんなある日、彼は愕然とした。

「なんだって? 嘘だろ……俺が……もうすぐ死ぬって?」


 体調を崩して医師に見てもらったところ、なんと彼は重病にかかっていることがわかり、余命宣告を受けてしまったのだった。絶望のなか、ボディーガードに付き添われ、帰宅するが、途中のことは全く覚えていない。


 自宅で一人になると、ふと我に返った。

「俺は長いこと、自宅に引きこもっていたな。その間に、世の中はずいぶんと変わったはずだ。もちろん知識としては知っているが、実際に体験していないことばかりだ。このまま死んでたまるか」


 彼の人生は一変した。それまで、外出時には運転手付きの車に乗っていたのだが、杖をついて、自分の脚で出歩くことに決めた。電車やバスに乗り、その日その日の思いつきで、行き当たりばったりの外出を繰り返した。


 警備会社からは危険だと注意されたが、彼はこう答えた。

「もう俺は死んだようなものだ。たとえ殺されたとしても、死ぬのが少し早くなっただけだし、身寄りもないから人質になることもない」


 そんなある日のこと。彼は電車に乗っていた。お昼前にも関わらず車内は混雑しており、空席はなかった。立ったまま電車に揺られるのは、すっかり老人となった彼には、少々こたえた。


「あ、おじいさん、どうぞこちらへお座りください」


 彼の姿を見かけた親切な若者が声をかけてくれた。だが彼は、つい遠慮して、断ってしまった。すると見知らぬ青年がこう言った。

「いえ、いいんです。次の駅で降りますから」

 そこまで言われると座らざるを得ない。彼は丁寧に礼を言い、座った。


 電車が次の駅に到着し、見知らぬ若者が電車を降りようとすると、老人も慌てて立ち上がり、バランスを崩しそうになりながらも、必死にその若者の後を追って、ホームへ降りた。そして若者に、声を掛けたのだ。


「こんなに親切にされたのは久しぶりで、感動しました……そうだ、ちょうどお昼時ですし、昼食をご馳走させていただけないでしょうか」

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