第5章

修行の朝

「ルカー!朝ご飯出来たわよー!」

 ユキが階段に向かって叫ぶ。2階から「うーん・・・」という寝ぼけた声が聞こえてきて、とた、とた、と階段を下りる音がする。



 千秋がこの世界に来てから、10日が経った。もうだいぶこの世界にも慣れてきて、ユキがご飯を作り、千秋が手伝って、ルカが寝ぼけて起きてくるというこの風景も板に着くようになってきた。

 ルカはぼっさぼさの髪をくりんくりん弾かせながら、目をこすって階段を下りてくる。千秋が「おはよう」と言うと、ルカはふにゃりと笑いながら「おはよぉ」と返した。パジャマがはだけて何とも無防備な格好だが、それだけ千秋を信頼してくれているということなのだろう。

 ルカは「ふあ~ぁ」とあくびをしながら椅子に座って、プレートの上のチーズ乗せパンをもさもさと食べ始めた。


 あの夕暮れの会話以来、ルカも千秋にだいぶ心を許してくれたようである。とはいっても相変わらずのツンデレ属性は健在だが、心なしか千秋に対する態度も柔らかくなった。

「千秋くんも食べよ。あ、ルカ、ちゃんと牛乳も飲みなさいよ」

「わかったわよ~ママ」

「ママじゃない!まだそんな年じゃない!」

 ユキは相変わらずお母さん顔負けの母性を発揮している。

「おばあちゃんは?」

「もう食べ終わって農作業してるよ。相変わらず元気よね~。それに比べてルカ、今日休みだからってだらけすぎ」

「いいでしょ、せっかくのお休みなんだから。それに今日は千秋に武術を教えてあげるんだから、何もしないわけじゃないもの」

「あら珍しい。千秋くん、この子武術なんてめったにやる気出さないのに、どんな魔法使ったの?」

 ユキが驚いた顔をして言う。

 

 昨日帰ってきたあと、ルカが「もしもの時のために教えてあげるわ」と言いだしたのだ。千秋の見た感じ、けっこう嬉しそうに誘ってくれたのだが。

「わたしやるときはやるのよ。あ、千秋そこのジャム取って」

 ルカがパンをもぐもぐしながらしゃべる。

「こら、ルカ飲み込んでからしゃべりなさい」

「ごめんなさーい」

 千秋がジャムをルカの手元に置くと、ルカはパンをもさもさ食べながら器用に2枚目のパンにジャムを塗り、あっという間に2枚目も食べ終えてしまった。

「さ、千秋、ご飯食べたら早速練習よ!早く来なさい!」

 ルカは牛乳をがっと飲み干すと、一目散に玄関に向かってどたどたと走っていった。

「ああ!こらルカ!野菜まだ残ってるじゃない!それに髪もまだ結ってない!ルカ!待ちなさい!!」

 ユキが慌てて追いかけていく。その姿はなんともほほえましく、千秋は思わず笑ってしまった。いつもは気張って凛々しい姿を見せているルカだが、本当のルカの姿はこうなのだろう。わがままで無邪気で、人懐っこい。ユキに追い回されるルカの楽しそうな顔をリビングから眺めながら、千秋はパンをほおばった。



「さて、それでは修行を始めます」

 きりっとした声で、ルカが腰に手を当てたポーズを取って言った。

「ルカ、修行って言っても」

「わたしのことは師匠とお呼びなさい」

「師匠、修行って言っても何をするんですか」


 家の前の大きな庭で、千秋はユキのおじさんのおさがりの青色のシャツに水色のハーフパンツ、ルカはピンクのタンクトップに白いショートパンツのような恰好で、髪をポニーテールにまとめている。2人は夏真っ盛りの午前中の草原のど真ん中に立っていた。

「武術は実践あるのみです。なので、これから私と組手をしてもらいます」

「はあ?!」

 千秋は思わず声をあげた。ルカの怪力はもう存分に体験している。この先の展開は火を見るより明らかだった。

「いやいやいや、ルカと闘ったら僕、体中粉砕骨折しちゃうよ。普通に型とか教えてよ」

「ばかねえ、型なんて実践じゃ何の意味もないのよ。ちゃんと手加減してあげるから」


 そう言うやいなや、ルカが目の前から消えた。

「えっ」

 声を上げるより早く、ルカは千秋の懐深くまで入り込んで、目にも止まらぬ速さで左手を振り上げた。千秋は思わず目をつぶり、全身をこわばらせる。すると、暗闇の中でルカの声が風のように響いた。

「千秋、目を開けなさい!」

 はっとして千秋は目を見開いた。そこには、まだルカの左拳が空中に残っている。

 千秋はとっさに右肘でそれを防いだ。

「そうそう、その調子よ!次行くからね!」


 そのあとも流れるようにルカは拳や足を繰り出したが、それは千秋の目でも追える速さだった。時間がゆっくりに感じられる中で、ルカが攻めて千秋が受ける、という攻防をしばらく繰り返した。

「ま、こんなものかしらね」

 どのくらいの時間が経ったか、千秋の体が限界に近付いていたころにルカはそう言って動きを止めた。

「はあっ、はあっ」

 千秋は息がまだ整わないのに、ルカはまだ息さえ乱れていない。千秋は草原に尻もちをついた。草の冷たさが心地良い。

「うーん、持って2分ってところね。まあ、これくらいできれば大丈夫かしら」

 2分?!もう軽く1時間くらい経っているような感覚だったんだけど・・・。

「でも、初めてにしてはだいぶすごいわね。もっとひ弱かと思ってたわ」

 ルカがいたずらっぽく笑って言った。まったく、相変わらずの化け物じみた強さだ。でも、千秋のスピードに合わせてくれていたんだろう。千秋はケガひとつしていないし、体に痛みもない。

「すごいな、ルカは」

 千秋にはこれしか声に出なかった。まだ息も整わない。一方のルカは急にかあっと顔を赤くして、

「ばか・・・、何言ってるのよ、これくらい当然よ。ま、あなたもこれくらいなら魔物に襲われてもかわすくらいなら出来そうね」

ともしょもしょと言っている。

 千秋はここでやっと、ルカが千秋の身の上を心配して修行などと言いだしてくれていたことに気が付いた。千秋はやっと落ち着いてきた呼吸を整える。

「そっか・・・ありがと、ルカ」

 そう言うとルカは、

「べつに・・・あんたのために・・・・・・!」

 と言いかけて、金色のポニーテールをふりふりと振り、

「ううん、どういたしまして」

 と照れくさそうにくしゃっ、と笑った。その顔はとても嬉しそうで、千秋は不覚にもドキっとしてしまった。胸が変な音を立てて鳴っている。

「さ、一回家に戻りましょ」

 そう言ってルカが手を差し伸べてくれる。千秋はどぎまぎしながらもその手を取って立ち上がった。まあ笑うとかわいいけど、これがいつもそうならベストだよなあと千秋は思う。結局ツンデレというのは後半デレデレキャラになるからかわいいのであって、ツンの要素はそんなに多くなくていいもんだな、と千秋は学習した。


 と、千秋が立ち上がった瞬間、疲れた足がもつれてしまった。ルカが千秋の手を引っ張った勢いそのままに、千秋はルカに覆いかぶさるように倒れ込む。

「うわぁ!」

「きゃあ!!」

 どさっ、という音と共に、2人は草むらに重なって倒れた。千秋は体に力が入らず、ルカに完全に覆いかぶさる形になってしまった。千秋の胸に、ルカの柔らかい胸の感触が広がる。汗に濡れた腕と足が触れて、優しい温かさに包まれた。


 瞬間、千秋が思ったのは、

(やばい)

 だった。

 この状況は間違いなく、リミッターが外れたルカにぶん殴られるパターンである。

「ごっごめん!すぐどくから!」

 急いで腕をついて離れようとしたが、体がまだうまく動かない。もはやこれまでか、と千秋は目をつぶり体に力を入れた。


 が、不思議なことに体に衝撃は走らない。

(ん、、、?)

 と思って千秋が目を開くと、草むらに体を仰向けにうずめているルカは、頬から耳までを真っ赤にして千秋を見つめていた。吐息はさっきよりも荒くなって、その甘い息が千秋に届くほど近い。タンクトップからは白いきれいな肌がむき出しになっていて、腕がかろうじておなかと胸のあたりを庇っている。上目遣いで長いまつげの目は、ひきこまれそうなくらいきれいな色をしていた。

(え・・・)

 ルカに合わせるように、千秋も顔が真っ赤になってしまった。殴られると思っていたのに、目を開けてみたら全く違う反応なのだ。しかもこの顔、この目、まるで・・・。


 と、その時家のほうから声が響いてきた。

「ルカー!スマホ鳴ってるよー!」

 ユキの声だ。この状況を見られたらあらぬ誤解をされる。千秋は渾身の力を込めてルカから体を離した。

「ルカー?!あれ、どこだろ・・ここ置いとくからねー!」

 そう言ってユキは窓を閉めた。何とかばれなかったようだ。ふう、と息をついて、はっとルカのほうを見た。

 すると、ルカはもう何事もなかったように立ち上がっている。

「ごっ、ごめんルカ。足がふらついちゃって・・・。わざとじゃないんだ、本当に!」

 我ながらどうしようもない言いわけだ。こんなんで納得するのだろうか、と思っていたが、肝心のルカはけろっとした顔で、

「わかってるわよ、そんなこと。それより一旦休憩よ。戻りましょ」

 と目を合わせずに言って、すたすたと歩いていった。


(見間違いだったかな)

 確かにあの顔は・・・と千秋は思ったが、ここで聞いても逆効果なだけな気がする。千秋はまだ止まらない心臓の動機を感じながら、ルカの後ろ姿を見つめていた。

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