エルフ郷 ―卓絶の力―
シェキーナの決意は、今初めて込められたわけではない。
この戦いが……ラフィーネとの戦いが始まった時より、彼女はずっと心を決めていたのだ。
―――この戦いでこの力を使えば、自分は変形してしまうかもしれない……と。
シェキーナにとっても、この「抑圧の封壺」の力を使う事は初めてであり未知だった。
ただ強大な力だと言う事は分かっていても、それが自分に……その体や心にどの様な影響を及ぼすのか、それを検証した事など一度として無かったのだ。
だから安易に使用する事はしなかった。
だからこの戦いの中でも、少しずつしか「蓋」を開こうとはしなかったのだ。
それでも事ここに至っては、その様に悠長な事を考えていられる場合ではないと、シェキーナも理解していたのだ。
それ故に彼女は、心配して声を上げたエルナーシャに対して、戦闘中であるにも拘らず優しい笑みを返したのだった。
この日この時を境に、自分が今まで通りで居られるかどうかなど、シェキーナ自身も分からない。
もしかすれば、怒りや憎しみに囚われて元の自分に戻れない可能性も考えられるのだ。
そうなれば、もはや今まで通りの生活など出来よう筈はない。
しかし、目の前の怪物も放置しておく事など出来ない。
もはや、彼女が採択できる手段は……限られていた。
故に彼女は……その微笑に別れを込めたのだった。
「か……
「……エルナーシャ様……?」
先程とは違い、悲痛と思える叫び声をあげたエルナーシャに、彼女を背負うレヴィアが怪訝な声音でそう問いかけた。
シェキーナが彼女達へ……エルナーシャへ向けた笑みの意味を、彼女以外は誰も察し得なかったのだった。
もっとも、微笑一つでその者の心境を知る事が出来るなど……その様な関係である存在など中々居るものではない。
だが、エルナーシャには間違いなくシェキーナの決意が伝わっており、それが分かるからこそ彼女は叫ばずにはいられなかったのだ。
既にシェキーナには、エルナーシャの叫びなど聞こえていなかった。
戦闘中である彼女は、そう長い時間幽鬼の聖騎士から意識を逸らす事は出来ない。
何よりも、これから行う事には意識を全て注がねばならず、一瞬たりとも逸らす事など出来なかったのだ。
ゆっくりと……シェキーナは己の中にある「抑圧の封壺」……その蓋を開いて行く。
それまで僅かに蓋を開いて得た「力」でも、既に彼女にはその影響が出ていた。
全身を襲う苦痛……そして、「自分」が奪われてゆく感覚。
ほんの僅かでも手綱を緩めれば、すぐにでもその意識、そして理性や感情と言ったものまで持っていかれそうになる感覚に囚われていたのだ。
それだけではない。
たったそれだけで、尋常ならざる力を行使できる訳など無いのだ。
代償は……他にも求められており。
それは正しく、目の前のラフィーネがその身を以て実証した事と相違ない。
それだけのものを消費しても尚、シェキーナには成し遂げたい事がある。
しかしそれは、目の前の幽鬼の聖騎士……延いてはその核となるラフィーネを倒す事ではない。
だからこそ……ここで終わりにしない為に、シェキーナはその力を行使する際には細心の注意を払っているのだ。
「む……うう……」
そうまでしても、シェキーナはゆっくりと……そして更に、内に秘めた「抑圧の封壺」の蓋を開いて行く。
それまでの感情に新たなる……そして上回る憤怒と憎悪が上書きされてゆく。
ともすれば、その感情に身を委ねてしまおうと考える自分も確かに存在していた。
抗うよりも、流される方が楽な事に間違いなど無い。
敢えて抵抗し制御しようとせず、いっそこのままその感情の赴くままに行動してはどうかと言う内なる問い掛けが、甘美な程に彼女の中で響き渡っていた。
それでもシェキーナは、強固と言って良い精神力を以て、決して自らの意識を手放す様な事はしなかったのだった。
それは、成し遂げねばならぬ目的の為。
そして今は亡き愛する……愛した者達の為に。
何よりも彼女を心より心配する、かけがえのない存在の為に。
その強き想いで、シェキーナは内なる戦いに勝利し。
湧き上がって来る強い情動を得たのだった。
「ぐ……うう……」
如何に「抑圧の封壺」に封じ込めていた「力」の取りだしに成功したとて、その身を襲う激痛までは防ぎ様が無い。
今、シェキーナの全身は隅々に至るまで、これまでにない痛みに苛まれていた。
肉体が……筋肉が……と言うだけではない。
骨の髄から痛みが沸き起こり、内臓の一つ一つより熱を発しているかのような痛楚が彼女を襲っていたのだ。
「か……は……」
今までに感じた事の無い痛みだが、それでもシェキーナはそれを御す事に成功する。
とは言っても、その苦痛が引いた訳では無い。
あくまでもそれらを捻じ伏せて尚、動くに支障が無いと言う話なだけであった。
それでも。
「これなら……行ける!」
シェキーナは新たに感じた湧きあがる力に、敵を圧するものを感じていたのだった。
距離があればシェキーナならば、幽鬼の聖騎士が使う「腐敗の邪光」や「呪いの紫光」を躱す事が出来る。
そしてそれを知るからこそ、ファントム・ロードも魔法の無駄打ちをせずにじっと彼女が動き出すのを待っているのだ。
この辺りは、取り込んだ召喚主であるラフィーネの思考に影響を受けているのかもしれない。
元来、呼び出された精霊に確固たる思考能力は無い。
それでも今までの動きを見ればある程度の考えから行動している様にしか見えず、それが齎される起源としてはそう考える事が自然であった。
幽鬼の聖騎士が遠距離の攻撃を率先して行ってこなかったからこそ、シェキーナもまた準備を整える事が出来た。
そして再攻撃のタイミングを彼女が選べたのもそのお蔭であり、まさに僥倖と言えたのだった。
「……勝負よ……ラフィーネ」
右手に剣を構えやや前傾姿勢を取ったシェキーナは、そう呟くと共に地を蹴った。
先程までとは違い、その動きは神速と言うに寸分の不足も無い。
彼女が消えたのと、剣戟の音が鳴り響いたのは殆ど同時であった。
「き……消え……」
「きゃあ―――っ!」
「な……なんどす―――っ!?」
シェキーナがエルナーシャ達の視界から消えた……と考える間もなく、凄まじい斬撃音が周囲に鳴り響いた。
耳を劈く轟音の出どころは、言うまでもなく幽鬼の聖騎士が立っている処。
反射的に耳へと手を当てた一同が視線を向けた先には、シェキーナが剣を振るい辛うじてその攻撃を盾で食い止めているファントム・ロードの姿が見て取れた。
しかし……それも一瞬。
すぐに彼女の姿は掻き消え、誰にも捉える事が出来ないでいた。
ただ、剣と剣を交える金属音が響いている。
見る事の出来ないシェキーナを相手に、足を止めて迎え撃ち続ける幽鬼の聖騎士の姿は、まるでただ一人剣舞を舞っている様である。
ただし、これだけはエルナーシャ達にも理解出来ていた。
表情など見る事の出来ない骸骨の
そしてその踊りのような動きを見る限りで、どちらが攻めているのか……圧しているのかも知れようと言うものであった。
「ヴォオウオオォッ!」
そんな劣勢に晒されていた幽鬼の聖騎士が一際高く吠え、それと同時にその身を半円形に形成された濃紫の光で包み込んだ。
「……厄介だな……あの光は」
「か……母様っ!?」
それと同時に、エルナーシャのすぐ近くで砂をかむ音が聞こえたかと思うと、そこにはシェキーナが敵を見据えてそう呟く姿があったのだった。
余りにも突然の出現に、エルナーシャは一言そう呟くだけしか出来ず、他の者は唖然とした表情で固まってしまっていた。
彼等にしてみれば、いきなりすぐ近くにシェキーナが出現した様にしか思えなかったのだ。
「母様っ! お体はだ……大丈夫なのですか!?」
それでもエルナーシャはすぐに気持ちを立て直し、シェキーナを案ずる言葉を口にしていた。
傍から見ればそうは感じられないかもしれないのだが、エルナーシャにはシェキーナが満身創痍にしか映っておらず、事実そうであったのだ。
その言葉は一言でも、そこには多くの意味が込められている。
「……エルナ……。すぐに終わらせる……。早く魔界へ帰りましょう」
それを察したシェキーナだからこそ、彼女もその問いにそう多くの言葉を使わなかった。
「……お気をつけて……」
それを聞いたエルナーシャもまた、それ以上問い質す様な事はせずに、目に涙を浮かべてそう返したのだった。
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