エックス・テン-X10→

白音

第1射目 栄光を継ぐ者

2018年 8月21日 アメリカ合衆国

ユタ州 ソルトレイクシティ特設会場

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 水色のペンキをぶちまけた様な、雲一つ見当たらない蒼々あおあおとした空が広がっている。傍らには日本のそれよりも透き通った海が、白く輝いていた。

 袖から露出した腕が一秒ごとに焦がされていくような感覚。日本とは違った、低湿のカラッとした暑さに、気持ちは不思議と晴れ晴れする。


 丁度真上に位置する太陽の下、海岸沿いに特設された会場の辺りは、様々な沸き立つ歓声に溢れていた。


「Isaac!shot 10!Great Shooting!!」

耳がはち切れんばかりの声で、アメリカ人アナウンサーは叫んだ。直後に英語の賛辞が飛び交う。隣で弓を片手にガッツポーズをとるアメリカ人選手。


 対戦相手のアイザックは勝利を確信したのか、満面の笑みを浮かべている。まるでポパイが実写化されたような身体は、薄黒く焼けている。白い歯と金の髪が対照的に輝いていた。


 タトゥーをいれた丸太のような腕を、空を割かんばかりに空へ突きだす。外国人は感情表現が豊かだと一般的に言われているが、それも頷ける様子だった。


 金矢春彦かなや はるひこは軽く息をすい、身体中全ての空気を出すように吐いた。吸いなれない空気が肺を満たす。新鮮な酸素を取り込んだ血流が、張り裂けんばかりに鼓動を続ける心臓から全身へと巡る。自然と緊張が和らぐのを感じていた。


 少し間を空け、ゆっくりと顔をあげる。柔らかい風が海側から呼吸をするよう、強弱をつけて吹いてくる。

 額の真ん中で、ケヤキの葉の様な鋸歯状きょしじょうに切りそろえられた前髪が、サラサラと肌をくすぐる。


 春彦の視線の先、70m向こうには5色からなる的がある。外側から白、黒、青、赤、黄に塗られた円形の的。それ程、視力が良くない春彦には、それはぼんやりと、色の区別がギリギリつく程にしか見えていない。


 幾度となく繰り返してきた動作のタイミングで的を視認した後、春彦はそっと、手にしている弓を持ち上げた。

金色を基調とした弓。

全長は春彦の身長、170cmより僅かに大きい。無骨な金属のフォルムには所々に穴が空けられている。数ある色の中から金色の弓にしたのは、的の中心が黄色(ゴールドとも呼ばれる)であり、そこに当たるように⋯、との願掛けのつもりであった。


「今、金矢選手がゆっくりと弓を上げて、引き始めますっ!」

若いアナウンサーがハッキリとした口調で伝える。

「アイザック選手はライン上の10点に入れました。よって、金矢選手はより中心の10点に入れなければいけなくなりました······。非常に厳しい状況です。」

と中年の解説者が渋い声で呟くように言った。


「しかし、ここでもし当てられた場合は、日本人選手として約50年振りのオリンピックでの金メダルとなりますっ······!」

「そうですね、相当なプレッシャーだと思われますが、踏ん張ってもらいたいです。」


 2人の解説者が興奮を抑えきれずに話しているのが、遠く聞こえてくる。余計なことを。春彦の抑えていた緊張が息を吹き返す。


 普段は字を書くように簡単に引ける弓が、今日はとても重く感じられた。湧き水のごとく溢れる手汗が弓を持つ手を滑らせる。


 春彦は自分の心を、弓を通して感じていた。弓は身体の一部だと誰かが言っていたが、今はその通りだと納得できた。背負っているものの重さ。この引きの重さがそれだろうか。


あたりを静寂が包み込む。

先程まで祭り会場のように賑やかだったのに、今は照明の落ちた映画館のような静けさだ。面白いものが見たいという期待の眼差しが、一人の男に集中する。


 少し前に弦を鼻の先端と口に付くまで引き込んだ。このアンカーの動作を終えてから、もう何秒経ったろうか。


 エイミングに入ってから、春彦の時間は止まった。心臓の鼓動の加速だけが、自身が動けていることを証明してくれる。


「金矢選手、いつもより長いエイミングですっ!大丈夫でしょうか?!······残り5秒!」

焦燥感から若いアナウンサーが額に汗を浮かべて言う。


「いつもより時間がかかってますね。やはりプレッシャーの影響でしょう。」

声は落ち着いているが、解説者の方も焦りが見えた。


「残り2秒っ!」

言いながら、しびれを切らしたのかアナウンサーが立ち上がった。


 春彦は右肘と左手で作られる、仮想の1本の道を作ることに集中していた。的の中心まで矢をレールのように伝える道。意識するごとに、背中の筋肉が張り詰められる。均等なパワーバランスを保ち、じわじわと弦を引き分けていく。


もうすぐ決まる。

擦れ合うタングステン製のポイント(矢の先端)とプラスチックのチップが、かりかりと音を鳴らしながら、今か今かと春彦の様子を伺っていた。クリッカーが落ちるまで、あと紙の厚さもない。


《この1射に、全てを······!》


⋯⋯


「······1秒っ!!」


カチンッ!

声と同時に、小さな接触音が響いた。クリッカーが、馬の尻を叩く鞭のように弓にその身を当てる。


瞬間、春彦は右手の指の力を抜いた。

同時に弦が瞬速で手元を離れる。

空気を縦に切り裂き、リムに蓄えられた力が解放される。パシュッ⋯と聞こえると共に、高速で矢が放たれた。

矢は蛇のように自身を曲げながら進み、緩やかな弧を描いて飛んでいく。


 支えだった弦を手放した春彦の右手は、慣性を利用し、首筋に沿って流れるように背中側に移動する。

 左腕で押していた弓は手から弾んで飛び出し、スリングに自重を預けて地面と垂直な弧を描く。


矢を放った瞬間の動作によるものか。

それとも偶然か······。

疾風かぜが、観客の頬を撫でた。

一瞬の動作に観客の時も止まる。


次第に、全員がそっと的前を映すモニターに目線を移していく。野球場にあるような大きなモニターは、的前に設置されたカメラからの映像を映していた。




······そこには1本の矢があった。


 白い羽に赤いノック⋯、日本の国旗をイメージした矢が、的の中心⋯、10点範囲のさらに内側にあるXと呼ばれるゾーンに。そこにか細く、しかし、しっかりとした存在感を放つ道端に咲く花のように、矢が刺さっていた。


「······っ!、エックスっ!Xですっ!、金矢選手っ、Xを射抜きました!約50年振りの金メダル獲得ですっっ!!」

焦りから喜びへと切り替わったアナウンサーの表情には、安堵の笑みが浮かべられていた。

「一射で決まるシュートオフでのX······。凄い集中力でしたね、見事でした!」

解説者は肩の荷が降りたかのように、緊張から解放された様子だった。


 春彦も張り詰めていた集中の糸が切れ、次第に周りの音が意味を持つものとして聞こえるようになった。

賞賛するアナウンスの声。

観客の拍手と歓声。

一斉にフラッシュをたくカメラマン達のシャッター音。


 ふいに春彦は後ろから誰かに抱きつかれる。スコープ越しに的を見ていた薙沢なぎさわコーチだ。眼鏡の奥で、顔を赤子のようにしわくちゃにして、涙を流していた。


 春彦はしばしの間、周囲に圧倒されていたが、次第に頭が回転し始めるのを感じていた。同時に、火口の底のマグマのようにふつふつと湧き上がってくる感情があった。


「勝ったのか······?勝った······、勝ったんだ!······ッッッシャァァアアアアア!」


 春彦は持っていた金色の弓を、天高く掲げた。アルマイト加工に日差しが反射し、弓が白く輝く。ひとつの星が地上に生まれる。


 一瞬にして安心と喜び、充実感に支配された。緊張で強ばっていた顔は、いつの間にか無意識に破顔していた。


 春彦は興奮の渦中、隣で拍手を送ってくれていたアメリカの選手とコーチに気づいた。春彦の身長より遥かに高いアイザックの顔を見上げてみると、裏表を感じさせない、心からの笑顔を送ってくれていた。


 2人は同時に近づき、互いに握手とハグを交わす。拙い英語でなんとか挨拶を済まし、彼等の背中を見送る。会場に沸き立つ歓声はまだ続いていた······。


⋯⋯


それから10分ほど。

春彦は表彰台の1番上に立っていた。ゆっくりと、白髪の老人が壇上の選手達の前近づいてくる。今にも倒れるのではないかと心配になりそうな歩調。春彦が歩けば十数秒の距離をゆっくりと進む。


 先程別れたアメリカ人選手、とオランダの選手が春彦の両側に同じように立っていた。

 2人共大柄なため、1番高い台に立つ春彦と大して目線が変わらない。この時ばかりは自分の身長を恨む。


アナウンスと共に表彰が始まった。

両脇にいた彼らはお辞儀をするように腰をまげ、老人にメダルをかけてもらう。

会場一体に拍手の波が押し寄せる。


最後に老人は春彦の前に立つ。白いレーズンパンのような肌をした手には、四角くかたどられた、金色に輝くメダルがあった。


 春彦もほかの選手同様に腰を曲げ、それを首に掛けてもらう。ほんの少し首が少し重くなる。老人と握手を交わし、その背中を見送った。


ついに手にした金のメダル。

目指してきたもの。

努力の結晶。


 春彦はそれを大空に掲げ、シャッターを切るカメラマン達に心からの笑顔を見せた。潮風と共に、シャッター音と拍手が会場を埋めつくした。


⋯⋯


 それから数日間、普段マイナー競技のアーチェリーにしては珍しく、新聞やニュースに多く取り上げられた。春彦もいくつかの番組にオファーを受けて出演した。

 幾度も最後の一射、その約20秒間が放送される。

 オリンピックでの優勝、ドラマのような演出での勝利、さらには自身の精悍な顔もあいまり、金矢春彦の名前は一瞬にして広まった。


 だが······、まだ世間が春彦の名前を覚えて間もない頃に悲劇は起こった。


 夜間に日課のランニングを行っていた春彦は、正面からくる自動車に衝突されたのだ。


 その運転手は酷く酔いが回っていた。蛇行運転をしており、春彦を視認した際、咄嗟にブレーキをかけることが出来なかった。


 重体だった晴彦はすぐさま病院へ運び込まれたが、着いて間もなくこの世を去った。


 テレビはこの訃報を翌日には全国に向けて放送した。ネット掲示板でも一時持ち切りの話題となった。

 こうして春彦の名は、不幸な死亡事故の被害者として再び広まった⋯。


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2019年6月5日 AM5時

宮城県 仙台市 金矢家


「夏希〜、朝練に行くんでしょ。早く支度しなさ〜い!」


 早朝から母の声が家中に響く。まだ頭がボーッとしている。脳が急な命令に対応しきれていない。動作が出来の悪いロボットのような遅さになる。


 金矢夏希はすっかり習慣になった動きで、テキパキと高校の制服に着替えると、鏡の前で髪を整え始める。明るめの栗色の髪は、寝癖で少しうねっていた。


 真っ直ぐに均してから、前髪を生え際深くとって八割ほどを左に流す。

右側を少しだけ残して垂直にたらす。

後ろ髪は青いシュシュで縛りポニーテールにすると、同じく青いピンで左に流していた髪を留めた。

 この髪型は夏希が小学生の頃から変わらない。 最後に全体を鏡で確認してから、部屋を出た。


 続いて洗面台に向かう。鏡が少し汚れている。傍にあったティッシュを濡らして拭き、顔を水で洗い、歯を磨く。磨いている途中で頭が覚醒していくのを感じた。


 一通りが終わりリビングに向かうと、母が朝食を用意してくれていた。


 母は介護士として働いている。シフト制でその労働時間帯は日によって違う。今日は早番だったため朝5時に起き、朝食を用意してくれていた。

 食卓にはきつね色に表面が焼かれた食パンとオレンジジュース、4個入りパックのアロエヨーグルトの1つが置かれている。


「最近部活はどうなの?お兄ちゃんに追いつけそう?」


 椅子に腰掛けた夏希は、食パンにたっぷりとマーガリンを塗って、それを頬張りながら答える。


「まだ厳しいけど、近づいてはいると思うよ。もう少しかな。」


また見栄を張ってしまった。

近づくどころか遠ざかっているのに······


 夏希は自分の虚栄心に嫌気が指しつつも、母を心配させないためと無理やり納得させた。


「そう、それなら良かったわ!応援してるから頑張りなね!」


 夏希は軽く頷き、まだ口にパンを入れたまま席を立つ。


この場にいるのが辛い。

母の笑顔が直視出来なかった。


「いっへくる!」


 嘘に勘づかれないよう、急ぎ足で部活に使う道具をいれたリュックを背負うと、勢いよく玄関を開けて外に出た。


 6月の5時台の朝は、太陽が昇ってきたばかりでまだ少し暗い。肌を通過する風も少し冷たい。


 自転車を漕いで学校につく頃には明るくなってるだろうか。夏希は背負ったリュックの重さを感じなから自転車に跨った。


⋯⋯


 15分ほど自転車をこぎ続けると、3年間通っている高校の入口に着く。夏希は入って傍にある駐輪場の適当な場所に自転車を停めると、駆け足で部室に向かった。


 私立でそれほど広い高校ではないため、敷地内の部室にはすぐたどり着く。ところどころ凹みのある扉を開けると、既に数人の部員達が集まっていた。


「おはよう!」

「あっ、おはようございます。朝から元気ですねー」

「朝は強い方だから!」


 夏希は本日2度目の嘘をついた。

ただ、なるべく元気に振舞っているだけ。少しでも彼らの、私への評価をあげるためだ。そんなことをしても無駄だと理解していても、一抹の期待を拭えなかった。


「その元気さで今日は少しはゴールドに入るといいですね。まぁ中学からやってて、未だにその実力だと難しいかもですけど。」


 狭い部室内に、クスクスと小さな笑いが響く。案の定、部の後輩達には必死の演技は意味をなさなかった。


「頑張るよ······」


「お兄さんはあの金矢選手なのに。才能全部持ってかれたのかもですねー、夏希先輩。」

「先輩じゃなくて、お兄さんの方に来て欲しかったですー」


「こーら、亡くなってるんだならそういうこと言わなーい!」

「はぁ〜い、フフッ」


再び嘲笑される。


 夏希は日本代表だった金矢春彦の4歳歳下の妹だ。兄、春彦は大学から競技を始め、僅か3年でオリンピック優勝をはたした。


 しかし、妹の夏希は中学からアーチェリーを始めているにも関わらず、未だグリーンバッジも取れない程の実力だった。


その差は誰が見ても歴然だった。


 中学の時はただアーチェリーが楽しかった。離れたところに矢を飛ばす。畳に矢が沈み込む音を聴く。それがとにかく快感だった。的までの空間を自分が制しているような気になった。


 この快感をずっと味わいたい。そんな思いで高校でも続けるべく、アーチェリー部のある高校に入学した。


 入部当初、先輩方には経験者として期待されたが、夏希の実力を知られた後は、ただの可哀想な人として扱われた。

 高3になった今でも実力は変わらなかった。後から始めた後輩達よりも当たっていないため、いまや全員に舐められていた。


 しかし実際問題、兄とは対極的に、夏希は未だ地方の小規模大会で最下位争いをしている。


笑われても反論できない悔しさ。

なぜ全く上達しないのかという苛立ち。

高校生活も残り少ないという焦燥感。

ここまで言われて続ける意味があるのか、今後はどうしたいかという疑問。


 夏希は様々な感情、考えが浮かんでくる中、何一つ納得いく答えが出せないでいた。


 もやもやとした気持ちを抑え、夏希はそっとリュックを下ろし、中に入れていた弓のパーツをゆっくりと組み始めた······。


 最後に、兄の残してくれたクィーバー(矢筒)をそっと腰にさげる。


「兄さん、どうしたらいいのかな······」


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[用語解説]

 グリーンバッジ⋯アーチェリーにはバッジ制度がある。弓道などの段位制に似たもの。

 グリーンは初心者が最初に目標にするレベルで、所持していることが最低限の競技者としての技術、知識、マナーのレベルを示す。

 半年から1年ほどで取るのが一般的とされる。



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