美しい世界

御蔵

美しい世界

 ただひたすらに、光を求めていた。



◇◆◇



 薄暗い闇の中に、二人分の足音がこだまする。


 分厚いコンクリートで造られた地下通路。地上へと続く長い長い階段を、お互い無言で上っていた。


 先頭は僕。夜光石を入れたカンテラを片手に、後ろを付いてくる彼が疲れない程度の速さで歩く。体の弱い彼の息はすでにあがっている。コンクリートの壁にこだまする息遣いが時折苦しそうで、僕は何度も彼の方を振り返った。その度に彼は僕の視線に気づいて、律儀にゆるゆると首を振って返す。ゴーグルと防塵用の布で顔を覆っているため表情は見えないが、微かに見える瞳の光は強い。


 本当は僕が背負った方が早い。


 けれど、自分の足で歩くという彼の意志を僕は尊重した。彼はずっと狭い世界を生きてきたから、外へ出る時は自分の足で出る、そう決めていたのだそうだ。

 僕の歩調に合わせて、カンテラの淡い光が僕らの影を揺らす。ぶわぶわと揺れる影は、ずっと眺めていると何だか別の生き物のようで、昔読んだ本に出てきた怪物猫を思わせた。あれを読みきかせたがために夜トイレに行けなくなった子供が続出したっけ。などと、今の状況とは関係のないことに思考が向かう。遠い遠い、思い出というやつだ。


「けほっ、げほっ」


 背後から湿り気のある咳が聞こえた。さっきより少し遠い。

 すばやく振り返れば、十段ほど下で壁に手をついた彼が苦しそうな咳と呼吸を繰り返している。発作だ。


「ハルヤ!」


 急いで駆け戻り背中をさすってやる。カンテラを足元に置いて、外套の下の胸ポケットから薬を取り出し彼の口元に近づける。


「ごめ、だいじょ……げほっ」


「ちゃんと口を開けるんだ。ずっと我慢していたね? 苦しい時はきちんと教える。それが地上へ行くための約束だっただろ?」


「ごめ、なさ……」


 なるべく優しく、そう心がけて彼の背中をさする。骨の位置がわかるほど薄い胸。力加減を間違えたら折れてしまいそうで、まるでガラス細工を扱うようにそっと触れた。しばらくそうしていると、やがて薬が効いて再び落ち着いた呼吸へと戻っていく。

 ついでに休憩を取り、地図を出して現在位置を確認した。遠慮がちに彼が手元を覗き込んでくる。


「半分は超えたよ。この分なら明るいうちに地上に出られる。頑張ったね」


 緩く微笑んでみせると、ゴーグルの中で切れ長の目が和らいだ。

ぽつり、ぽつりと、たわいもない会話を交わしてから再び階段の向こうの地上を目指す。


そして──


 階段の行き止まりには重々しい施錠扉が待ち構えていた。

長い間放置されていたそれは、ところどころ劣化して亀裂が入っている。


「これが……」


 彼が震えた声で独りごちる。


「危ないから少し離れていて」


 僕はその場から彼を下がらせ、施錠扉の鍵を取り出す。数年前に訪れたときに型を取り作った合鍵。マスターキーは遥か昔に消失されている。かつては認証コードによる電子ロックも施されていたが、管理者がいなくなったいまではそれも意味をなさない。合鍵を作った時にはもうとっくに壊れていた。


 カチリ。


 小気味いい音を立てて鍵が外れる。

 重い円盤状の施錠扉。僕は力いっぱいそれを内側に引いた。鈍い音が、今まで歩いてきた通路にこだまする。まばゆい光が眼をさした。地上の光だ。


 重く、覆い被さるような青空が視界いっぱいに広がっていた。

 目も眩むような、そして熱い陽の光が容赦なく僕と彼を照らし出す。

 土と、生い茂る草と、風のにおい。地下世界にはなかった濃厚な空気が肺いっぱいに広がる。そして、時折潮の香りも……。

 僕に支えられるようにして、彼はよろよろと地上に踏み出た。さくり、さくりと草を踏みしめ、真っ青な空から目をそらさずにゴーグルと口元の布を取り払う。地下世界で生きる者に外の光は強すぎると思ったが、口には出さなかった。初めてなのだ。無理もない。

 少し歩くと、崖の行き止まりにたどり着いた。そこで彼はまた違う青に目を奪われる。


「これ……海……?」


 震える声に、無言の肯定で答える。

 なるべく彼が色々なものを見られるように、「岬」と呼ばれるこの出口を選んだ。地上のあらゆるものを見たい、それが彼の望みだったから──

 しばらくの間、彼はピクリとも動かずに目の前の景色に釘付けになっていた。その隣で、僕も黙って彼の視点に自らの視点を合わせる。

 

 かつてはここで暮らしていたのだという。

 

 豊かな自然、溢れる資源。そこからあらゆるものを生み出し、生み出しつづけ、そして求めて、求めて……やがて失った。人々は地上から、地下世界に逃げ込んだ。


 大きな戦争があったのだとか、天変地異が起きたのだとか、諸説あるが今となってはそれらの真偽を確かめる術はもう残されていない。ただ確かなことは、この美しい世界に人は住めなくなったということだけ。こんなに美しいのに、長くいるとこの世界は人の体を蝕み、死へとつながる病を呼ぶのだ。否、地上だけではない。地下の世界に居ても、人は長くは生きられない体になっていた。この数十年の間に、五十まで生きる者すらいなくなっていた。それは例外なく、隣に立つ彼も。


 人が変わったのか、あるいは世界が変わったのか……。


「……ふっ、うっ」


 ふいに彼の口から嗚咽が漏れた。そして


「うあああああああああああああああああああああああああ」


 血の滲むような慟哭が岬にこだまする。

 膝をつき、手に触れた土草を握りしめ、声の限りに叫ぶ。


 広い空が紅に染まるまで、彼は壊れたように泣きつづけた。普段の治療でも滅多に涙を見せなかった彼の、初めてとさえいえる感情の爆発。鎮静剤を預かっていたけれど、僕はそれを使うことが出来なかった。今は、いや、今だけは。この世界は彼のものだったから──


 帰りは彼を背負って帰った。

 思いの丈をぶつけるように叫び、熱が出るほどに泣いて、彼はくたりと僕の胸の中でくずおれたのだ。本当は星空も見せたかったけれど、仕方ない。簡易の解熱剤を打って、僕はその場を後にした。植物の蔓を編んで作った紐にカンテラを通して首から下げ、来た道を下っていく。軽い体は熱く、地上の陽の光を思い出させた。

 ぶわりぶわりと、怪物猫の影は診療所に帰り着くまで、僕らにずっと寄り添っていた。


 処置を終えた彼をベッドに寝かしつけ、詰所に入ると同僚が一人、長椅子でだらしなく煙草をふかしていた。吸ったところで何も意味などないのに、彼は妙にそういうところにこだわる。


「お疲れさん」


 砕けた口調で声をかけられ、僕も「お疲れ様」と返す。定位置である自分の席に座ると、同僚は軽い口調で、


「地上はどうだった?」と尋ねてきた。それに対して、


「晴れてたよ」とだけ答える。


 事実を答えたのだから間違いではないのだが、同僚が聞きたいのはそんな事ではないのだろうと察しがついていた。少しだけ考え、言葉を紡ぐ。


「数値は前よりは下がってたよ。でも、まだまだ無理だ」


「そうか……」


 沈黙が室内を満たす。

 彼が新しい煙草に火をつけた。立ち上る煙が天井のダクトへと消えていく。


「ハルヤは……、たぶんもう目覚めないと思う」


「……」


「君にも見せたいくらいに泣いてたよ。まるで赤ん坊の時みたいに」


「……、そいつは惜しいもんを見逃した」


 軽い口調は、かつて共に働いていた僕らの生みの親に似ていた。

 煙草も、怪物猫の出てくる本も、僕らにそれを教えたのはその生みの親。今はもう、いない。地上が好きで、蝕まれるのを知りながら、何度も地上に出て、そしてある日とうとう倒れた。そして、ハルヤもまた、蝕まれた母親から産まれたがために、その病を引き継いだ。


 幼い頃から、制限だらけの生活を送ってきた。


「願い事?」


 きょとんとした彼に、努めて明るい声で応えたのは、数日前のこと。


「そう、願い事。ハルヤ、もうすぐ誕生日だろう? いつもつらい治療に頑張って耐えてるから、そのご褒美」


「マジ? じゃあさじゃあさ、俺──」


 痩せて力なかった体に、再び活力が湧いたのがわかった。

 ほとんどの子供がそうだった。生まれついて病を背負ってしまった子供たちが治療、療養するために造られたこの施設で、僕は今まで何度「お願い」を聞いてきただろうか。


 だが、それも今回まで。


 ハルヤは、ここの最後の患者だったから……。


「地上に、作ろうと思うんだ……。星空見る前に、寝ちゃったからさ」


 今度は星空の見える場所に連れていきたい。


「いいんじゃねーの?」


 煙草をくわえたまま、器用に彼は笑う。


「いっそ俺たちも、そのまま地上で眠るか。ハルヤがいったらここはもう俺たちを必要としない。移ろうにもあとどれだけ生きてるかもわからない。それくらいなら、あいつが大好きだった地上に行ったって、誰も怒りゃしねーよ」


 まぁ、怒る奴がそもそもいないか、と、彼は実に人間くさく笑ってみせた。

 医者としての確かな腕と、患者に親しみやすい誠実さと人懐っこさ。それが彼に与えられた「資質」だ。そして、カウンセラーとしての能力、誰もが安心できるような物腰のやわらかさと中性的な容姿が、僕に与えられた「資質」。


 そう、僕らは人のために造られた存在。人がいなくなれば、意味をなさなくなる存在。何のために、誰のために。そこから解放される日が、とうとうやってくるのだ。


◇◆◇


 薄暗い病室。

 熱も下がり、呼吸も安定している。


「今日も頑張ったね、ハルヤ……」


 白い頬を優しく撫で、そっと声をかける。生まれてきてから十六年。ずっと、彼の成長を見続けてきた。時には父親のように、時には兄のように、もしくは、友人か。

 駆け抜けるような、十六年。彼が元気なままで時が止まればいいと、いったい幾度考えただろうか。

 その思いを裏切るように、枕もとのデジタル時計が日付の変更を示す。

 眠る彼の額に口づけ、自分の額を重ねた。


「ハッピーバースデー、ハルヤ」


 願わくば、君の見る夢がどうか最後まで幸せでありますように。

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