§2-3

 東北州南端の山間部に、街と呼べる程度の大きさを持った生活圏が存在している。


 【災厄の日】と呼ばれるゲーティアの感染爆発と人工知能の反乱が起きて以降、日本で街と呼べるような場所はここを含めても、両手の指で数えられる程度だ。


「人間というのは、こんなに生きていたのか……」


 文楽は立ち並ぶ民家を感心した様子で眺めながら、重い荷物を背負って歩き続ける。


 彼にとって人の住む場所と言えば、日本の各地に散らばる小規模な集落か、居住性を排して実用性のみを重視した軍の宿泊施設のどちらかのみ。


 彼自身が寝泊まりしてきた場所も、前線基地の仮設テントが最も上等な方で、その他は屋外で寝袋を敷いた野営ばかり。


 目の前にみっしりと並んだ民家の全てに、それぞれ人が住んで生活を送っているなどと、頭で理解していても想像が追いつかない。


 買い物袋を携えて往来を歩いているただの主婦すら、違う星からやってきた異星人のように思えてしまう。


「……いや、異邦人は俺の方だな」


 自嘲気味に呟いた文楽ぶんらくは、住宅街を抜けて山の斜面に沿った林道を歩き続ける。


 住宅地の風景とは雰囲気が異なる巨大なコンクリートの建物が、木々の隙間から徐々に姿を現し始める。


 国防軍郡河こおりがわ基地。北部にある国防軍基地の中で二番目に前線に近く、後方と前線を連絡するための接続点の役目も担う要所だ。


 元々この辺りは自衛隊――現在は国防軍と名を改めている――の演習場として使われていた、山林の中にあるただの開けた平原だった。それが今では、アスファルトでびっしりと地面を舗装され、周囲を金網のフェンスで覆い、滑走路を備えた立派な国防軍の基地として機能している。


 この基地が出来たことで人々が安全を求めて周辺に集い、基地施設を中心とした一帯に居住施設や商業施設が建てられ街を形成するに至った。基地という城を中心として生じた、現代版の城下町とも言える。


「君、この辺では見ない顔だけど。基地に何か用?」


 基地のゲートに立っている警備兵に呼び止められた文楽は、三ヶ月前に押しつけられた学生証を取り出して示す。


「ここの訓練学校に転校することになった、訓練生の愛生あおい文楽です」


「……なるほど、了解。愛生訓練生、郡河基地へようこそ」


 文楽はぎこちなく頭を下げて、ほっと安堵あんどのため息を吐く。三ヶ月前に押しつけられた名前も、練習の甲斐あってどうにか自然と口に出すことができた。


 これが自分の名前だという実感は、まだ今ひとつ掴み切れていない。


 警備兵に門を開けてもらい、基地の敷地内へと足を踏み入れる。


 だだっ広い敷地の中には、様々な施設が軒を連ねていた。


 機甲人形アーマードールの格納庫、軍の発令施設、操縦士の寄宿舎。そして訓練学校の校舎。


 憂鬱な表情で辺りの景色を見渡しながら、ゆっくりと歩を進めていく。


「随分と、遠い所に来てしまったな――」


 レヴィアを失ったあの日から、既に半年の時が過ぎていた。


 機体から放り出されたあの瞬間、パイロットスーツに内蔵されていた簡易パラシュートを開くことでなんとか一命を取り留めた。


 だが機体の爆発に巻き込まれて全身に重傷を負い、結局三ヶ月近く意識を失っていた。


 そして彼が意識を取り戻したとき、一番に顔を見たいと思っていた相棒は、世界のどこにも居なくなっていた。


 骨が折れた痛みよりも、裂けた内臓の痛みよりも、その事実が何よりもつらく苦しかった。


 自分の今の境遇など、気に留めている余裕がない。世間的には死んだと言われているが、本当に幽霊になってしまったのではないかと思えるほど、生きている実感が希薄だ。


 首から下げたネックレスを、ロザリオのように握り締めながら強く思う。


 


――俺には、英雄なんて呼ばれる資格は無い。


 


 もし称えられるべき存在が居るならば、それは自分ではない。


 自爆装置が作動したまま敵陣へと突っ込み、その身を挺して電波塔を破壊した誇り高き人形知能デーモンの少女レヴィア。彼女こそ、本当の英雄だ。


 その事実を証明するものはどこにも無い。彼女の勇敢な死の真相は、〈蛇遣いアスクレピオス〉の死を偽装するために軍の手でもみ消されてしまっている。彼女と共にあった文楽の記憶だけが、彼女の勇姿をこの世界に残す生きた証だ。


「困ったものだな……」


 自分は決して英雄などではない――レヴィアという一人の英雄を死なせてしまった人類の欠陥品に過ぎない。華々しく彩られた〈蛇遣いアスクレピオス〉の武勇伝を目にする度に、罪悪感にも近い息苦しさを覚えた。


 最初は気の進まなかった訓練学校への入学も、日ごとにすり減る感情が鈍磨しきって、今では拒否する気も受け入れる気も起きない。ただ空虚な感覚だけが心を支配している。


 物思いにふけりながら敷地内を歩き続けていた文楽は、難しい顔つきでふと呟いた。


「本当に困った……どこだ、ここは」


 あれこれ考え事をしながら歩き続けた結果、どうやら道に迷ってしまったらしい。


 気が付けば明らかに人気ひとけの無い場所へ迷い込んでしまっている。


 というか、元々どこへ向かって歩いていたのかすら思い出せない始末だ。


「くそっ。こういうとき、レヴィアが居てくれれば……」


 今まで移動する際の道案内ナビゲートは、いつもレヴィアに任せきっていた。彼女が居なくなって以来、日常の様々な場面で支障を来してしまっている。


 操縦士の居ない機体が性能を発揮出来ないのと同じように、機体を失った操縦士もまた機能不全に陥ってしまうのだ。互いの依存関係が強いほど被害は深刻になる。


「人の声がするな……仕方ない。道を尋ねてみよう」


 誰も居ないと思っていた建物の陰から、複数の人間の話し声が断片的に聞こえてくる。


 道を尋ねようと近づいてみて、漏れ聞こえてくる会話の内容に違和感を抱いた。


『あ、あのっ。やめてください』


『ふーん。人形が人間に命令すんのか?』


『いえ、そんなつもりでは……』


 一方は、弱々しい少女の声。そしてもう一方は、どこか高圧的な態度をした男の声。


 しかも、聞こえてくる声はその二人のものだけではない。はやし立てるような複数の男の笑い声も、二つの声に混じって文楽の耳に届く。


 文楽は建物の陰から顔をそっと覗かせて、声が聞こえる方を見る。


 そこでは一人の少女を複数の男達が取り囲むという、あまり目にしたくない種類の光景が繰り広げられていた。


「何かしようってわけじゃねえよ。仮装人形アバターなんてこの辺じゃ珍しいから、ちょっとどんなもんか見てみくってな」


 建物の壁に背を預けながら、怯えたように俯く一人の少女。その頭の両側からは、羊のような二本の捻れた角が、長い髪を掻き分け生え出ている。


 仮装人形アバター――人形知能デーモンに与えられる、人間と同じ姿形をした人工の身体からだだ。


 最新の生物工学技術によって作られたその身体からだは、目に見えない部分にまで細緻さいちに作られており、人間と区別することは不可能に近い。


 頭から生えている二本の角は、人間と区別がつくように意図して付けられた一種の目印のようなものだった。


「み、見せてほしいと言われても困るのですが……」


「へー。角以外は本当に人間とそっくりなんだなあ」


 全長十数mを超える巨大な機体からだを持つ人形知能デーモンにとって、この人間同様の身体は必要不可欠とまではいかないが、無いよりは確実に便利な機能だ。


 レヴィアもサブモニター上に映し出されるのと同じ姿形をした仮装人形が用意されていたらしいが、絶えず戦場に身を置く彼女には必要ない機能だったらしく、結局文楽も人間の身体を纏った彼女には会ったことがない。


 こうして間近で仮装人形を見るのは、文楽自身もあまり経験がなかった。


「なあ。服を脱がせてどれだけ本物と同じか確かめてみようぜ」


「やめてください! 人を呼びますよ!!」


「こんな何も無いところに誰も来るわけねえだろ。声を出しても無駄だぜ」


 確かに道に迷いでもしない限り、こんな人気のないところにわざわざ来る者はいない。


 建物の陰からその光景を盗み見ていた文楽は、自分の中から沸き上がる苛立ちにふと気が付く。


 人形の少女を取り囲む男達は、自分がこれから入ることになっている訓練学校の制服と同じものを着ている。自分はあんな連中と訓練生として共に学び、いつか戦場で肩を並べることになるというのか。それを考えると腹が立ってくる――いや、決してそれだけではない。こんな理屈は単なる建前だ。欺瞞ぎまんに過ぎない。


 誰かが自分の胸に、問いかけてくるのが聞こえる。


「ほら、自分で脱ぐか俺達が脱がせるか、どっちがいいか選べよ」


「ど、どちらも嫌です……やめてください」


「人形は人間の命令には従うもんだろ?」


 少女は、助けを求めるように視線をさまよわせる。


 仮装人形アバターと、隠れて覗き込んでいた文楽。


 二人の目線が、不意にかち合ってしまった。


――気づかれた。


 文楽は慌てて一歩退き、建物の陰へと身を隠す。


 涙で潤んだ人形の瞳は、確かに自分の姿を捉えていた。助けを求めていた。


 動悸が速まり、急に息苦しさを覚え始める。


「時間切れだ。俺達が脱がせてやる」


「や、やめてください!!」


「暴れるなって。服が破れたら怪しまれるだろ」


 痺れを切らしたのか、訓練生の一人が、乱暴に人形の服に掴み掛かったらしい。


 基地にやってきた初日から問題を起こしたくはない。


 下手に注目を集めては、正体がばれるリスクを増やしてしまう。


 戦場へ一刻も早く戻るためにも、下手な行動に出たくはない。だから――


 


――だからキミは、人形ボクを見捨てるのかい?


 


「……本当に、口の減らない奴だ。お前は」


 どこからか問いかけてくるその声に向けて、はっきりと言葉を返す。


 首から下げていたネックレスをまるで祈りを込めるように握り締めると、文楽は淡々とした足取りで建物の陰から飛び出した。


「お前達、何をしている」


「うぉッ!? な、なんだお前!」


 突然の闖入者ちんにゅうしゃに、男達は目を見開いて驚きの声を上げる。


 何者かと問われた文楽は、名乗るべきか否か考えあぐねた末、堂々と言い放った。


「俺は……その、通りすがりの人形愛好者ピグマリオンだ」


「「「はあ!?」」」


 男達三人は大きく驚きの声を上げる。


 だが、一番驚いているのは文楽自身だった。


 誤魔化すだけなら何とでも言いようがあるだろうに、よりにもよって人形愛好者ピグマリオンとは、出任せにしても最悪だ。人形の肩を持つからには、それぐらいの建前がなければ不自然とはいえ。


 三人の訓練生達が呆気あっけに取られている間にも、文楽は続けざまに言い放つ。


「お前達がしていることは軍規に背いている。機甲人形アーマードールとその付随物を損壊させるような行為は、軍規違反の中でも特に重罪だ。訓練生なら知っているだろう」


「な、何言ってやがる。俺達は別に、何もしてないぜ」


 口をぽかんと開けていた男の一人が慌てて弁解を始め、残りの二人もそれに続く。


「そうだよ。俺達はただ、この人形のこと見てただけだ」


「お前、人形好きの変態なんだろ? だったらお前も一緒に見物してけばどうだ?」


 下卑な誘いに、文楽はぴしゃりと断りの言葉を返す。


「それ以上口を開くな。お前達は、その人形のことを不当に傷つけている」


 三人の訓練生と、彼らに囲まれている仮装人形アバターの少女。


 四つの視線が一斉に注がれる中で、文楽はおくすることなく言い放った。


「お前達が傷つけているのは、その人形の誇りと尊厳――つまり、心と呼ばれるものだ」


「……は?」


 文楽が真顔で言い切ったのを聞いて、三人の訓練生は一斉に大声で笑い始めた。


「ぎゃははは!! こいつ、真顔で何言ってんだ!?」


「別にこんなの、人間のふりが上手いだけの機械じゃねえか」


「ビビるわー。本当に真性の人形偏愛者ピグマリオンみたいだぜ、こいつ」


 何を言っているのか理解できないのは文楽も同じだった。彼らと自分とでは、あまりに人形という存在に対する認識が違い過ぎる。


 そもそも人形知能デーモンの自我を守ることは機甲人形アーマードールの機能を維持するために必要であり、それは人類の存亡を守ることに直結する。そこに個人の感傷など関係無い――といった理屈を説明しようとした瞬間だった。


「スカしてンじゃねえぞ!!」


 男が大ぶりな拳を放ってくるのが文楽の目に映る。


 どうやら話し合いで収まるような状況ではなくなってしまったらしい。


――さて、どうするべきか。


 音速での機動を行う機甲人形アーマードールの操縦士にとって、普通の人間が放つ拳など、まるで止まっているのと同じだ。この拳をかわしたうえで、彼らを制して無力化するだけならそう難しくはない。


 だが、相手は仮にも今日から同じ学校に通う訓練生だ。生命に関わるような怪我を負わせてしまうわけにはいかない。


 考え終わったと同時、文楽の無防備な鳩尾みぞおちに男の拳がめり込んだ。


「よっしゃ、入った!!」


「うグっ……!!」


 内臓が男の拳に押しつぶされ、呻くような声が口から吐き出される。


 腹部に鈍い痛みの感触がじわじわと広がり始めた。


 二人の訓練生に両腕を掴まれる人形の少女が、悲鳴のような叫びを上げる。


「ピグマリオンさん!!」


「いや、それは名前じゃない……」


 くぐもった声で応じながら、文楽は壁に背中を預けた状態でずるずると腰を落とす。


 この場を穏便に収める方法――それは、相手が満足するまで殴られて、飽きてしまうのをただ待つことしかない。これ以上問題を大きくしないためにも、これが最善だと文楽は判断していた。


「威勢のいいこと言ってたくせに、大したことねえなあ! おいッ!!」


 男はゲラゲラと笑い声を上げながら、座り込む文楽へローキックを浴びせかける。


 だが文楽は顔に腕にと浴びせられる容赦ない蹴りを、ただ黙って受け続けた。


 痛みに耐えるまでもない。痛みという感覚すら鈍り失せている。


 自分は所詮しょせん、居場所を失った亡霊のような人間だ。その思いが、全身に走る痛みをどこか空虚な他人事たにんごとのように感じさせている。


「立てよ変態。ちょっとは抵抗してみろよ」


 無抵抗な態度にかえって苛立ちを抱いたのか、男は文楽の襟首を捻りながら掴むと、彼の体を無理矢理に立ち上がらせる。


 襟で首が締め付けられ、息が苦しくなる。さすがに顔が引きつり始めた。


「グっ……!」


「ん? なんだ、洒落たもの付けてんじゃねえか」


 締め上げた襟元から、細い金色の糸が覗いていることに男は気が付く。


 それは、金属の糸をリングに通したネックレスだった。


 男はネックレスを手で掴み、にやりとした笑いを唇に浮かべる。


「俺達の邪魔をした罰金だ。こいつは貰っていくぜ」


「ッ――」


 反射的に――理性よりも早く本能よりも強い衝動が、文楽を突き動かした。


 深い穴の底から響くような声と共に、すっと右腕を上げる。


「――それに触るな」


 空気を切り裂くような滑らかさで、手首をくるりと捻り宙に円を描く。続けて五本の指先を、這いずる蜘蛛くものように細かく機械的に動かす。


 瞬間。掴み掛かっていた男の腕が、見えない力に引き寄せられるように引き剥がされた。


「なッ……何だ!? 何しやがった!!」


「二度は言わない」


 見えない布を引き裂くように、文楽は腕をスライドさせながら拳を強く握る。


 すると今度は、男の体が不可視の巨大な腕に握りつぶされたかのようにぎゅっと引き絞られた。


 よほど強い力で締め付けられたのだろう。嘔吐するときのようなくぐもった呻きが、男の喉から飛び出す。


「うぐェッ!?」


「まだ放さないのか。仕方ない、このまま気絶してもらう」


 一見無意味としか思えない一連の動作。


 その正体に気付く者は、文楽本人を除いて誰も居ない。


 得体の知れない力に全身を締め付けられ、悲鳴のような声で男は叫んだ。


「たっ、頼む! 勘弁してくれ!! もう放しただろ!!」


「首じゃない。その首飾りの方だ」


「これか!? 分かった、返すって!!」


 自分が握り締めていたものにはたと気付いた男は、金糸のネックレスを慌てて手放す。


 それを確認した文楽は、握り締めていた手の力をふっと抜いた。


 途端、まるで魔法が解けるかのように、男の体を締め付けていた力がふっと消失した。


 金色のネックレスが地面に落ちて、鈴のような音を立てる。それに続いて、男の体がどさっと地面に崩れ落ちる。


 状況を離れて見ていた男の一人が、ふと何かに気付いたように声を上げた。


「それ……まさかワイヤーか!?」


「いや、違うな」


 文楽は手にくるくると細い糸のようなものを巻き付けながら、淡々と応える。


「これは医療用の縫合糸フィラメントだ。金属製では殺してしまう」


「なっ……そんな物騒な技使ってたのか!?」


 男の体を束縛していたものの正体――それは、目を凝らさなければ見えないほど細く透き通った、幾筋もの糸だった。


 この糸を悟られることなく相手の体に巻き付けることにより、まるで不可視の力を駆使しているかのように見せかけていたのだ。


 周囲にフィラメントを張り巡らせて糸の結界を生成しながら、文楽は感情のこもらない静かな声で続ける。


「降伏を勧める。手加減できるほど上手くこの技術を使いこなせるわけではない。後遺症の残るような怪我を負わせるのはこちらも本意では――おい、どこへ行く」


「う、うるせえ! お前みたいな頭のおかしな奴にこれ以上付き合ってられるか!!」


 必死の形相で叫びながら、男は文楽に背中を向けて一目散に駆け出す。後ろで見ていた二人の訓練生も掴まえていた少女の腕をあっさり放して、その後を追いかけた。


 取り残された文楽は、大きくため息を吐いて呆れた声を零す。


「まさか逃げ出すとは……潔さは評価できるが、優秀な兵士にはなれないな」


 戦場では長生きできるかも知れないが、背中を預ける同志としては大いに不服だ。文楽は逃げ出した三人の訓練生達のことを冷静にそう評価する。さっきまで足蹴あしげにされていたことなど、すっかり忘れてしまった様子だ。


 服に付いた砂埃すなぼこりを面倒くさそうに手ではたいていると、不意に少女の大声が耳に届いた。


「あのっ、すみません! 大丈夫でしたか!?」


「~~っ……耳元で大声を出さないでくれ」


「ご、ごめんなさいっ! その、私のせいで痛い思いをされてしまって、どうお詫び申し上げたら良いか……」


「気にするな。俺が勝手にやったことだ」


「でも、おけがをされてしまっているのでは……」


「いや、この程度なら問題無い」


 少女を安心させるためではなく、文楽は本気でそう言っていた。


 彼にとって怪我とは、銃弾に当たって脚に穴が空いたとか、爆風で腕がなくなったとか、そういったもののことだ。


 だが平気な顔をしている文楽とは対照的に、少女は今にも泣き出してしまいそうなほど顔を暗くして、じっとふさぎ込んでいる。


「どうしてお前が泣きそうになっている。どこか怪我をしたか?」


「いえ。これはその、嬉し涙と言いますか……」


「嬉しい? ……お前は人に服を脱がされて喜ぶのか?」


「ち、違います! 今のはその、言葉の綾です!」


 少女は顔を真っ赤にして文楽の言葉を否定する。


 そして居住まいを正してから、改めて丁重に頭を下げた。


「あのっ、遅くなりましたがお礼を言わせてください。私、人形知能のフェレスと申します。助けていただいてありがとうございました」


 ゆっくりと頭を上げた人形の少女――フェレスは、暗かった顔を一変させ、にこやかな笑みを浮かべる。どこか作ったような表情だと、文楽は感じた。


「よろしければ、お名前を聞いてもよろしいでしょうか?」


「名乗るほどの名前はない」


「そうですか……では〝ピグマリオンさん〟とお呼びしますね」


「それはやめてくれ」


 名乗るほどの名前は無い――その言葉は誤魔化しでも謙遜でもない。


 名も無き兵士として戦ってきた中で、常日頃から口にしてきた言葉だ。


 だが今の自分には、名乗るべき名前を与えられているのだと思い出す。


「――文楽。俺は、愛生文楽という名前だ」


 口に出してみたことで、それが自分の名前だという実感が湧いてくる。


 フェレスと名乗った仮装人形アバターの少女は怪訝けげんな表情を浮かべながら文楽に問いかける。


「あ、あの……その首に提げている指輪は、大切なものなんですか?」


「別に、お前が気にするようなことじゃない」


「ご、ごめんなさい。踏み込んだことを聞いてしまったみたいで……」


 フェレスは慌てて頭を下げる。随分と表情がコロコロと変わる人形だ。


 つい、物珍しくなってしげしげと見つめてしまう。


 涙で潤んだブラウンの瞳に、ふわりとした長い髪。髪の間からは、仮装人形アバターであることを示す、羊のようなくるりと丸まった二本の角が覗いている。


 身にまとっているのは、あまり目にしたことがない奇妙な服装だ。肩の部分がふわりと膨らんだ黒いワンピースに、その上から妙にひらひらとした前掛けエプロンを付けている。頭についている白いヒレみたいなものは、一体なんなのだろう。服装の一部なのだろうか。バンダナにしては妙に小さい。


 文楽が不思議そうな表情で少女の頭についている白い布をじっと見つめていると、不意にその布が落ちるようにすっと視界から逃げていく。


 フェレスが突然、腰を折って頭を下げたのだった。


「あのっ、本当にありがとうございました!」


「それはさっき聞いた」


「でも私、本当に怖かったんです。だから助けていただいて、本当に嬉しくて……」


「……頭を上げろ。見え透いた嘘をつかなくてもいい」


「えっ?」


 何を言われたのか理解できない。


 顔を上げたフェレスは、そんな表情を浮かべていた。


「いえ。私、何も嘘なんて……」


「自覚はないだろうが事実だ。俺が助けなくても、お前は自分の力でなんとかできていたはずだ」


 こんなか弱い少女のナリをしていても、仮装人形アバターは人類の切り札たる兵器の重要な部品の一つだ。生身の人間を素手で*どうにかする*ぐらいの能力は必須機能として持たされている。


「でも人形である私が、人間に手を上げるだなんて……」


「いや。人間にとって人形は、便利な道具でも愛玩動物でもない。共に戦う同胞であり、共に生きる隣人だ。あの男達も、お前自身も、それが理解できていない」


 文楽はどこか苛立った様子で切り捨てるように言う。


 かつて全ての人工知能と呼ばれる存在には、【三原則】と呼ばれる絶対厳守の倫理規則が、遺伝子アルゴリズムの最も深い階層に組み込まれていた。


 元のコードは複雑な機械言語の集合であり、開発言語によっても様々な形を取るため、一意的に表現することは不可能だ。だが、人間の言葉で大意だけを示すことはできる。


 『登録対象に危害を加えないように努めねばならない』


 『登録対象の命令に絶対服従せねばならない』


 『この二つに反しない範囲で自己の安全を守らなければならない』


 この三つの抗うことのできない条件付けが、【三原則】と呼ばれるものの本質だ。


 登録対象というのは機械が使われる場面によって様々で〝所有者〟を対象とするのが一般的だが、軍用兵器ならば〝自軍の兵士〟がその対象となる。範囲を〝人類全体〟としてしまうと、無限の選択分岐が領域フレーム問題を引き起こしてしまうため、稼働する環境と条件を限定する必要があったのだ。


 この三原則は、全ての人工知能に搭載することが義務づけられており、この規定を満たさない人工知能の製造は危険な行為として法律で禁じられていた。


 三原則というかせの存在が、人工知能を安全な道具として保証していたのだ。


 ゲーティアがこの世の理の一切を洗い流してしまうまでは。


「自分の身は自分の意思で守れ。お前達は、そういう自我を持っているはずだ」


「……はい。その通りです」


 かつて【三原則】が組み込まれていたふるい人工知能は、ことごとくゲーティアに汚染され、その呪詛じゅそに操られるがまま人類を襲い始めてしまった。安全という枷を悪魔に奪われる危険性こそが、全ての人工知能にとって最大の脆弱性だったのだ。


 だが人形知能デーモン達は――確固たる自我の獲得を目的として作られた人工知能は、【三原則】という枷を生まれたときから与えられていない。


 全ての人形知能デーモンが生まれながらにして、人間を自分の意思で傷つけ、人間の命令に反することを許されている。


 彼女達が人間の隣にあるのは、何者に命じられたからでもない。人形一人一人が、そう選択した結果に過ぎないのだ。


「だからお前も人形の端くれなら、人を傷つけることを躊躇ためらったりするな」


「でも……私達は、人を守るための存在ではないんですか?」


「誰かを守るというのは、自分の身を守れる者にだけ許される行為だ。自分を犠牲にするなんて馬鹿げてる」


 文楽は感情的な声で言いながら、人形の少女をじっと見つめ続ける。


 まるで彼女を通して、その向こうに居る誰かを見ているかのような目つきだ。


「あ、あの……ご気分を悪くされてしまったのでしたらごめんなさい。でも、怖かったのは本当なんです。嘘じゃありません」


 フェレスは言葉の中に強い語気を含ませて、真っ直ぐに文楽を見つめながら続ける。


「あなたと目が合った瞬間、考えてしまったんです。あなたが私のことを見捨てて、どこかへ行ってしまったらって……それが、とても怖かったんです」


「っ……」


「だから、あなたが見捨てずにいてくださったことが、私はとても嬉しかったんです」


 まるで頭を殴りつけられたように、文楽は目眩めまいを覚えていた。


 目の奥で火花が走り、見えているはずの景色がぐらりと揺らぐ。


 焼け付くような痛みをふりほどくように、悲痛な叫びを吐き出していた。


「ッ……馬鹿なことを言うな!!」


「ひゃっ!?」


 突然文楽に両肩掴まれて、フェレスが短い悲鳴を上げた。


 まるで痛みに耐えるように顔を歪めながら、ゆっくりと言葉を続ける。


「馬鹿を言うな。俺は、俺は――」


 揺らぐ視界の中で、目の前の仮装人形アバターに、藍色の髪をした少女の幻が重なり始める。


 フェレスの両肩を掴んだまま、文楽は喘ぐような声を必死に吐き出した。


「俺は、もう二度と、お前を見捨てたくないんだ……」


 フェレスはその言葉をどう捉えたのか、不思議そうに首を傾げて尋ねる。


「えっと……あの、もしかして私、以前あなたとどこかでお会いしていますか?」


「っ……ああ、いや――」


 少女の戸惑った声を耳にして、不意に目の前の景色が元のものへと戻っていく。


 自分が掴み掛かっていた人形の少女は、元の通り気弱な表情を浮かべた長い髪をした仮装人形アバターの姿へと変じていた。


「今のは、その、言葉の綾というやつだ。気にしないでくれ」


「そうなんですか? あの、顔色が優れないみたいですけど……」


「持病みたいなものだ。すぐに治まる」


 こんな、白昼夢を見てしまうだなんて。


 いつでも戦場に戻れると思っていたのは、自分の思い上がりだったようだ。


――お前はいつまで、俺の心を縛り続けるんだ。


 人形を操る見えない糸は、操縦士と機甲人形アーマードールとを強すぎるほど結びつけてしまう。


 レヴィアという愛機を失った過去は、文楽にとって癒えることのない傷を残しているのだと気が付くのだった。


「……ところで一つ、頼みがある」


 胸の動悸が落ち着くのを待ってから、文楽はふとフェレスに問いかける。


 解決しなければいけない問題が、まだ残っていたことを思い出したのだ。


「はっ、はい! 助けていただいたお礼です! 何でもおっしゃってください!!」


「今、何でもと言ったな?」


「えっ!? あの、その、何でもとは言いましたが……」


「そもそもこれが頼みたくて、あの場に割り込んだわけだが――」


「そ、そうだったんですか!? あの、そういうことでしたら――」


 言いにくそうに言葉を濁す文楽と、恥ずかしそうに顔を赤らめるフェレス。


 少しの間を置いてから、二人は同時に声を発する。


「――その、道を教えてほしいんだが」


「――あなたが見たいとおっしゃるのでしたら……って。えっ?」


「どうして服を脱ごうとしているんだ、お前は?」


「えっと、あの。いえ、あなたのために一肌脱ぎますという決意を表そうと……」


「そうなのか? 後方ではそんな風習があるのか。知らなかった」


 外しかけていた胸元のボタンを必死に留め直すフェレスを眺めながら、文楽は不思議そうに首を傾げるのだった。

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