P.G.U(仮)

葉月 とに

1.呼び寄せるもの

暑さでアスファルトから発する熱気が、遠くの景色を歪める。頭上では絶え間なく蝉の鳴き声が響き渡っている。いよいよ夏も本番になってきた。菅野奈々実は額に流れる汗を拭い、重い足取りで図書館へ向かっていた。市が運営する図書館はエアコンが完備され、いくつかの自動販売機などが設置されている。暑さから逃れるためのちょっとした避暑地として、この季節は大変助かる施設だ。


 図書館に到着すると、真っ先にお気に入りの席を確認し、誰もいないことを確認すると小走りで荷物を置くに行く。途中、馴染みの職員に暑い中お疲れさまと小さく声を声を掛けられ、それに反応して奈々実は軽く会釈した。

 椅子に腰かけると、持っていたノートや参考書を机の上に乱雑に広げ、また立ち上がり自動販売機へと足を向ける。そして自動販売機に硬貨を投入して、いつもの紅茶を買い、またそそくさと席に戻った。高校二年。周りの同級生は、この時期みんな部活に勤しんでいる。もともと運動神経の良くない奈々実は高校に入学した当初から帰宅部で、それでいて学習欲が強かったこともあり、この図書館には高校一年の春から通い続けていた。


徐ろにノートを開くと、苦手な英語から始めた。ひたすら英単語を書き取り、それをひとつひとつ憶えていく。この作業が苦痛に感じたことは無いが、日本語ベースの奈々実の頭の中は、英語の仕組みを理不尽なものとして捉え、どことなく好きにはなれずにいた。そんな作業が数ページ続いたあたりで、不思議な感覚に襲われた。

 どこに視線を固定しているわけでもなく、感覚的に文字の羅列が目の中へ飛び込んで来る。

(なんだろう・・・。アルファベットがパパパッと頭の中に浮かんだような・・・)

 次の瞬間、それは“言葉”として奈々実は理解した。

(なんとなくだけど、どういう意味の言葉なのか分かる)

 その言葉の意味を反芻すると、視線を上げて辺りを見回し、やがて広い空間にたくさん並んでいる本棚の一点を見つめた。一番奥の角にある本棚・・・。静かに椅子から立ち上がると、つかつかとその本棚に向かってまっしぐらに歩いていくと、一番上の棚から順番に背表紙を確認していく。その視線が一番下の棚まで移っていき最後の端のところで止まった。古びた本・・・。

「これだ!」

 奈々実は呟き、その本を手に取った。辞書並みの厚さがある。背表紙も表紙も難解な文字で書かれており、それが一体どこの国の文字なのか分からなかったが、これに間違いないという確信めいたものを感じ、また自分が座っていた席にその本を持って戻った。時間は午前10時半。

(お昼くらいまで少し読書して、勉強の続きは午後からにしよう・・・)

 タイトルがなんと書かれているのか、不思議と気にならなかった。本の中身が読めるものなのだろうかとも考えもせずに表紙を開く。中表紙もやはり難解な文字で書かれていたが、次のページを捲ると予想外の文字が出てきた。日本語だ。


“この本を読んでくれるあなたへ。このまえがきのページを読み終え、本編を読み始めた瞬間から、これまでに無い体験があなたを迎え入れてくれるでしょう。その体験は、ときにあなたを混乱に陥れ、ときに苦悩をもたらし、ときに幸福をもたらすでしょう。しかし、それらは全てあなたの行動に関わってきます。あなたの行動や発言次第で、あなたが望む展開にも望まない展開にもなります。どうか、畏れや迷いがあったとしても、この本を閉じずに次のページを捲ってください。その瞬間から全てが始まります。あなたに素晴らしい未来が訪れますように・・・”


 奇妙な文章に感じた。内容に触れられていない。まあ、そういう書物もあるだろうが、かといって何かのノウハウ書という感じでもない。読み手の人生を指南するような文章とも違う気がする。奈々実は少し躊躇ったが、何か目に見えないものに急かさせるように次のページを捲った。


 気が付けば、最後まで読み終えていた。分厚い本だったにも関わらず、のめり込んで一気に読んでしまっていたのだ。

(はあ~・・・。凄く面白かった。こんなに面白い本を読んだのは初めてかもしれない)

 が、はたと気が付いた。面白かったことは憶えているのに、内容を全く憶えていない。必死に思い出そうとしても、全く思い出せない・・・。奈々実は混乱しそうになった。自分の頭がどうかしてしまったのだろうか。そして、壁にある大きな時計に視線を移動した次の瞬間には、更に混乱する現実に直面した。午前10時35分。あれからたったの5分しか経っていない。周囲の状況から察するに、時計が故障しているとも思えない。思考停止。しばらく呆然とするしか術が無かった。

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