第38話タケル編【牧野かすみの過去】

 牧野が職場に復帰してから、僕の気持ちも何となく穏やかになった。季節はもうすぐ8月になろうとしていた。今年の夏はいつもよりも猛暑で、車椅子生活には過酷な夏だ。ゴム付きの軍手はどうかと提案されたが、軍手の中が大変なことになったので却下した。移動する時には常に服で汗を拭きながら、出来るだけ手汗で操作を誤らないようにした。

 8月になったら一度敷地外体験をしてみようという話も出ていて、最初は施設の周りを一周する程度から始めると説明があった。その体験で問題がなかったら少し遠出を計画するとのことだった。

 敷地外体験は施設の職員が一人付き添って行うらしく、問題があった時に声を掛けやすい職員が居れば優先的にその職員が付き添ってくれるとのことだったから僕は迷わず【牧野かすみ】を指名した。なにせ彼女は僕が車椅子になる前から僕の事を知っている貴重な職員。そして、僕も彼女なら安心して付き添ってもらえると確信していた。恋愛とか、そういう感情はないがとにかく彼女の事が気になっていたのは事実だった。


*****


 8月に入った。

施設外体験の日程も決まり、牧野は体験当日のプランを作ってくれた。


「最初は施設の周りを一周するだけです。とは言っても施設の敷地内の段差とはまた違う段差もあるし、人通りもあります。障害物、例えば自転車とかもあります。歩けていた時には何も感じなかったものが邪魔だと感じることもあります。職員は出来るだけ手を貸さないのでそれらの障害物は自力でなんとかしてみてください。職員が手を貸すのは明らかに車椅子が通れないほどの障害物があったり、段差で転倒した際、場所によっては自力で起き上がれない場合があるのでそういう時のみです。」


牧野は淡々と説明をしてくれたが、今日はなんだかいつもと様子が違う気がした。


「何かあった?」


僕は体験プランの説明より彼女の様子が気になって思わず説明とは関係ないことを聞いてしまった。牧野は、


「私、何か変でしたか?」


と聞いて来た。


「あ、いや、説明は分かりやすかった。でも今日の牧野さん、なんかいつもと違うなぁって思っちゃって。」


僕は慌てて答えた。


「あの。この説明ってとっても大事なんですよ。私の様子とか見なくていいのでちゃんと説明に集中してもらえませんか?ちゃんと頭に入れておかないと思いがけない怪我をする場合もありますからね。私がすべて助けられるとは限らないこともありますよ。」


牧野は少しキツイ口調で言った。僕は、


「ごめん。そうだよな。車椅子になってから初めて外に出るんだからな。ホントにごめん。」


と素直に謝った。それを聞いた彼女は、


「分かれば宜しい!普段通りだと患者さんは外を舐めちゃうんです。なので説明の時には少しきつめにしています。」


といつもの明るい笑顔で言った。


「なるほど・・・」


牧野は何度も敷地外体験を経験しているからこその口調だったのかと納得した。そして敷地外体験は1週間後に決定した。


*****


 1週間が過ぎ、今日は敷地外体験の当日だった。朝食を済ませた後、いよいよ外に出ることになった僕は予想以上に緊張しているのが分かった。1週間前の牧野の説明がフラッシュバックしてきたのだ。やはり彼女のキツイ口調のおかげだと感謝した。緊張しながら体験しなければ、牧野が言ったように外を舐めてしまっていたかもしれない。敷地内だって多少の段差がある。それをうまく避けたりそのまま進んだり出来ているのだから外だって何とかなると思ってしまったかもしれない。

 程よい緊張を持ちながら、僕は怪我をしてから初めて外へと向かった。牧野は最初は僕の前を歩いていた。施設の門を出る際の安全確認のためだった。安全だと確認できたあとは、


「ここからは私は後ろを歩きます。何かあった時に手押しハンドルを職員が持ち、補助した場合は今日の体験に合格点は上げられません。万が一転倒した場合、自力で車椅子に戻れた場合は減点にはなりませんが、けがをした場合はその時点で施設に戻ります。残りの分は後日やり直しになります。それでは出発しましょう。」


説明の時同様に口調はきつめだったが、今日は説明の時のような感情はなかった。僕自身も外を舐めないようにと気を引き締めていたからだ。


 しばらく進んだ時、前からスマホを操作しながら歩いている男性に遭遇した。車道と歩道が高さ20cmほどの縁石で仕切られている道路で、歩道は人が二人通れるくらいの幅だった。男性はその歩道の真ん中を歩いていて前を全く見ていなかった。僕は出来るだけ端に寄り、男性が通り過ぎるのを待つことにした。しかし男性がそのまま歩いて来たら確実にぶつかってしまうのが予測出来た。僕は、


「あの、すみません。」


と男性に向かって声を掛けた。それでも男性は前を向こうとしなかった。どうやらイヤホンをしていて僕の声が届いていないようだった。僕はもう一度声を掛けようとしたが、後ろから前に出る気配を感じた。次の瞬間、


「車椅子が通ります。少し道を譲ってもらえませんか?」


男性に声を掛けたのは牧野だった。目の前にいきなり人が現れたような驚いた顔で男性は立ち止まった。そして、


「こんなとこ、通ってんじゃねぇよ!」


と怒鳴って僕を睨みながら通り過ぎた。


『これが世間の車椅子に対する現実か・・・』


と僕は悟った。もちろんこの男性のような人ばかりではないことは分かっているが、車椅子になって最初に出会ったのがこの対応。僕は自分が歩けていた頃はどうだったかなぁ?と考えてみたが、思い出せなかった。多分、今の男性と同じようなことを思っていたかもしれない。口に出していたかどうかは分からないが。そんなことを考えた次の瞬間、僕は焦った。


『これって補助になるんじゃないか?今日の体験はココで終了なのではないか?』


と。そして、


「今のは・・・」


と恐る恐る聞いてみた。牧野は、


「グレーですね。避けてもらおうとしましたもんね。さて、どうしたもんか・・・」


と悪戯っぽく微笑みながら言った。


「グレーって・・・」


僕は判断は牧野にかかっていると思い、子供のように、


「どっち?どっちなの?」


と前のめりになって聞いた。牧野はまだ微笑んだままだった。そして、


「さぁ!先に行きましょう。今のはあとで判断します。グレーの時はその場で判断出来ないんですよ。その先で問題なければ、施設に帰ってから職員の意見を聞いて決めます。なので、先に進んでください。」


と言った。そのあと、


「見た目でハッキリ不自由が分かってしまうと辛い時もありますよね。私はまだ幸せなのかもなぁ・・・」


と今の状況を何かの書類に書きながら呟くような小さな声で言った。僕は、


「えっ?なんて言ったの?」


と聞き返したが、


「ひとりごとです。私にだって色々あるんですよ。過去にも、今にも。」


と誤魔化されてしまった。牧野の過去・・・。僕はどうしようもなく知りたい衝動に駆られていた。

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