第37話タケル編【牧野かすみが居ない】

 7月ともなると少しずつ気付かされることが多くなった。それは冬や春にはあまり気にならなかった”汗”だ。梅雨入りしてから少しずつ気付き始めたのだが、汗は車椅子を操作するのに大敵だった。普通に前後に移動する時にはさほど感じなかったが、急に左右に方向を変えようとした際、手汗でハンドリムが滑り思いがけない動きをしたり湿度が高くて汗がひどい時には操作を誤り、車椅子から転倒したりするようになった。あ、ハンドリムと言うのは車椅子のタイヤの形に添ってついているパイプのようなもので車椅子の操作はそのハンドリムを漕いでするものだ。感覚的には夏に鉄棒を掴むと汗で滑って落ちてしまうことがあるのに似ていると僕は思った。鉄棒から落ちた時、その鉄棒が身体に乗っかって来ない分マシだが、車椅子が転倒すると場合によっては車椅子の下敷きになるから始末が悪い。

 そうなった場合でもこの施設では基本、自力で車椅子を元に戻し、その体勢から車椅子に乗れなくてはいけない。梅雨入りしてすぐは転倒することもなかったが、ハンドリムが滑る感覚に慣れて来たあたりから、僕はよく転倒するようになった。手が滑ってもそれなりに普通に近いスピードで操作することが出来るようになった頃、慣れが油断となり操作を誤るパターンが多いと牧野ではない世話係の人が教えてくれた。

 そういえば最近、牧野を見かけなくなった。前は週に3~4回は見かけていたのだが。他の世話係に聞いてみても、


「今日はお休みですよ。」


と言うだけ。その”今日は”がもうすでに20回以上連続で来ているのだが聞く人みんなが”今日はお休み”としか言わなかった。個人情報だのプライベートだのって問題があるのだろうから僕もそれ以上は聞けないが、この施設に来た最初の時に声を掛けてくれたし、僕のファンだと言ってくれた彼女の事は何となく気になっていた。

 こんなことを言ってもいいか分からないが、決して美人ではないタイプ。何となく角度によってはあのアイドルに似てるような似ていないような・・・と言う微妙なタイプだった。でもいつも誰に対しても明るく、優しく、そしててきぱきと接している彼女を僕は気付くと目で追っていた自分に驚いたこともあった。

 牧野を見ていると時々舞花と重ねてしまうことがあった。舞花はいつも前向きで喜怒哀楽がはっきりしていて、立ち止まるのがもったいないとでも言わんばかりに常に何かに一生懸命だった。牧野もそんな風に見える時があった。僕は一瞬、牧野も何かの病気を抱えているのではないか?と思ってしまったが、彼女は仕事もしっかりやれているし、もし病気があったとしても舞花のような生死に関わるような病気ではないだろうと一人で勝手に解決させていた。


 今日誰かに牧野の事を聞いて、また”今日は”が来た時にはダメもとでもう少し突っ込んで聞いてみようと思っていた日。牧野は現れた。僕は、彼女を見つけるとすぐに声を掛けた。


「おはよう。ずっと休みだったけど、何かあった?」


そう言えば、僕から彼女に話し掛けることはなかった。いつも先に声を掛けてくれたのは彼女の方だったのだ。そのせいだろうか?彼女は少しビックリした顔をして、しばらく僕を見て黙っていた。


「えっ?何?僕、なんか変なこと言った?」


僕は慌てて聞いた。その言葉にハッと我に返ったように、


「あ、すみません。休みボケですね。おはようございます!ずっとお休みをしていなかったので有給休暇が溜まってて。有給消化ってやつですよ。」


といつもの明るい牧野に戻り、答えてくれた。僕は、彼女がいない間の妄想はすべて的外れだったと分かり、思った以上にホッとした。僕の様子を見ながら牧野は続けた。


「もしかして、心配とかしてくれました?」


と中腰になり目線を合わせながら聞く彼女は休む前と何も変わらない彼女だった。


「あ、いや、まぁ、少しね。僕、好きだった人が牧野さんみたいに明るい人だったんだけど、病気で去年亡くなっちゃって。彼女も突然学校を何日も休んだりして、そんな時はたいてい調子が悪くなった時で・・・」


僕は自分でも驚くほど舞花の事を牧野に語り出していた。


「そうだったんですね。好きだった人って彼女さんだった人ですか?あ、そんなこと聞いたらダメですね。でもありがとうございます!ご心配をおかけしてしまってすみませんでした。今日からまた通常通り出勤しますので安心してくださいね!」


牧野は少し申し訳なさそうな顔で言った。


「彼女だったかどうか・・・は分からないなぁ。いつも三人で一緒にいたから。彼女と僕ともう一人も男で。男二人が彼女の事が好きだった状態。いわゆる三角関係ってやつ。あ、でも普通の三角関係とはちょっと違うかな?男二人で彼女に喜んでもらおうとか楽しんでもらおうとか計画してたから。暗黙の了解でどっちかがどっちかを出し抜こうってのは、なし!って感じだった。」


僕はなぜか舞花との関係を牧野に伝えたいと思ってしまった。思ってしまったら止まらなくなってしまった。僕の話を真剣に聞いてくれる彼女の反応が心地良くてもっと聞いてほしいとさえ思ってしまった。そんな時、


「なんか・・・私の友達もそんな関係の男友達が居るって言ってたことがあったなぁ。もしかして、今ってそういう関係、流行りなんですか?私なんて一人すら男友達なんていないのに。」


自虐したあと牧野は照れ笑いをしてその後肩をがっくりと落として落ち込む仕草を見せた。僕はその様子がツボにはまり、思わず大笑いしてしまった。それを見た牧野は、


「えっ?そこ、笑うところですか?ひどいなぁ。」


と言いながら自分も笑ってしまっていた。


『こんなに腹の底から大笑いしたのってどれくらいぶりだろう?』


と僕は思った。舞花が亡くなってからまだ7ヶ月しか経っていないのに他の女子とこんな風に自然に話せるとは思っていなかった。


「あ、私、もう行かないと!長期のお休みの理由、理解してもらえました?私はその彼女さんのように具合悪くて休んでいたんじゃないこと、分かってもらえました?今日からまたバリバリお世話しますよ!お世話されないように自力で頑張ってもらえるとありがたいんですけどね。」


と言うと、牧野は僕に一礼をして走って行ってしまった。


『僕の勘違いか。そうだよな。世の中、そんなに具合悪い人だらけじゃ困るもんな。』


僕は自分の妄想がすべて舞花寄りになっていることに気付いた。そして、牧野が病気ではないことを知り、ホッとしている自分にも気付いた。

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