Scene30 ピュアな悪人

 怜音が窓のブラインドを閉めようと立ち上がったとき、フラフラっとよろけた。

 その姿を見て、北村ジュンは、この人が言うように、たった1度の実験でarea.Cに何らかの異常をきたしたのかも知れないと本気で思った。


 脳は謎に満ちた器官だ。

 area.Cに集中照射した電磁波は、もしかすると、車のフロントガラスの小さなヒビが広がっていくように、ゆっくりと確実に脳全体に打撃を与えていくのかも知れない。

 この仮説が正しいのであれば、今頃鎌倉にいるターゲットは致命的なダメージを受けていることになる。


「ねえ」

 どうにかブラインドを閉めて振り返った瞬間、怜音はまたよろめいた。

「ちょっとワインが効いてるのかな、スイカみたいに頭が割れそう」

「大丈夫ですか?」

「うん、たぶん大丈夫。久しぶりに酔っ払っちゃったみたい。なんだか昔の想い出が蘇ってきて、大声で泣きたい気分よ」

「泣いていいですよ、思いっきり」

 だが、怜音は泣かない。


 怜音はそのままプラスティックの1人がけの椅子に腰を下ろした。

 白を基調とした部屋の中において、椅子の赤色がことのほか映えている。怜音は酔っているが、瞳はしっかりとしているし、呂律もそこまで乱れていない。


「ねえ」

 彼女は珍しく語尾を上げた。それからずり落ちていたキャミソールの肩紐を指でつまんで肩にかけた。

「ジュン君の最終目的って、一体何なの?」

「またその話ですか。それは言えないですって。僕の個人的な事情なんですから」

「でも、私はあなたのパトロン。あなたの目的が立派な社会貢献になるようであれば、私はさらに投資する用意があるわ」

「前にも言いましたけど、ボクはカネ目当てでやってるわけじゃないんで。研究にかかる費用さえ手に入ればそれで十分なんです」


 怜音はリモコンで照明を少し暗くし、スピーカーのスイッチを入れた。ネットワークに接続されたAIスピーカーからは、素敵な音質のスムースジャズが流れ始めた。


 北村ジュンは掛け時計に目を遣った。22時を過ぎている。今日ばかりは、1日がものすごく長く感じる。

「変な感じなのよ。やっぱり自分が関わっている以上、ジュン君の研究目的が気になるあたり、私もまだ人間を捨て切れてないのかな?」

「つまり、ボクが非人道的な目的で研究をしてると疑ってるんですね?」

「分かりやすく言うとそういうことよね」


 怜音の背後にある観葉植物がLEDの光を受けて新鮮さを演出している。それゆえ怜音の表情は余計にくたびれているように相対化される。


「べつに人間を捨てる必要なんてないと思いますけど。怜音さんは、ピュアな方だと勝手に思ってます」

 北村ジュンはそう言い、部屋の隅の冷蔵庫からペットボトルのミネラルウォーターを取り出し、それを飲んだ。冷たさが脳まで駆け上がっていく。


「そうよ。私はピュアなの。でも、本当にピュアだった頃の私はもはやどこにも存在しない。今はピュアな悪人になってる。それはジュン君も同じ。私の目的はただ1つ。あいつにリベンジすること。じゃあ、貴方の目的は何なのか、気になるのよ」

 北村ジュンはペットボトルに貼られたラベルを見るともなしに見た。

 ナチュラルミネラルウォーター、採水地は南アルプス、高度40.4、日本のおいしい天然水。そんなことが書かれてある。いかにも平和なラベルだ。

 思わずため息が漏れる。

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