Scene29 将来有望なゾンビ

「で、本題に戻ろう。今度は君の話をしてほしい。御主人の話だ」

 明子は若干赤くなった頬を両手でやさしく包み、はっ、と息を吐いた。

「透さんが前の彼女さんを好きだったのと同じくらい、私もあの人のことが好きだったわ。私たちは幼なじみだったの」

「幼なじみ?」

「幼稚園の時からのね。たとえば、実朝が若くして死を予感していたのと同じように、私は彼と結婚することを予感していた。私たち、鶴岡八幡宮で結婚式を挙げたの」

 なるほど、めったに外に出たがらない明子が鎌倉に行きたいと提案してきたのは、そういうことだったのかと、透はこの時になって真に合点がいった。


「彼は理系の研究者でありながら、小学生の頃から文学全集を読み漁っている人だった。鎌倉文学館にもしょっちゅう出入りしていたの。鶴岡八幡宮で北条政子の安産祈願が行われたという情報をどこかで入手してね、そうやって生まれたのが実は実朝だったんだって教えてくれたの。私が高校生の時に実朝の和歌に衝撃を受けた記憶が、その時になってつながったの」

「なるほど」

 高揚しかけた明子だったが、表情をぐっと歪めた。頭の奥が痛むのだ。


「真面目な彼は、就職した後、一生懸命に働いたわ。『お国のために』っていうのが口癖だった。大学では量子物理学の研究をしたかったんだけど、しだいに放射線へとシフトしていって、気がつけば原子力関連の畑のど真ん中に立っていた。彼の研究室の教授はその道の研究で海外の物理学賞をいくつも受賞していて、彼はものすごく崇拝していたの」

「純粋な人だったんだね」

 明子は歪んだ顔のまま、うれしそうに目をつむった。


「東京で1年働いた後で、福井に転勤になったの。それが原子力発電所だった」

「その時、君たちはすでに結婚してたんだね?」

 明子は小さく頷いた。

「彼が博士課程の在学中に私たちは籍を入れて、修了と同時に式を挙げた。敦賀に行ったのは、だから結婚して2年経った時だった」

 透は自分のグラスにワインを注いだ。ワインは大きなグラスの底をくるりと滑り、ごく微細な泡を立てた。

 由比ヶ浜はすっかり暗くなっていて、左手に突き出た半島の明かりがそばかすのようにぽつぽつと点在している。

 鎌倉は北と南で全然違う。

 明子が言ったとおりだ。


「なんで俺、原発にいるんだろう? 瞬間移動させられたみたいだよって、彼はよく言ってたわ。でもそれ以上の愚痴は吐かなかった。たしかに彼は純粋だったの。与えられた仕事をひたすら全力で取り組むというスタイルだったのね。今思えば、その美点こそが彼の命を奪ったのよ。もちろん、すべては結果論だけど」

「で、その原発で事故が起こってしまったんだ」

「ちょうど彼が原子炉に下りたところだった。彼みたいな研究者が現場に下りることはめったにないらしいんだけど、事故の直前に大きな落雷があって、その影響を自分の目で確かめにいったようなの」

「つまり、事故は落雷による不具合によって引き起こされたっていうわけだ」

「事故の調査委員会が出した結果もそうだった。結局、あの将来有望なエンジニアは雷のせいで亡くなったって、多くの人が皮肉っぽく言ってたわ」

「聞きにくいことを聞くけど、御主人は被爆されたっていうことかい?」

 明子は再び濡れ雑巾のように疲れ果てた表情を浮かべた。


「間違いなく被爆してたんだろうけど、最終的にそれは表には出なかった。隠蔽されたのよ。彼は事故から2週間後に、自宅のベッドの上で亡くなった。過労死という認定だった」

「過労死?」

「事故があってから、ほとんど家に帰らなかったの。原子炉の復旧作業だけじゃなくて、連日おびただしい数のマスコミが押し寄せて、記者会見などの対応に追われてた。あの日はほんとうに久しぶりに帰宅してきて、もうゾンビみたいになって、すごく頭が痛いといって、ウイスキーを飲んで早めに2階の寝室に上がったの。私が2階に上がったとき、彼は息をしなくなっていた」

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