Scene25 世の中に「絶対」はあるか?

 結局、第1希望の大学に入学した。

 大学の附属高校の生徒だった怜音は指定校入試だったために、一般受験を突破する厳しさは経験せずにすんだが、それでもアーロンのおかげで学習意欲が上がり、成績上位での合格となった。


「センター試験を受けて国立大学にチャレンジするべきだったのかなあ?」

 家庭教師最後の日、怜音はアーロンに尋ねた。

「ひょっとして、後悔してるのかい? 十分に良い大学に入学したと僕は思ってるんだけど」

 アーロンは額にかかったブロンズの髪を軽やかにかき分けた。怜音がいつも心を奪われる仕草だ。


「学校の先生が口を揃えて言うの。指定校推薦で入学した生徒は、学力に不安があるから、入学してから苦労するって。アーロン先生は、一般入試で合格したんですか?」

「怜音ちゃんみたいな附属高校じゃなかったから、一般試験を受けるしか道がなかったんだよね。しかも高校2年生までは全然勉強なんかせずに、遊んでたから、けっこう苦労はしたよ」

「遊んでいたんですか?」

「そうだよ。1年生の時にアメリカンフットボール部に入部したんだけど、上級生から暴力を受けてね、マジで大変だったんだ」

 アーロンは普段通りリラックスした表情の中に、ブルーがかった瞳だけキリッと光らせた。怒りのこもった光だった。

「でもね、僕が一番つらかったのは、部活の顧問の態度だったんだ。全く助けてくれなかった」

「先生は暴力を知ってたんですか?」

「もちろん知ってたよ」

 アーロンは乾いた笑みを怜音に向けた。高校生には見られない、大人びた笑顔だった。


「今、法律を学んでいる僕からするとね、そもそも部内で起きている暴力沙汰に気づかない顧問がいたとしたら、それはもう問題外、教師の資格なしだ。だからアメフト部の顧問だって、さすがに気づいてたよ」

 アーロンは低速航行の船のような低い声で話した。

「彼はその上で、あえて見て見ぬ振りをしていたんだ。まだ若くて愚かだった僕は、学校の先生っていう人たちは、生徒を助けてくれるものだとばかり信じ込んでたんだ」 

「助けてくれなかったんですか?」

 アーロンはあざ笑うかのように答えた。

「助けてくれないばかりか、上級生たちに荷担してきたよ。ありえないだろう? わらをも掴む思いで相談したのに、顧問ときたら表情ひとつ変えずに『お前にも非があるんじゃないのか』って言ってきたんだ」

 声は次第に熱を帯びていく。


「あの時の僕は、まだ自我も形成されていなかったもんだから、自分の非を探したよ。自分の肌の色が違うのがいけないのだと思うことだってあった。でも、それってすごくしんどいことだって気づいたんだ」

 怜音は同情の視線を向けた。

「つまり、自尊心の問題なんだ。人はね、最低限の自尊心がないとまともに生きていけないんだ。自分の非を探すだなんて、死ねといわれるのと同じことだよ」


 その時の、異様なまでに静かな部屋の空気を怜音は今でもよく覚えている。たぶん、何らかのBGMをかけていたはずだ。アーロンが来てくれたときのルーティンだった。でも、記憶に残っているのは、彼の姿と静寂だけ。


「部下にとって、リーダーの無関心ほどつらいことはないってことに、高校生の時に気がついたんだ。大人の世界に完全に失望したから、努力するのがばかばかしくなって、部をやめた後は、毎日遊びまくったよ」

「どんなことをして遊んだんですか?」

「ん?」

 アーロンは愉快そうな顔をした。

「それは、言えないよ。恥ずかしいからさ。まあ、ばかげたことだよ。人に迷惑をかけたりもしたなあ。怜音ちゃんは、後悔することとかあるかい?」

「よくありますよ」

「人を傷つけたってことに、後になってから気づくっていうパターンは?」

「それもありますよ。だって、私は良く喋る方だから、どうしてあの時、あんなことを言っちゃったんだろうって思うこととか、後になって気づくことなんてしょっちゅうです」

「そういうことなんだよ」

 自分の言葉に乗ってきてくれたアーロンの顔を見ると、胸の奥が温かくなった。


「今となっては、部活をやめて遊びまくっていた頃、いかに多くの人に対して無礼な言動をとってきたかが身に沁みてね、わけもなく自己嫌悪に陥ることがあるんだ。しかも、そういう場合の心の闇は思いの外深くてね、なかなか立ち直れない。過去は消せないからね」

 怜音は実感を込めて頷いた。

「そう考えると、まともに生きることって、どうしてこんなにも難しいんだろうってつくづく嫌になる。みんな、どうやって生きてるんだろうって、教えてもらいたいくらいだ」

 アーロンは真顔に戻っている。


「アメフト部の顧問が言ったように、僕には上級生から殴られるだけの非があったんじゃないかとさえ思うくらい、ネガティブになってしまうよ」

「そんなことは《絶対に》ないと思います。アーロンさんなら」

「絶対に?」

 怜音は頷いた。

 それを見て、アーロンは、また乾いた笑顔を浮かべた。

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