Scene23 夏目漱石のシルエット

 明子はなおも話を続ける。

「先生は、死ぬの。親友であるKを出し抜いて、最後は自らのエゴイズムに敗北するのよ。その先生が、白い肌の西洋人と一緒にホテルから出てきたわ」

 透はふと明子の横顔を見た。それは、これまで感じたことがないほどにかわいらしい顔だった。まるで乙女の淡い夢を聞いているような親近感が湧いてきた。

「夏目漱石の心とリンクしたんだね」

 透は言った。


「ここに座っているとね、なんだかいろんな記憶が蘇ってくるの。漱石が見たことは、実は私も見ていたのよ」

「なるほど」

「漱石は昔、この由比ヶ浜にあった『鎌倉海濱ホテル』を『こころ』という小説に登場させた。主人公である先生が、肌の白い西洋人と一緒に宿泊していたの。漱石自身もホテルを利用したことがある。彼はロンドンから帰国して、自分が日本人であることを痛感し、頭がおかしくなった。それで、そのたまらない心になんらかの説明をつけるために、円覚寺に籠もり、ひたすら座禅を組んだの」

「なるほど」

「漱石だけじゃないわ。実朝の記憶も蘇ってくる」

「実朝?」

「そう。彼はこの由比ヶ浜で船を作らせた。実朝は宋に渡りたかったの」

「どういうことだい?」

「夢を信じたの。いや、夢こそが現実的だったの。このまま自分は鎌倉にいても殺されるだけだ。だったら、死んだ世界のことを考えたい。人は死んだ後、永遠に生きられる」

 落ち着き払った明子の身体には、まるで実朝の魂が入り込んだようで、さすがに危ないと思った。


「中国からやってきたという木工師が訪ねてきた。陳和卿ちんなけいと名乗るその者は、東大寺再建のためにちょうど日本に来ていた」

 実体験を回想するような語り口に、それはいったい事実だろうかと思う。


「陳和卿は実朝に言った。恐縮ながら、頼朝様にはを感じるのです、と。貴方は前世で宋国医王山の長老であり、私は貴方様に仕える身でございました」

「大丈夫かい、明子?」

 明子の顔を覗き込む。彼女は夕陽の傾く由比ヶ浜に向けて、力のない視線をいたずらに送っているばかりだ。


「陳和卿の言葉を聞いて、実朝は落雷に打たれたような気分になった。たしかにその夢を何年か前に見たことがある。不思議なもので、時を経た今なお、夢は記憶から消えていかなかった。あぁ、あの夢は今、目の前にいるこの者とつながっていたのだ。だとすれば、自分が生きるのは鎌倉ではない。現実だと信じ込んでいる世界こそが虚構であり、夢だと思っていた世界こそが自分が生きるべき場所なのだ」

「明子、大丈夫かい?」

 透は身体を乗り出すようにして大きめの声をかけた。明子は力のない瞳を少しだけ見開いた。


「あ」

 明子三分の一ほど口を開けた。

「別の世界に行ってたみたい」

「やっぱり、疲れてるんだよ。今日は早く寝るに越したことはないよ」

「私、なんか言ってた?」

「言ってたも何も、しっかり語ってたよ。夏目漱石と実朝の話だ」

「漱石と実朝?」

「おいおい、今話したばかりのことを忘れたとでもいうのかい?」

 明子はため息を吐いた。


 サイドテーブルの上には、この203号室の鍵とパワーグラスが無造作に置かれていて、そこだけが影の中に含まれている。

 改めて明子の顔を確認する。やっぱり、パワーグラスをしていない素顔が好きだ。


「そう言われてみると、実朝の記憶が浮かんでいたような気もするわ」

「実朝が宋に渡るために、チン、何たらっていう中国人と前世での話をしたっていうことをつぶやいていたよ」

「私ね、今、前世について考えてたの。この由比ヶ浜に打ち寄せる波を見てるとね、自分が遙か遠くから運ばれてきたみたいな存在のように思えて、いったい私はどこから来たんだろうって根源的なことを考えてたの」

「さっきから、君は幻覚ばかり見ている。俺も、君の世界に引き込まれそうになっているよ」

 明子は両方の手を自分の顔に向けて広げ、そこにまじまじと目を遣った。手相に不吉な線でも出ているかのような瞳で。


「私の記憶の中で、何かが起こっている。自分の身に起こったことだけじゃなく、本で読んだこととか、身に覚えのないことまでもが浮かび上がってくる。自分の頭の中が自分のものじゃないみたい。一体何が起こったんだろう。私、頭がおかしくなるような薬でも飲んだんだろうか? すごく怖いわ」

 透は明子に歩み寄り、そのか細い両肩を抱いた。

「大丈夫だよ。明子は過去のものなんかじゃなく、今の君が本物なんだ。今君はここでちゃんと生きている。この俺が証明するよ」

 明子はお化け屋敷に入る前の子どものように、透の腕にしがみついた。

「頭の中が、すっかり入れ替わっちゃったみたい。このままどうなってしまうんだろう?」

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