血の輪唱

浦登 みっひ

第1話

「まずいわ……」


 キャサリンはふと立ち止まり、頭上を覆う木々の隙間から僅かに見える空を見上げながら呟いた。


 屋敷を出た頃にはまだ青空が広がっていたはずなのに、気付けば辺りは薄暗く、空は夕焼け色に染まりつつある。薄く広がる雲は夕陽を浴びて薄桃色と紫の複雑な陰影を生み出し、深い群青を絡みつけながら緩やかに流れていく。鬱蒼としたオークの森はその微かな陽光すらも閉ざし、足元に繁茂するシダの緑や、点在するブルーベルの鮮やかな青さも、もはやほとんど視認できなくなっていた。


 屋敷の庭で、世にも美しい模様を持った珍しい蝶を見つけ、一心不乱に追いかけてきたキャサリン。しかし、美しい蝶に誘われて迷い込んだのは、獣道すら見えない深い森。ブロンドの長い髪は乱れ、若草色のドレスは、木の枝や葉に引っかかってあちこち糸がほつれている。結局蝶も見失ったし、どこからどうやってここまで来たのかもわからなくなってしまった。


 昼間に比べればだいぶ気温が下がり、風も冷たくなってきている。私の姿が見えないことに気付き、今頃お父様やお母様も心配しているだろう。ここでずっとこうしているわけにもいかない。とにかく進まなければ――キャサリンは灌木やシダの繁みをかきわけながら進んだが、林立するオークの木は果てしなく続き、森の終わりは一向に見えない。それもそのはず、この時のキャサリンは、彼女の屋敷とは反対方向、森の奥へ奥へと進んでいたのだ。


 逢魔が時を過ぎた森は、やがて深い闇に包まれ始めた。不気味なほど明るい満月の夜、時折木の葉を縫うようにして僅かな月明かりが差し込んできたが、辺りを照らすには全く足りない。

 花も恥じらう美しい侯爵令嬢でありながら、生まれつき活発で男勝りの気性を持つキャサリン。しかし、全く先の見えない状況に、さしものキャサリンも不安を覚え始めた。もしこのまま森を抜けられないようなら、最低限風雨を凌げる場所を探さなくてはならないが、それとてこの暗さでは――。

 手足に無数の傷を作りながらもキャサリンはひたすら進み続けたが、森は一向に途切れる気配がない。もうだめか、とキャサリンの脳裏を絶望が掠めたその刹那。

 森の向こう、木の幹の隙間に、一瞬だけ、確かに明かりが見えたのである。


 キャサリンが最初に考えたのは、鬼火、つまりウィルオウィスプの可能性だった。

 ウィルオウィスプ――墓地や湖沼の周辺に出現し、人間を惑わす存在。まさかこんな森の奥に人家などあろうはずもない。あれがウィルオウィスプだとすれば、近くに沼があるのだろうか。足元すら見えないこの暗闇でウィルオウィスプを追うのは極めて危険である。

 だが、そうかといって、このまま森の中で夜を明かすのもまた危険であることに変わりはない。夜気に満たされた静謐の森は冷え込みが厳しく、蝋のように白い手足の指先は、かじかんで最早満足に動かせなくなっている。森を出られないまでも、まずは最低限寒さをしのげる場所を探さなければ、今夜のうちにも凍え死んでしまいそうだ。


 色々考えた結果、キャサリンはやはりその鬼火を追うことにした。人家はなくとも狩人小屋ぐらいはあるかもしれないし、さっき見えた火は、その狩人がおこした篝火だったかもしれないのだ。屋根と壁のある場所で眠れたらあとはどうでもいい。疲労と凍えるような寒さに体力を奪われ、心身はもはや極限状態を迎えていたが、僅かな光に一縷の望みを託し、キャサリンは遮二無二歩き続けた。


 最初は夜空に瞬く星のように小さく見えた光だったが、歩を進めるごとにそれは次第に大きくなり、着実に距離が縮まっているのがわかる。鬼が出るか蛇が出るか。当然恐怖はあったが、キャサリンはその小さな光に賭けるしかなかったのである。

 冷たい草木に足をとられ、或いはスカートがひっかかって、何度転んだかわからない。白く細い手足はとっくに傷だらけになっていた。それでもなりふり構ってはいられなかった。苛立ちのあまり、特に草木に引っかかりやすいフリルを自ら破り捨てたりもした。破れたドレス、絡まる蓬髪。蝶よ花よと育てられた侯爵令嬢の面影はもう残っていない。


 そうしてしばらく進むと、突然森が途切れ、開けた場所に出た。頭上には満天の星空が広がり、妖しく光る満月がキャサリンを見下ろしている。そして、その月明かりの下、キャサリンの目の前に、大きな黒い屋敷が現れた。

 助かった、という安堵と共に、キャサリンは困惑もした。暗くてあまりよく見えないが、屋敷の大きさぐらいはおぼろげに見渡せる。少なく見積もっても二階建てはあろうかという高さ、キャサリンの住む屋敷よりは若干小さいようだが、それでもかなりの大きさである。

 領地の近くにこんな大きな屋敷があるなんて聞いたことがない。狩人小屋などでは勿論ないし、民家では有り得ない規模。家主は、少なくとも何かしらの爵位を持つ人物だと見て間違いないだろう。だが、屋敷から離れているとはいえ、このあたりはまだ父の領地のはず。もしかすると、打ち捨てられた屋敷に誰かが棲みついているのかもしれない。それ自体はあまり好ましいことではないが、この状況では思わぬ僥倖だと言っていいだろう。


 屋敷に近付き、一階の窓から中を覗き込むと、燭台に小さな炎がいくつか揺れているのが見えた。鬼火の正体はこれだったのだ。よくあんな遠くからこの小さな光が見えたものだ、と思いながらも、キャサリンは屋敷の周囲を探索し、玄関らしき場所を見つけると、ノッカーを何度か鳴らしてみた。


 コン、コン


 静寂に包まれた森の中、木製の扉を叩く小さなノッカーの音は、世界の果てまで届きそうなほど大きく響き、キャサリンはびくりと体を震わせる。たしかに中まで届いたはずだが、待てども待てども返事はない。念のためもう一度ノッカーを鳴らしてみたが、やはり何の反応もなかった。

 どうするべきか、とキャサリンは迷ったが、不意に冷たい風が吹き付けてきて、体が大きく縮み上がった。既に体は芯まで冷え切っている。一刻も早く体を暖めたい。扉には閂がかけられておらず、軽く押してみると、キィィと気味の悪い音を立てながらゆっくりと開いた。

 屋敷の中は真っ暗で、人の気配は全く感じられない。


「もし、どなたかいらっしゃいませんか?」


 声を張り上げて呼びかけてみたが、キャサリンの声は暗闇の中に虚しく響くのみ。

 おかしい、燭台に火が灯っていたのだから、誰かいるはずなのだが――。しかし、背に腹は代えられない。悪いとは思いつつも、キャサリンはおそるおそる屋敷の中へ足を踏み入れた。


 屋敷の中は肌寒かったが、風が入らない分、外よりはいくらか楽だった。

 キャサリンが一歩踏み出す度、コツコツと足音が反響する。周囲は全く見えないものの、音の響き具合から、この屋敷の玄関ホールはかなりの広さを持っていることが推察された。

 時折躓きながらも、キャサリンは手探りで屋敷の奥へ奥へと進んでいく。しばらくすると、金属製の冷たいドアノブらしきものが手に触れた。

 生唾を飲み込み、大きく深呼吸をしてから、ドアノブを捻る。幸いにも鍵はかかっていない。キャサリンは一瞬躊躇したが、思い切って、そのままドアを押し開けた。まるで悲鳴のように不気味に鳴る蝶番。キャサリンは驚き震え上がったが、部屋の中、暗闇に浮かぶ三又の燭台と、三本の蝋燭の先に灯された三つの灯火が視界に入ると、ほっと胸を撫で下ろした。


「あ、あの……どなたかいらっしゃいませんか? 勝手に入った無礼をお許しください。でも、森の中で道に迷ってしまって、あてもなく歩いているうちに、この屋敷を見つけたので……」


 相変わらず返事はなかったが、この部屋に入った瞬間から、キャサリンは自分に向けられた何者かの視線、あるいは意識を感じていた。しかし、不思議と恐怖はなかった。それは、目の前にある灯火がもたらす安心感のためだったかもしれない。寒さと暗闇で衰弱したキャサリンの心身にとって、その小さな灯火は救いの光にも等しいものだったのだ。

 戸惑いを覚えつつも、キャサリンはそろりと燭台へと近づいて行った。


「……もし、どなたか……」


 そして、燭台のそばまで辿り着いたキャサリンは、思わず息を呑んだ。

 微かな蝋燭の明かりの中に、美しく窶れた青年の顔が浮かび上がったからである。

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