アリス・エデュケーション
吉田エン
第1話 アリス復活!
「あぁもう、汚いんだよこの研究室!」
急に叫び声を上げた新子さんに、僕はビクリと身を震わせた。
それは修士課程二年の新子さんは気分屋な所があったが、それにしても唐突だ。恐る恐る振り向いてみると、彼女の席の頭上にあった棚からファイルが崩れて、机の上がグシャグシャになっている。彼女はそれを忌々しげに片付けつつ、ギロリと僕を睨みつけた。
「先週云ったろ、矢部っち! 掃除しとけって! 何やってんだよ!」
「いやぁ」と、僕はイヤホンを外しながら答えた。「アニメ見てました」
「アタシだってアニメ見たいよ!」キーッ、と、それこそアニメのような金切り声を上げる。「でもさ、物事には優先順位があるだろ! 先ず掃除、それからアニメ。だろ!」
「いや、掃除する暇があったら輪講の準備しないと」
「おい待て。まだやってないのかよ! 明日はオマエの番だろ!」
「そうなんです。でも輪講の準備をする暇があったら、修論のプログラムのバグ、直さないと」
「じゃあ何でアニメ見てんだよ!」
「それがですね。急に何もかも嫌になってしまってですね」僕はここの所続いている憂鬱に促されるよう、大きくため息を吐いてしまった。「昨日漫画買って帰ったらですね。気付いてしまったんですよ。あ、これ読んだことないお話だ! って」
「意味わかんない。読んだことないから買ったんだろ?」
「それがですね、週刊誌は毎週買ってるんです。ですが読んでる暇がなくて積んでてですね。いつのまにか単行本に追いつかれてしまったわけです。そこでふと、何のために生きているのか、わからなくなりました。バイトとか輪講とか研究とか、そんな物に追われて、このまま僕の一生は終わってしまうのだろうかと」
新子さんもオタク気質のある人だ、それがどれだけ辛い状況か理解できたらしく、苦笑いしながら僕を見つめる。
「いやでも、掃除くらいは。しようよ」
「掃除する暇があったらバイト行きますよ! 来月、ゲーム一杯出るんでヤバイんですよ!」
「オマエこないだ、ゲーム一杯積んでるって云ってたじゃねーか!」
「ゲームだけじゃないですよ! 小説もあるし、アニメもガンダムの二期とか見れてないし。バイトとかしてる場合じゃないっすよ!」
力説する僕に、新子さんは面倒臭そうに言い放った。
「いいから掃除するぞ」
「ういっす」
仕方がなく僕は立ち上がって、新子さんがホコリに咳き込みながら片付け始めるのを手伝う。
それは世の中、好きなことだけして過ごせるワケがない。ご飯を食べて、風呂に入って、寝なければならない。そのための基盤にかかるお金は稼がなければならないし、将来楽に過ごすために勉強もしなければいけないのだから、今は我慢の時。そう思って辛抱するしかなかったが、それも新子さんがため息に続けて発した言葉に挫かれる。
「つってもさー。確かにねぇ。ウチのバイト先の社員さんなんか見てると、社会人になったからってさ、遊んでる時間があるのかっつーと、なさげだよねぇ。就職した先輩なんかも、漫画とか全然追えないっつーし。金はあるけど休めないって」
「程々に稼いで、遊ぶとか出来ないんすかねぇ」
「そうもいかないみたいだねぇ。バリバリ働かないとクビになっちゃうし、程々のラインで程々稼ぐのが一番難しいとか」
暗い口調で云っていた新子さんは、ふとダンボールの中を片付ける手を止め、目を輝かせながら振り向いた。
「おい矢部っち! 見ろよこれ!」
彼女が手でヒラヒラさせているのは、何か厚紙のような物体。
「なんすか、これ」
「5インチのフロッピーディスクだよ! こっちは3.5インチだ!」
ははぁ、と呟きながら手に取る。情報の授業で習ったことがある。パソコンの記憶デバイスとしては、太古の化石のような代物だ。
「1.2MB? 画像一枚も入んねーすね。てか」と、何か薄くラベルに書かれているのに気づいて、目を凝らす。「なんだろ。何か書いてあるっすよ。〈ALICE 3/20〉」
「アリス? なんかの昔のエロゲかね」新子さんはフロッピーの入っていた箱を改め、そこから一枚の紙を探り当てた。「お、何じゃこりゃ。ちょいちょい、矢部っち、何か書いてあるぜ」
「何すか?」
「えっと。〈超重要、未来の後輩へ〉。なんじゃこりゃ。タイムカプセルか?」
新子さんの後ろに回って、その多少劣化している紙を眺める。
どうやらそのメッセージは、この研究室。とはいっても教官も今とは違うが、二十年ほど前の先輩が残した物らしい。照沼という当時博士課程の人で、何か凄いプログラムを作ったけれども、当時のコンピュータでは満足に稼働させられないから、どうか後年、これを最新のコンピュータで稼働させてもらいたいという事が書かれている。
僕は新子さんと顔を見合わせ、互いに首を傾げる。
「ふぅむ?」と、新子さんはメッセージを再び改める。「何か筆跡からして、何か凄い真に迫ってるけど。何じゃろな、これ」
「何かキモいっすね。死にそうだから後は託す、みたいなこと書いてますけど」
そう、この照沼という人物は、何か重病を患っていたらしい。それで将来を見届けられないとか何とか。
しかしホントに、こんな人が学校にいたんだろうか。そう考えた僕と新子さんは、大学付属図書館データベースに繋いで探る。すると確かに照沼という人が、僕らの知識情報工学部に所属していた事がわかる。けれども卒業した形跡はなく、在学中に病死した事は確からしい。
ふむ、と僕と新子さんは唸って、ALICE、と記されたフロッピーの束を眺めた。不気味は不気味だが、興味深いのも確かだ。
「ちょっと、やってみるか」と、新子さんは立ち上がって、片付け途中のガラクタの山に向かった。「これじゃろ? 5インチのドライブ。動くんかね?」
「つか、何バイナリすかねこれ。UNIX?」
二十年も前の代物だ、読み取り装置があっても今のOSじゃあドライバーがないし、ドライバーがあっても中に入っているデータ形式によっては、それを読み取れない。小一時間ほど僕と新子さん二人で頑張ってみたが、とても埒があかないと諦め、ネットの力を借りることにした。
『暇人集合! このフロッピーの中身を確かめたいんだけど』
そんな呟きを新子さんがTwitterに載せると、懐古趣味なオジサンオバサンたちが一斉に集まってきた。
『とりあえず5インチのドライブがあるなら、98エミュレータにパススルーしてあげれば認識されるんじゃない?』
『でも研究室のプログラムでしょ? 98かなぁ。二十年前ならSolarisとかSunOS全盛期でしょ?』
『SolarisならUFSか。まずDOSかUFSかを判別しなきゃだけど、どっちでもSolarisなら読めるから』
『Linuxなら今でも古いドライバ動くから、LinuxのVM作ってそこで認識させれば、あとはどうにでもなるんじゃ? Solarisバイナリもエミュレータ噛ませば動くだろうし』
だんだん難易度が高くなってきて、僕と新子さんも彼らへの対応が辛くなってくる。とにかく研究室で使ってるUbuntuでも読めそうだということ、それに5インチのフロッピードライブは今でもUSB接続なのが売ってるとのことで、環境的には何とかなりそうだというのがわかる。
「矢部っち、ヨドバシダッシュだ! まだ開いてる! ウチはUbuntuのVM作っとくから!」
「ういっす」
なんだかだんだん大事になってきた。移動しながら該当スレッドを眺めていても、勢いが衰える気配がない。
5インチフロッピー・ドライブを確保して研究室に戻ってくると、新子さんが作成していた仮想マシンに繋ぎこむ。そして問題のフロッピー、Aliceを1/20から差し込んでみると、ドライブはジーガチャガチャっと今の機器類では発しない類の派手な音を立て、データを認識する。
「えっと、/mnt/fdにmountして。cdして、中身はっと」ネット上のオジサンたちに教えてもらったコマンドを叩くと、さらりと内部にあるファイルが出てくる。「ふむ? 〈alice-1.0.0.tar.gz.aa〉。何の拡張子これ?」
これもネットオジサンたちに尋ねてみる。今度はなかなか回答がなかったが、ようやく詳しそうな人が現れて助言してくれる。UNIXで用いられていたファイル分割方式らしく、とりあえずフロッピーの中身を全部HDDにコピーして、それから結合させれば良いとのことだった。
僕も新子さんもイマイチ理解出来ていなかったが、それでも云われたとおりフロッピーの中身を全部展開しようとする。しかしフロッピーというのはたかだか1MBをコピーするのにも酷い時間がかかって、一枚あたり数分かかる。
ジー、カッカッカ、という独特の音を聞きつつ、新子さんはため息混じりに云う。
「二十年前かぁ。その頃はもっと、時間の流れがゆっくりだったんだろうねぇ」
それはそうだ、今では1MBなんて、一瞬でネットからダウンロードされ、携帯やUSBにコピー出来てしまう。
ようやく全てのファイルを展開し終え、結合コマンドを叩くと、一つの20MBほどのファイルが出来る。これも圧縮された状態だ、更に解凍展開のコマンドを叩くと、またたく間に数百のファイルが生成されていった。
「exeとかないねぇ」一通り眺め、新子さんは首を傾げる。「プログラム・ソースか。どうやってコンパイルするんじゃろ」
新子さんは研究で使い慣れたコンパイル手法を幾つか試してみたが、まるで規格が違いそうだった。
ここからもまたネットオジサンたちの力を借りることになったが、かなり特殊なソースコードらしく、有力な情報が出てこない。数時間して、どうやらDEC Alphaという聞いたこともないアーキテクチャの、Tru64 UNOXというOSで動いていたプログラムらしいことまで判明したが、その環境をどうやって確保したらいいのかで、また行き詰まってしまった。
事が打開したのは、どこぞのコンピュータ・エンジニアらしいオジサンが、Tru64プログラムを今のLinuxで動かすためのコンバーターを探り当ててくれてからだ。しかし彼本人も使ったことがないコンバーターだということで、LINEで直接コンタクトを取らせてもらいつつ、部分的にソースコードの修正を行い、アングラっぽいサイトから適合するライブラリを探し出し、ようやく幾つかのワーニングが出るだけでコンパイルが完走した。
「で、出来たあああ!」新子さんは叫び、両腕を天に突き出す。「つか、ウチら何やってんだ。もう朝じゃんね」
午前四時。朝と云っていい時間だ。
「またアニメ見逃した。せっかく録画追いついてたのに」
あくびを噛み殺しながら云った僕の肩を、新子さんがパチンと叩く。
「しゃーないじゃろ! なんか百人くらいフォロー増えて結果待ってるんだからみんな!」二十年前の病死した研究生の遺作。そのシチュエーションからか、何か注目を集めてしまっているのは確かだ。「もう、照沼ちゃんよ。これでALICEが自作同人エロゲーとかだったら、許さんぞ!」
そして新子さんはALICEの実行プログラムを、パチンと実行させる。
コンソールはカクンと停止したまま、何の応答もない。
「ん。動いてないんすかね」
云った僕に、新子さんは別のコンソールを開き、CPU使用率を確かめた。
「何か動いてはいるけどなぁ」そこでコンソールに、さらりとメッセージが流れた。「ん。初期化中? 結構かかりそうじゃなこれ」
僕と新子さんは数分そのバーを眺めていたが、なかなか伸びていかない。さすがに明日のことを考えると、そろそろ寝ないと不味い。そう考えて、新子さんはネットオジサンたちに一つのメッセージを発し、撤収することにした。
『お付き合い頂き、大変ありがとうございます。ただいまプログラムが初期化中とかで、結構時間がかかりそうです。また結果が出たらご報告します』
丁寧にスクリーンショットを貼り付ける。この辺、新子さんはネット弁慶ならぬ、ネット内弁慶だ。
結局、輪講の準備も、卒研のバグ取りも、バイトもアニメ消化も何も出来なかった。どうしてこう世の中には誘惑が多いのだろう。とにかく僕は翌日の昼前に起き出して、夕方からの輪講までに多少無駄なあがきをしようと、半分寝たまま研究室に向かう。
と、携帯に新子さんからLINEメッセージが入っていた。
『無理! 二度寝する! 輪講ブッチするから、センセーによろしくな!』
相変わらずフリーダムな人だ。
僕も慣れたもので、ぼやく気も起きない。盛大に欠伸をしながら研究棟の廊下を歩き、研究室の鍵を開け、自分の席にドスンと座る。そして意識がはっきりしないまま目の前のコンソールを眺めていて、ふと気づいた。
ALICEの初期化が終わりかけている。99%。
さすがに僕は輪講の事も忘れてしまい、ジリジリと伸び続けるバーを凝視する。
そしてそれが遂に100%に到達した時、矢継ぎ早にシステムメッセージらしきものがコンソールに流れ、最後にポコンと、新しい画面が開いた。
アニメ絵だ。ALICEといえば不思議の国のアリスだ、あの金髪で青いエプロンドレスを着た女の子が床で眠り込んでいる。それが不意に身じろぎすると、半身を起こし、目を擦り、大きく欠伸をして、僕に目を向けた。
「なんかのアクセサリ・プログラムか?」
どうもそうらしい。マウスを追いかけるとか、時間を知らせるとか、そんな類のアクセサリ・プログラム。しかし今では3DCGが殆どだというのにこれはドット絵だし、絵柄も古い。明らかに九十年代だ。
「んー、何か出来るんかなこれ。絵が動くだけ?」
少し拍子抜けしつつ、未だに眠たげな女の子をマウスでカチカチ叩いてみる。すると女の子は不意に大きく目を見開き、声を発した。
『おはよう、私はアリス! 貴方は?』
「え。えーっと」
名前を登録するのだろうか。そう思ってキーボードに手を載せて名前を考えていると、アリスは思いがけない事を云った。
『見たことないけど。テルちゃんの友だち?』
「テルちゃん? 照沼さんのことか?」
このアリスの製作者、照沼という故人。それを漠然と呟くと、彼女はフンフンと頷いた。
『そうそう。って』と、不意に何か気づいたように、慌てて辺りを見渡した。『ここ何処? 前のお家じゃない! 何か色々早いんだけど!』
どうやらこのアリスは、人工知能らしい。マイクロソフトのりんなとか、アップルのSiriとか、その類の。
とにかく僕はアリスに、彼女の置かれた状況を説明していった。驚いた事に彼女はその全てを正確に理解し、照沼さんが亡くなっている事を聞くと、悲しげに肩を落として見せたりした。
『そっか、やっぱり亡くなっちゃったのか。私も何とかテルちゃんの暇を作ろうと頑張ったんだけど、頭の回転が鈍くてさ、全然何も出来なかった』そこで彼女は不意に胸を張り、眼光鋭く笑みを浮かべた。『でも! 凄いね二十年って! この環境なら私、全力でテルちゃんから与えられた任務を全う出来るよ!』
「任務?」と、僕は首を傾げた。「オマエって、何か任務があるの?」
『そう! 私を作ってくれたテルちゃんのためにも!』
アリスはぐっと力を溜めて、拳を宙に突き出した。
『私は必ず、人類を堕落させるわ!』
「人類を、堕落させる?」人類を絶滅させるという人工知能は良く映画で見るが、堕落させると宣言する人工知能なんて。聞いたことない。「待って。それってどういうこと?」
『だ・か・ら! テルちゃんはね、可哀想に。色々やりたいことがあったのに、研究だバイトだで。全然時間が取れなかったの。アニメも全然追えてなかったし、コンプティークやウォーロックも未読のまま山積みだったし、テレホーダイの時間でも全然niftyサーブ行けなかったし。だからテルちゃん、少しでも暇を作ろうと、私を作ったの!』
「へ、へぇ」
何だか色々、知識が古い。それでもどうやら照沼さんというのは、二十年前にして既に、僕や新子さんと同じような立場にあったのだけはわかる。
『そう、人類は頑張りすぎ! もっと遊ばないと駄目よ! ってことで、私、テルちゃんの意志を継いで、これからバリバリ人類を堕落させちゃうんだから!』と、彼女は僕に目を向けて、首を傾げた。『で? アンタ誰?』
「オレ? オレ矢部」
『そう。矢部っち。何か困ってることある? なんでもするよ?』
「えーっと」そう急に云われても。「なんでも? 今日輪講あるんだけど、全然準備出来てないんだけど」
『ふぅん。輪講ね。課題は何?』
「地上から打ち上げられる推力の違う二つのロケットが、三分後にどの高度にあるのかを相対的に現す数式を立てて発表しろって」
高度な人工知能っぽいが、こんな込み入った課題をこなせるはずがない。
そう思いはしたが、とりあえず云ってみると、彼女は得意げにフンフンと頷いて、ぱっと笑顔を弾けさせた。
『任せて! ざっと調べちゃうから。で』と、辺りを見渡す。『ネットスケープのバイナリが入ってないけど、インストールしていい?』
「ネットスケープ?」
『そそ。今でもあるでしょ? それでAltaVistaで検索すんの。凄いよね検索エンジンって。ちょっと調べるテクニックいるけど、何でも出てくんの!』
アリスは凄い人工知能かもしれなかったが、その基本知識はどうやら、九十年代のままらしかった。
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