第14話 どうも、ためになるお話を教えてもらいました、犬君です。
「残念とおっしゃられても困りますね」
私は心底そう思います。だってもともと興味のなかった物、いきなり目覚めるなんてどうしたって無理です。
違いますか。
しかし蛍帥宮様は私の頬をつねったまま、また至極残念そうにおっしゃいます。
「犬君は視線は悪くないのですよ。見え過ぎている気がするくらいの物を見ている。と言うのにそれが何一つ和歌に生かされないのがもったいない。君は大体どうしてこう、和歌の作法を吹き飛ばす変な物を作る才能しかないんだ」
「基本的に和歌に触れる機会が、幼いころからあまりなかったことが原因かと」
「庶民でも和歌くらいは触れるというのに。伊勢物語を知らないのか」
「あー」
私は記憶を引っ張り出します。伊勢物語、と言われて思い出すのではなく、もっと断片的ならわかるんですが。
「筒井筒とかのあれで、すかね」
「おや、知っていた」
「それがどうしたんです」
「貴族でなくても和歌を送りあい、恋の歌を送りあうというのに、君は触れなかったという、その原因が知りたくて」
「あれですね、山狗に育てられていたからでしょう」
蛍帥宮さまが、目を見開きました。おや、ここは誰も聞いていないのですか。
秘密にもしていない事なのですが。というか姫様が藤壺様達に教えてしまったので、もう隠す相手がいないと思っていたというのに。
「山狗に?」
「はい、どうにも村が流行り病で滅びた際に、私一人生き残り、山狗の母に育てられる事になった次第でして。こう見えても私、動くのは得意なのですよ」
「犬君は物の怪の類ではないのだろうな」
「たとえ物の怪であったとしても、姫様を幸せにすると言う私の目標に、曇りの一点もありませんので」
顔半分を隠し、じっと彼を見つめて言うと、彼は不意に顔をそらした。
「犬君、それはよろしくない作法だ」
「はい?」
「男性とまっすぐに見つめあうのは、いらない勘違いを起こす原因ですよ。下手な男を寄り付かせたくないのならば、そんな事をするのはよくない」
「ああ、ありがとうございます。いかんせん男性の殆どいない家で、姫様の遊び相手をしていたので。そのあたりはあまりわからないのですよ」
現代日本で目を見ないとか、やらないですからね。
少し視線を首元にやり、お礼を言うと帥宮様が言います。
「では少し、暇つぶしを語り合いませんか」
「暇つぶしを? 先生は何を教えてくださいますか」
暇つぶしがただの、下世話な話になるとは思わなかったので、ちょっと食いつきます。
私はまだまだ眠らないと思っていたので。
それに、このあたりにいれば、屑が藤壺様を襲いに来たとしても、迎撃可能なわけでして。
信用が一切ないと言いたいのなら言いなさい、あの野郎は大変に危険ですから。
「そうですね、君の参考になると思いますので、男性が女性に言い寄っていく過程など」
「それはすばらしい」
そんな物を男性側から聞く機会など、滅多にない事。これは聞く価値があります。
やや身を乗り出し、私は言います。
「今後の姫様のためにぜひ。そんなお話を男性が、わざわざおっしゃることはありませんもの」
「君の姫様に対する忠誠心は、本当にどこまであるのやら」
蛍帥宮さまが咳ばらいを一つして、語り始めます。
「上の方の身分になると、大概元服の際に妻が決まりますね。これは家のつり合いや勢力図などが大きく影響しますし、この妻が妻と呼ぶべき存在になります。この妻と離縁する場合、いくつかの理由がなければいけません。それは律令などに書かれていて、犬君は知らないでしょう」
「はい、知りません。ただ通わなくなるだけでは駄目なんですか」
「駄目ですよ。通わなくなっても書類上はその妻こそが正しい妻なのですからね」
現代と似ていますね。
「そして元服と同時に妻が決まってしまうので、恋をするのはその後の、通いどころとのことになります。つま、通いどころ、言い方は様々ですが、端的に言うと愛人でしかありません。通う回数によって、正妻が入れ替わるという事はありません」
ああ、私が屑に要求した、全員と手を切れって、私を正妻にしろっていう脅しになったんですね。
屑がその後、こっちに来なくなったのは自然な流れかもしれません。
屑を気にかけてくれている、左大臣の方と縁を切れと脅したという流れですからね。
おまけに正妻たる葵上さまとは、そう簡単に離縁できないとなれば。
あきらめたのですかね。
ふふ、いい気味です。私のような凡庸な女に、無茶を言われてどうにもできないでいるなんて。
私は性格が悪いんです。屑に対しては特に!
「三日通って。三日夜の餅と言う作法をするのは正しい作法ですが、やったから正妻である、と言うのは間違いなんですよ」
そこは知ってますね、なんかの本に書いてありました。だから姫様は、三日夜の餅を食べても、最愛の妾という立場のままで最後、苦しむんですからね!
その未来を回避するべく、奔走しているが犬君なのですよ。
「恋の歌を取り交わすのは、愛人として。と言うのが上位貴族の在り方です。しかしだから日陰者、というのは言い過ぎでして、大体の人が愛人として認めている風潮ですね。正妻の方が怒りで圧力をかけることもざらですが」
「……では一つ、今のお話で気になったので聞いてもよろしいですか、蛍帥宮様は最初、私を愛人にしたかったんですか」
この言葉は、蛍帥宮様が私なんかに、和歌を送ってきた事実があるので気になった事です。
この人、いま、自分も愛人にしたいと思ったとぶっちゃけませんでしたかね。
彼は目を細めました。測る瞳で。私を判別しようという瞳で。
「私が妻を早くになくし、独り身と言うのは知らなかったのですか」
その後気になった女性は、ことごとく兄上に持っていかれたと呟く彼。
「それは、失礼いたしました。では、政治的な力を何も持っていないこんな、凡庸な女を、正妻にしたいと思ったのですか」
「そこまで言えると言う時点で、何か間違いのような気がして来るのだが」
眉間に指をあて、頭が痛いという顔をした彼が、不意に笑いました。
「あなたはどこまでも愚かなのかもしれませんね、犬君。一つしか欲しくない。一つしか望まない。それ以外はいらない。自分の幸せだっていらない」
「姫様の幸せを見届けなければ、ここまで姫様を引っ張ってきた意味がありませんので」
断言すると、彼が顔を覆った。
「人生の楽しみを、女房と言う立場なのに半分以上いらないなんて」
「女房のあり方は人それぞれという事でしょう。蛍帥宮様、男性が女性に言い寄る過程はいつ出てくるんですか。今のお話が前提条件だというのはわかりましたけれど」
そう、さっきから帥宮さまは、非常にためになるお話をしているけれども、一番初めに言った事は話していません。
「前提を知らなさそうだったので、まず言っておかなければと思ったんですよ。さて。
男性は、噂話をよく聞きます。それから、方違えなどで訪れた屋敷などで、そこの女房にその家の姫の話を聞いたり、働きに出ている女性から、美しい姫君の話を聞いたりして、想像を膨らませます。
そして素晴らしいと思ったら、手紙を送るわけです。
この時点ですでに正妻もちなので、愛人としてですね。
それでも、心無い女房などの手引きで運悪く、男を通わせると言った事も出てきます。
男に正妻がいない場合は、正式な結婚ができるから、親が仲人になり、結婚する事もあります。
また、後ろ盾が何もない状態の女性の方が、そういう事になりやすいのも事実ですね」
簡単に言えば、噂で恋してアプローチして、親が納得したら結婚、と言う流れですかね。
「正式じゃなくても、親が認めたらいいんですか」
「親に認められない結婚の方が、世間の風当たりが強いんですよ」
なるほど。
「親が認めた事ならば仕方がない、と言うのも強いですね。その点犬君は驚きですよ。帝の許しを蹴飛ばして、愛人なんて嫌だと兄上を突っぱねたのですから」
「……あの時、異常な事があったんです」
それ以上は言わなかった。藤壺様に言い寄ろうとして、強硬手段をとろうとした屑はどうでもいいが、藤壺様に傷がつくのは避けたかったので。
その後いろいろ、知っておいて損はない話をお喋りしてくれた帥宮様は、私に言います。
「また和歌の添削は、容赦なく続けますよ、きっとやる気になった犬君は、伸びますからね」
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