空の写真とブリリアントガール

くりはらまさき

第1話 それはキャバクラから始まる

「エリカちゃん。お客様でーす。」


 黒服の呼ぶ声がする。

 エリカと呼ばれて一瞬自分とはわからなかった。この店に入ってからまだ3日目だ。自分の本名の音羽亜莉沙でないキャストネームで呼ばれることには、まだ慣れていない。


「はあぃ。」


 明るい声でキャストネーム、エリカこと亜莉沙は答える。

 キャバクラで働くことは初めてではない。正規のキャストとして店に出たことはあまりないのだが、これまで体験入店として単発で何度もキャバクラでバイトしたことはある。

 なのでキャバクラのシステムもよくわかっている。

 今呼ばれた呼び方は、客に指名されたわけではない呼び方だ。もっとも店に出始めて3日で指名があることなど、まず無いのだが。

 亜莉沙はミニにしたスカートをひらひらさせながら、スタッフルームを出た。

 亜莉沙は店に出る時は、思いっきりスカートを短くする。スカートが短い子が必ずしも店で人気が出るという訳ではないが、それでもキャバクラにやってくる男たちには、ミニスカートの子のほうが受けがいい。

 これまでのキャバクラバイトの経験で、そのことはよくわかっていた。


 この店は、地下1階と1階に分かれている。店は地下1階の部分にあって、スタッフルームやキッチンが1階にある。

 亜莉沙は短いスカートを翻しながら、地下1階への階段を降りる。

 この階段は、黒服たちがシンデレラ階段と呼ぶ階段で、これを降りながら店のほぼ全体を見渡せるようになっている。

 つまりは、店にいるほとんどの客たちから、階段を降りてくる女の子たちが見えるようになっている。

 亜莉沙がシンデレラ階段を降りていくと、店のほとんどの客たちが下から見上げてくる。粘りつくような視線が、亜莉沙のスカートの中に差し込まれてくる。

 この男たちの視線をを気持ち悪いと感じたのは、キャバクラの体験入店を始めた頃だけだった。

 今では、階段の下から見上げられる視線を、快感とすら感じるようになった亜莉沙がいる。


 階段の下では黒服が待っていた。


「向こうの席。B3。禿げてるネクタイの人。」


 小声で黒服はささやいた。


「ありがとうございます。」


 亜莉沙は丁寧に答える。

 キャバクラとはそういうものだ。黒服に威張れるのは、指名がどんどん入って、店の売れっ子になってからだ。

 入店3日目の亜莉沙は、黒服たちには下手に出なければならない立場なのだ。


「お隣。よろしいですか。」


 亜莉沙は丁寧な言葉づかいで、その禿げたネクタイの男に声をかけた。

 歳は50歳代くらいか。典型的なサラリーマンタイプ。紺の背広にネクタイを少し緩めている。

 この店では珍しいタイプの客ではない。


「ああ。いいよ。」


 客はちょっとおどおどしている。この手の店には慣れていないのかもしれない。それは、こんな店に来てもネクタイを外さないその姿からも想像できる。


「お店、よく来るんですか。」


「いや。2回目だよ。女子大生が多い店だと言うんで、前は同僚に連れられて来たんだ。

 それで、今日は独りでね・・・。」


 つまり一回来て、エロティックな女子大生たちの雰囲気にはまってしまい、またやって来たというわけだ。

 うまくいけば、次は指名がとれるかもしれない。カモれる客かもしれない。


「お名前伺ってもよろしいですか。」


「ああ、えっと田中。」


本名かどうかはわからない。もっとも店では客の本名などどうでもいい。


「田中さんですか。私、エリカです。よろしく。」


 亜莉沙と会話したせいなのか、田中はおどおどした感じが、少し取れてきたようだ。


「エリカちゃんか。なんか話し方が綺麗だね。すごく上品っていうか。」


「そうですか。いつもこんな感じで話してるんですけど。」


 それは本当だ。大学ではいつも丁寧な話し方をする子で通っている。


「お嬢様なんだね。大学生なんだろ。」


「ええ、そうですよ。」


「どこの大学?」


 エリカこと亜莉沙は少し困ったような顔をする。


「えっとそれは・・・。」


「ああ、ごめんね。こういう店で聞いても教えてくれないよね。」


 田中はそれで納得したようだった。


「御免なさい。せっかく興味を持っていただいたのに。」


 亜莉沙は心底すまなそうな顔をする。当然のことだが、済まないなどと思っていないのは心底その通りである。

 キャバクラのような店で、プライベートを聞かないのはマナーだ。それを知らない田中は、あまり遊び慣れていないのだろう。


 しばらく、亜莉沙と田中はたいして内容の無い会話をした。

 50歳代の男性客にはよくあることだが、会話はだんだん田中の仕事の愚痴に変わっていった。亜莉沙は全く興味は無いのだが、相手の目をまっすぐに見て、さも同情するように相槌を打って見せる。

 しばらくして田中のハイボールが無くなった。

 亜莉沙は「ハイボールでいいですか。」と田中に聞いて、田中がうなずいてから黒服に酒を頼んだ。

 田中のハイボールが運ばれて来ると、亜莉沙は丁寧にグラスの底をハンカチで拭きながら、横目でウインクするように田中を見ながら、ささやくように言う。


「田中さん、いい人だから特別に私の大学教えます。乃木坂女子大学です。」


「えっ、あの名門女子大の。本当?」


 亜莉沙はこっくりとうなずく。

 もちん嘘だ。


「すごいね。あんなお嬢様ぞろいの大学の子と出会えるなんで・・・。」


 田中は満足しているようだ。

 落とせたかな・・・

 亜莉沙はそう思う。亜莉沙のキャバクラ経験からは、そこまで男性客の心理は読めない。

 とはいえ、自分にだけプライベートな情報を教えてくれたと、客に信じ込ませることは、次に指名を取る大きなポイントになることはわかっている。

 田中はエリカこと亜莉沙がプライベートな情報を教えてくれたと、そう信じている。次の来店では、指名が取れそうな手ごたえはある。


 田中はにやにやしながら乃木坂女子大学の話をはじめた。少し酔いが回ったのか、口が軽くなっていた。

 自分が大学生の頃は、憧れの女子大だった。乃木坂女子大学の彼女が欲しかった。そうでなくても合コンだけでもしたかったのだが、それもかなわなかった。

 田中は饒舌になっていた。


「お見合いでは、乃木坂女子大学出身というのは、すごくポイント高かったんだよ…。

 ああでも、今の子はお見合いなんかしないんだよね。みんな合コンとか出会いパーティとか、そういうのなんだろう。」


「そんなこと無いですよ。お見合いしますよ。」


「へえ、本当? そんなことあるの。」


 だって明日お見合いするんだもん。

 亜莉沙は声に出さず心の中でそう答えていた。

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