第93話 前準備

「すでに噂を聞いている人がいるかも知れませんが」

 その日も例によってお昼の休憩を挟んで午前に一回、午後に一回の計二回ほど迷宮に入り、ロビーに出たところで松風先輩が一年生に告げた。

「〈白金台迷宮〉で特殊階層が見つかりました。

 なんでも攻略をするのに人数がまとまった必要となる階層とのことで、城南大学のふかけんというサークルが発見したのですが、そちらからの要請でうちからも希望者を募って攻略に協力しようということになっています。

 具体的な日時など、詳細についてはもう部のSNSにアップしてあるはずなので、そちらを見て参加の検討と意思表明をしてください。

 参加は自由で、自分の意思で参加しなくても別に問題はありません。

 ただ、主催者であるふかけんから参加者全員にバーベキューが振る舞われることになっているそうで、こちらは食べ放題だそうです」

 おお、と一年生から歓声があがった。

 育ち盛りのこの年代にとって、

「食べ放題」

 とはかなり魅惑的な言葉なのだ。

「ああ、それから」

 松風先輩は、そうつけ加える。

「当日は、できれば水着も用意しておくように」

 ん?

 と、一年生全員が怪訝な表情になる。

「なんで水着が必要なんですか?」

 一年生を代表して、香椎さんがそう訊いた。

「必要になるからだよ」

 松風先輩の返答は極めて明瞭だった。

「その特殊階層は、砂浜なんだそうだ」


 一年生たちはすぐに水着を買いに行こう、ということになった。

 松濤女子にはプールがなく、体育の授業に水泳は取り入れられていない。

 ついでにいうと、水泳部もない。

 仮に水泳の授業があったとしても、智香子たち一年生としてはスクール水着で砂浜に出て遊ぶつもりはなかった。

 松濤女子に通っている子は比較的裕福な家庭の子が多いので、その場で水着を購入する程度の現金を持ち歩いている子も多かった。

 智香子自身はその中には含まれていなかったが、母の多紀にメールで事情を説明して相談をした上で、

「そういうことなら」

 と許可を受けてATMで必要な予算を降ろしている。

 迷宮が入っているビルにも水着をはじめとするスポーツ用の衣料を扱っているテナントは入っていたし、最寄り駅である渋谷周辺でも水着を扱っている店はいくつかあった。

 いつもならばシャワーを浴びた後も冷房の効いた空き教室でいつまでもだらだらと過ごすことが多いのだが、この日ばかりは手早く着替えを済ませて準備を整え、全員でまずは迷宮ビルの中にあるスポーツ用品店へと向かう。

 渡り廊下から迷宮前のロビーを抜けてエスカレーターで階上のフロアへと移動し、すぐに目当ての売り場まで到着した。

 なにより、まだまだ日が高いこの時刻、暑い中を歩き回らずに済むというのがありがたい。

 智香子はこの売り場まで実際に足を運んだのはこれがはじめてだったが、想像していたよりもずっと広い売り場だった。

 夏だから、ということもあるのだろう。

 女性物の水着だけでもかなりの種類を扱っているようだった。

 一年生たちはその広い売り場で適当に散って、購入するべき水着を真剣に吟味しはじめる。

 ただでさえファッション関係の買い物は長引く傾向があるのだが、物が水着となると体型その他がもろに出る代物であるので、選び終えるまでにいつも以上の時間が必要になりそうだった。

 人数が多いこともあり、売り場に着いてからは自然とばらけてしまったが、智香子と黎はいっしょに水着を見て回った。

 何度か試着をして吟味した上で、智香子はイエローを基調としたワンピースの水着を、黎はビキニというほどには布地を節約していない、紺色のセパレートの水着を購入する。

 背が低く幼児体型な智香子はともかく、背はさほど高くないもののスレンダーな体型の黎には、そういうシンプルな水着の方がよく似合う。

 智香子は自分でも、

「迷宮に入りに行くことをこんなに楽しみにしてもいいのかなー」

 と思うほどに浮かれていたことを自覚していたが、考えてみればこの夏休みは自宅にいるか部活をしているかのどちらかであり、いずれにせよ遊びらしい遊びをまったくやっていない。

 それを考慮すれば、ここで少しくらい楽しんでも罰は当たらないだろうと、すぐにそう結論をした。

 それに、今回の特殊階層攻略には、かなりの人数が集められるらしい。

 そのほとんどは探索者として智香子などとは比べものにならないキャリアを持つ熟練者であるはずで、智香子たち一年生のリスクは限りなく低いはずでもあった。

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