第21話 VS河童③
「ひっ人が……! 溺れて……!」
「なんだありゃあ……!」
「オォイ! 誰かあ! 湖で人が溺れてるぞォ!!」
叫び声は湖に面した部屋から次々と上がった。
零時を回り、既に消されていた明かりが再び灯される。窓から顔を覗かせ、緊迫した表情で湖の方角を指差す人々。彼らの視線の先には、広い湖の真ん中に浮かぶ小さなボートと、その横でもがく人影のようなものが写っていた。
ボートから転落し、溺れてしまったのだろうか。
暗くてよく見えないが、湖の中心部で、誰かが必死に腕をバタつかせ悲鳴を上げている。櫻子は飛び起きると、急いでガラス窓を開け暗闇に目を凝らした。
「大変だ! 助けを呼ばなくちゃ……!」
隣の部屋で、騒ぎに気づいた坂本が慌ててどこかに電話をかけ始めた。
(不味い……!)
一刻を争う事態だった。櫻子は心の中でそう呟き、唇を噛んだ。
あまりにも人の目がありすぎる。誰にも見られていないのであれば、翼を広げ空を飛び助けに行くこともできるのだが、そうすれば大勢の人の前で姿を晒すことになる。時間はかかるが、ボートを漕いで湖の中心まで助けに行くしかなかった。だがそれだと、間に合うかどうか……助けられるのにそれが出来ないもどかしさに、彼女は拳の中で爪を突き立てた。
「今行くぞ!」
「!」
眼下で、ようやく岸に辿り着いた人々が中心部に向けてボートを漕ぎ出すのが見えた。宿の壁際の部屋のあちこちから、懐中電灯の光線が湖の中心部に向かって伸びて行った。だがその間にも、溺れている人はどんどんと動きが鈍くなり、底に沈んで行くように見えた。美命が窓から身を乗り出して叫んだ。
「あれは何!?」
櫻子は目を見開いた。彼女が指差した先には、中心部に向かって猛スピードで突き進む白い波があった。水面を切り裂いて、まるで魚が泳いでいるように真っ直ぐ溺れている者に近づいて行く。その白い波の影はあっという間に沖から救助に向かっていたボートを追い抜いた。
「なんだありゃあ……!?」
「魚……!?」
その影に気づいた人々から、次々にどよめきが館内に広まって行く。誰もがその正体を掴めないでいる中、櫻子だけは水中を高速で泳ぐ影に心当たりがあった。あれは、まさか……。
「……!」
やがて”影”は、溺れている人影にまで辿り着いた。影は一度水中に沈んだかと思うと、しばらくして水面にボコボコと大きな泡が湧き上がった。その間、誰もが固唾を飲んで様子を伺っていた。やがて影は軽々と溺れた者を持ち上げたかと思うと、彼をボートに押し戻し、今度は来た方角とは逆側に向かって猛スピードで湖を横切って行った。
「!」
誰かが息を飲む音が聞こえた気がした。暗がりでまだよく見えないが、ボートに戻された男は既にピクリとも動く気配がなく、まるで死んでいるかのように見えた。さらに……。
「ぎゃああああ!!」
今度は救助に向かっていたボートに乗る者から、恐怖に引きつる男の叫び声が聞こえてきた。彼は湖の中心に一番近い位置で、先ほどの一部始終を間近で見ていた。
「か……河童だああああ!!」
動転した男の叫び声が、湖から宿まで木霊のように響き渡った。
「河童……?」
「河童って!?」
「一体何のことだ……!?」
「…………!」
ざわざわと、宿の中に動揺が広がっていく。
見られた。櫻子は窓枠に手をかけたまま固まった。やはり先ほどの影は、川流だったのだ。そして、その姿を救助に向かっていた者に、見られてしまった……。
恐れていた事態に、櫻子は心臓を掴まれたようにその場に立ち尽くし、しばらく動けなかった。
□□□
「……被害者は里中敬三、五十六歳。宿泊客の一人で、同行していた奥さんには『用事があるから』と言って出かけていた。犯人は……」
「なんてこった……」
強面の警部が状況をまとめる横で、坂本が苦虫を噛んだような顔で声を絞り出した。
「この湖に、まさか河童が住んでいたなんて……!」
「この現実に河童なんているか。犯人は、田中
「でも、おかしいですよね。なぜ犯人はわざわざ目立つような場所で、そんな派手な殺し方をしたのでしょうか?」
坂本の問いに、警部は肩をすくめた。
「フン。大方陳腐なアリバイトリックでも考えていたのだろうさ。事実、宿直の女性アルバイトから、事件発生直前まで容疑者と話していたという証言が取れている。それでアリバイが成立すると見越してたんだろう。しかし、現代科学捜査を舐めたらいかん。DNA鑑定で、彼の体液や指紋がバッチリ被害者に付着している」
「なるほど。事件発生時に、被害者と一緒にボートに乗っていた犯人が、同じ時間に宿に姿を現すアリバイトリックですか。僕は、彼が本当に河童で、湖を突っ切って行ったって言うのが正解だと思いますが……」
「馬鹿野郎。河童がいましたなんて、そんな科学捜査がどこにある。証拠がばっちり上がっている以上、後でいくらでも吐かせてやるさ。奴さんも、すんなり自分が犯人だって自供してるしな……」
坂本の
□□□
「田中さん!」
暗く細い廊下を、殺人犯として逮捕された川流が警官に引き連れて歩いている。後ろから呼びかけられ二人が振り向くと、声がした方とは逆側から煙のように姿を現した櫻子が、即座に警官の後頭部をぶん殴り気絶させた。
「櫻子君……!」
彼女の足元に、意識を失った警官が二人転がった。その俊敏な動きには一切動じることなく、川流は現れた少女の姿に目を丸くした。
「一体どうして……?」
「それはこっちの台詞っスよ!」
櫻子は肩を怒らせながら川流に歩み寄った。彼の手には、銀色に光る手錠がかけられていた。
「どうしてみすみす逮捕なんかされるんですか!? 貴方は最初、被害者を助けようとしたんでしょう!?」
「…………」
「本当に溺れている人は、映画みたいに叫んだり手を振ったりしません。そんなのは創作の中で勝手に作られたイメージです。実際には声を上げることすら出来ず、近くにいたのに異変に気づかなかったなんてこともあるくらいっス」
「…………」
櫻子の推理を、川流は突っ立ったまま黙って聞いていた。
「アイツは……被害者はわざと溺れているフリをして、田中さんをおびき寄せたんでしょう!? きっとこの湖に、河童が住んでるって知ってたんだ。絶対
「…………」
「単独か、誰かに頼まれたか。アイツは田中さんをおびき寄せて殺すつもりが、返り討ちにあった。きっとそうだよ。田中さんの正当防衛だ。違いまスか……?」
「…………」
櫻子は縋り付くように川流を見上げた。川流はしかし、黙ったままだった。まるでそうであって欲しい、とでも言いたげな櫻子の瞳の奥を、川流もまた河童のように緑色の瞳で見つめ返した。やがて川流がゆっくりと口を開いた。
「さあ……確かに彼は僕に襲いかかってきた。だけど彼はもう死んでしまったし、その口から真実を僕が知ることはない。それに、だったらどう説明する?」
「え……?」
廊下の天井の蛍光灯が、静まり返った二人の頭上でパチパチと鳴った。戸惑う櫻子に、川流は静かに告げた。
「仮に正当防衛だったとしても……僕が彼を殺したことには変わりはない。あの時のことを、窓からみんなが見てたんだ。僕の正体が河童だって、みんなにバラすのかい? 一体それを誰が信じてくれる? それで警察は納得してくれるかな?」
「…………!」
「この湖はね、僕の育った故郷なんだよ」
川流はふと、廊下の窓から覗く湖の方に視線をやった。櫻子もまたそれに釣られて窓の外を見た。
「時代の変化や環境汚染で、河童の住める池や湖は年々減ってきている、って言ったよね。ところで、環境保全ってなんだと思う?」
「え?」
「それは……”外来種”を殺すことさ」
静かに、だがやけにはっきりとした口調でそう告げた川流の横顔。それは、櫻子が先ほど見た湖を語る彼の表情とは打って変わって冷え切ったものだった。
□□□
「河童の住める湖は滅多にない。そこに住む水生生物も、決して強い種ばかりとは限らない。誰かがブラックバスを池にリリースしたせいで、そこにいた在来種を食い尽くしてしまった話を聞いたことはないかい? ヤギを野に放ったせいで、辺りの草木が全て丸裸にされてしまった話は?」
「…………」
「元々生えていた草木が無くなれば、それを餌にしていた昆虫や植物、さらにそれを食べていた鳥や魚だっていなくなってしまう。生態系が変わってしまうんだ。”侵入者”一匹で、あっけなくその場所は住めない場所に変わってしまう。だから……そうなる前に”殺す”」
川流は相変わらず、湖の方を向いたままだった。
「勿論人間的な視点で、批判だってあるだろうさ。そりゃ殺さずに済むんなら、それが一番だよ。だけど”ゴミのポイ捨てをやめよう”だとか、綺麗事だけでは守れないのが”環境”なんだ。その一匹を見逃せば、今までそこで安心して暮らしていた在来種が、瞬く間に絶滅の危機に扮してしまう」
「…………」
川流がようやく櫻子の方を振り返った。櫻子は、その瞳の奥に人ならざる者の影を見た。
「あの男がどんな目的だったとか、何のために、なんてことは僕は知らない。だけど湖に”侵入”して”抵抗”してきたから、”応戦”した。君も天狗だったら分かるだろ?」
「…………」
「君にとってのあの探偵さん。それが僕にとってのこの”湖”なんだ」
「でも……」
しっかりとした口調でそう告げる川流から、櫻子は思わず視線を逸らした。薄壁一枚に仕切られた廊下は、隙間から夜風が入り込んできてかなり冷え込んでいた。どこから湧いて来るかも分からない悔しさをにじませながら、櫻子は声を絞り出した。
「私が……私があの男の正体を突き止めるっスよ。その目的も。だから田中さん……」
「そんなことしたら、あの探偵さんはどうなる? 君は君で、守るべきものがあるハズだ」
「でも……! 田中さんが今捕まったら、この湖はどうなるんスか!?」
「せっかく会えたのに、残念だって気持ちは僕も一緒さ。ありがとう。君もいつか、選ばなくちゃならない日が来るかもしれない」
「え?」
櫻子は顔を上げた。川流の表情は、最初に会った頃の柔らかな顔に戻っていた。それから櫻子が黙って何もできないでいる前で、彼は気絶した警官を引きずり、ゆっくりと歩き出した。
「さようなら、天狗さん。会えて嬉しかったよ」
それ以上、二人が会話を交わすことはなかった。最後に川流が廊下の角を曲がる時、櫻子は彼の瞳とその頭頂部のてっぺんに、ほんの少し光るものを見た気がした……。
《続く》
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