第20話 VS河童②

 旅館の隣にある湖の周りを、櫻子は田中川流かわると二人で歩いていた。外はすっかり暗くなっている。遠く離れた旅館の窓から、四角い形の小さな灯りが見て取れた。湖畔の周りの闇に転々と浮かぶ、橙色だいだいいろ街燈がいとうが二人の足元を円型に照らす。夜風とともに、空に浮かんだ雲がゆったりと流され、近くに茂っていた橅木がざわざわと揺れ動いた。


 湖の淵には安全対策に手すりが備え付けられいて、その周りをぐるりと遊歩道が整備されていた。湖はとても広く、歩いて回るだけで三十分以上はかかりそうだ。遊歩道の外側は橅木ぶなのきが覆っていて、時々姿の見えない獣や鳥の鳴き声が櫻子の耳にも届いてきた。


 櫻子は田中川流の隣を歩きながら、静かに彼の横顔を盗み見た。

 自分のことを『河童』だと明かした川流を、櫻子はまだ信用できずにいた。一体何のために、何が目的で自分の正体を明かしたのか……。仮に彼が本物の『河童』だとしても、見ず知らずの相手に素性を知られることは命取りになりかねない。『天狗』である櫻子は、それを身をもって知っていた。


 それに彼は、櫻子の正体が『天狗』だということも見抜いていた。場合によっては、自分を守るための口封じも辞さない。櫻子は赤いジャージのポケットの中で、密かに爪を尖らせた。


 櫻子の心中を知ってか知らずか、田中川流は湖畔の方を見ながら、彼女に話しかけた。


「いやあ、嬉しいなあ。まさかこんなところで天狗さんに会えるなんてね」

「…………」

「僕はずっとこの湖で育ったんだよ。もう何百年前のことかな」

「フゥン……」

「時代の変化や環境汚染で、河童の住める池や湖は年々減ってきている。ここはもう僕一人になってしまった。天狗そっちはどうだい?」

「…………」


 前を歩いていた川流が、突然立ち止まり櫻子の方を振り返った。歩くたびに夜は深く、辺りは暗く闇に染まっていく。どこかで野生生物の遠吠えが聞こえてきた。櫻子は、川流の河童のような緑色の瞳に、吸い寄せられるように覗き込まれた。


「僕らは人々にとっちゃ空想上の生き物で、自分を大切にしたり、信じてくれる人がいるからまだこうやって存在できてる。だからって無闇矢鱈むやみやたらと素性を明かしたら自分の身が危険だし、これから先もずっとこうしていられる保証なんてどこにもない」

「…………」

「ここに来るときに一緒にいた、あの探偵さん。彼に”そう”信じてもらえたから、君はまだ存在できてる。だから、わざわざ山を降りて身を危険に晒してまでそばにいるわけだ」

「別に……関係ねぇよ」


 櫻子は目線を逸らした。夜風が二人の間を通り過ぎ、深碧しんぺき色の湖の水面を波立たせて行った。どこか歯切れの悪い物言いに、川流はほほ笑んだ。


「彼を大事にしているんだね」

「違ぇって」

「僕だって、同じようなもんさ。君に会えて良かった。じゃあ、行こうか……」

「…………」


 そう言って川流はなんとも言えない不思議な顔を浮かべ、再び歩き出した。本当にただ、同じ異形の存在同士、話がしたかっただけなのだろうか? 少し拍子抜けしたような気分になって、櫻子は肩を落としこっそり爪を引っ込めた。

 櫻子はそれから、広い湖を一周して宿に戻って来るまで、彼が語る水質や魚の生態系の話を聞いた。月明かりに照らされたその嬉しそうな横顔を見て、彼は本当に湖を好きなんだな、と櫻子は思った。


□□□


「どこに行ってたんだい櫻子君! 君がいないから、僕ら二人っきりで王様ゲームをする羽目になったじゃないか。アハハ……」

「こっちにいらっしゃいよ、櫻子さん。今夜は羽目を外しましょ? ウフフ……」

「アハハ……」

「ウフフ……」


 櫻子が川流に別れを告げ、部屋に戻ると、浮かれっぱなしの坂本と美命が浴衣を肌蹴はだけさせ彼女を手招いた。櫻子は二人を無視し、さっさと奥の和室に引っ込み、ぴしゃりと大きな音を立てて障子を閉めた。


「なんだい、櫻子君。あんなに『一人王様ゲーム』が好きだったのに……連れないなあ」


 障子の向こう側から、坂本の拗ねたような声が聞こえてきた。櫻子は電気を消し用意されていた布団の中に潜り込んだ。それから暗闇の中で、隣から聞こえて来る楽しげな声に耳を塞ぎ、先ほどの川流の言葉を頭の中で反芻はんすうした。



 自分を大切にしたり、信じてくれる人がいるからまだこうやって存在できてる。



 櫻子は目を細めた。不思議な気分だった。

 櫻子には今、同じ種族である『天狗』の知り合いはいなかった。川流の言う通り、『天狗』や『河童』のような異形フリークスと言われる存在は表に出てくることはほとんどない。場合によっては心無い人間に発見されたばかりに、迫害され種族ごと根絶してしまうケースもあるからだ。


 かと言って、この現代社会で自分たちが姿を隠して棲める場所は決して多くない。『透明人間』、『幽霊』、『サンタクロース』……彼らのほとんどは櫻子のように人間に擬態しているか、それこそ人目の届かない極寒灼熱の地に身を潜めている。自分の正体を晒して会話できる相手など、櫻子もここ数十年会った記憶が無かった。

「…………」

 素顔を晒せる相手。もしかしたら川流が欲していたのは、そんな存在だったのかもしれない。

 川流との会話は、まだ櫻子の耳の中で木霊していた。布団の中で、櫻子は寝返りを打った。不本意ではあるが、彼女もまた、川流に会えて嬉しかったのだと気が付かされた。



 あの川流ってやつ。

 もし時間があれば、これからもちょくちょくと湖に会いに行ってやろうか。

 時間があればだけど。


 そういえば……。

 

 例えばの話。

 もし、もし坂本に正体がバレたら……。

 坂本は……どうするだろう?

 私、は……。

 


 微睡まどろみの中、閉じた瞼の裏側で彼女はそんなことを思い浮かべていた。


「きゃあああああああああ!!」


 その時だった。

 突然夜の静けさを切り裂いて、宿に女性の叫び声が響き渡った。

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