第10話 VS物理学者③

 それから櫻子は再び箱と奮闘していた。


 加熱。風圧。冷却。磁気。電気。密閉。斜方投射。自由落下。悪態。殴打。念力。自然放置。……だが、彼女がどんなに物理的に刺激を与えても、箱はビクともしなかった。たまに液晶に並べられた数字が揺らめくことはあっても、彼女がそれに気付いて画面を覗き込む頃には、また【35139】に戻っているのだった。数字を弄ろうにも、箱には液晶画面以外、ダイヤルもボタンも何もついていない。とうとう彼女は匙を投げた。


「だあああ! 分かんねえ!」

「貸して」


 櫻子が諦めるのを見て、今度は坂本が小箱を手に取る。そして右手に何やら分厚い本を掲げ、聞いたこともないような呪文をブツブツと唱え始めた。坂本探偵の手に握られた、『宇宙人の黒魔術』と書かれた本の表紙を見て、櫻子が若干顔をしかめた。


「何だそりゃ。『宇宙人』だけでも怪しいのに、そこに『黒魔術』まで乗っけるのかよ」

「シッ。静かに……。この数字に何らかの意味があると思うんだよ。【35139】……み、みご、いさく……」

「『開けゴマ』で開くんなら世話ねーよ」

 櫻子が肩をすくめた。様々な音色や音楽を浴びせる方法なら、彼女も先ほど試していた。


「『そうだ。僕ら、もっと宇宙人の言葉に耳を傾けよう。心を開いて、俗世の邪念を捨てて。彼らの話を素直に聞いてみるんだ』」

「訳わかんねぇこと言ってんじゃねぇぞ」

「きっと、田中さんは宇宙人だったんじゃないかな。いや、あるいは宇宙人が作り出したホログラム。僕らにこのメッセージボックスの謎を解いてもらいたくて、遠い銀河の彼方から彼の映像を送り込んだんだ。だとすればやはり、これはまだ見ぬ宇宙の超科学が成せる技術の結晶体だよ、うん。そう考える方が合理的だ。幽霊なんかよりよっぽど説明がつく……」


 櫻子は無視して、ソファに寝そべってスマホを取り出した。

 念の為に『田中マルクス茂雄』で検索して見たが、あいにく物理学者らしき人物にはヒットしなかった。【35139】の数字の方も、何らかの実験や研究結果が見つかる訳ではなかった。どうやらネットには答えが載ってないようだ。櫻子は舌打ちした。


「答え……何だったっけな。あークソ……坂本テメーのせいで聞きそびれたじゃねえか」

「だったらもう一回聞けばいいじゃないか。彼が今どこにいるのか知らないけど」

「あのなあ……!」


 あっけらかんと言ってのける坂本に、櫻子が起き上がり噛み付こうとして……そこではたと動きを止めた。箱に並べられた数字をじっと見つめる。何かに気がついたように、視線は【35139】に釘付けになったままだ。その様子に、坂本が首をかしげた。


「どうしたの?」

「……そうか。聞きに行きゃいいんだ」

「え?」

「その数字……物理的……。なるほど、そういうことか……」

「何? 何そのもったいぶった言い方。答えが分かったんなら教えてよ」


 坂本が口を尖らせた。櫻子は無視して、赤いジャージの袖を捲し上げた。


「坂本、出かけるぞ!」

「へ? どこへ?」


 探偵ははぽかんと口を開け、思わず窓の外を見やった。窓の下に広がる路地から、時折酔っ払いの笑い声が聞こえて通り過ぎて行く。空はもうすっぽりと夜に覆われていて、ネオンサインの明かりがぼんやりと遠く景色に滲んでいた。櫻子は坂本を掴んで入り口まで引きずっていった。


「あいたたた! 痛い……痛い!! 櫻子君! そこ首だから!! 皮膚だから!!」

「いいから、車出せ」

「こんな夜中に一体どこへ?」

「決まってんだろ。 その数字に書かれてる『場所』にだよ」


 落とさないよう、大事そうに黒い箱を抱える坂本に、櫻子は白い歯を見せて笑った。


□□□


「何なに? 物理的に変化させるって……『移動』させるってこと?」

「ああ。おそらく箱に書かれてある数字。こりゃ『緯度・経度』だ」

「イドって……」


 ハンドルを握りながら、坂本が考え込む仕草を見せた。夜の街を、二人を乗せた軽自動車が走っていく。隣で櫻子が呆れたようにため息をついた。その両手には、例の箱がしっかりと握られている。箱に映し出された数字を睨みながら、彼女は唇を吊り上げた。


「やっぱり。数字も動いてる。【35.681167……】。こっちは【139.767052……】。【35139】は、つまり【北緯35度、東経139度】って意味だ」

「地図になってるの?」

 赤信号になった。運転席から、坂本が目まぐるしく数字が変化する液晶を興味深げに覗き込んだ。

「動くたびに数字が増えていってる。目的地に近づくたびに、数字が正確になっていくんだろうな。きっとこの数字がぴったりと指し示す場所に、この箱を持って行けってことなんだよ。なるほど、数字が『細かく分かれる』って、こういう意味か」

「へええ」

関心したような顔で、坂本が頷いた。


「そういえば、『GPSロック機能』って聞いたことがあるな。箱の中に特殊なアプリが仕込まれていて、特定の場所に行かないと鍵が開かないようになってるんだ。どっかの国で流行ったらしいんだけど……。例えば誕生日プレゼントの箱にそのアプリで鍵をする。そして地図を渡して、『開けるならこの場所に行ってみてください』と、こんな風な贈り方ができるんだよ」

「それと同じようなもんだろうな」

 櫻子が相槌を打ち、細かく分かれて正確になっていく数字をスマホの検索画面に打ち込み始めた。信号が変わり、二人を乗せた自動車が再び動き出した。


「それで、僕らどこに向かってるの?」

「今検索してる」

「そこで田中さんが待ってるのかな? あるいはそこに、彼が宇宙船を停めているのかもしれないな。宇宙にはね、文明のレベルを分類する『カルダシェフ・スケール』っていうのがあって……」

「分かったぞ」


 聞きかじったばかりの宇宙談義が長引く前に、櫻子が坂本の話を遮った。少し哀しそうな表情を浮かべる探偵に、櫻子が検索結果を突き出した。


「ここって……まさか」

 目をパチクリとさせる坂本に、櫻子は頷いた。

「樹海だ」

 

□□□


「はぐれるんじゃねーぞ」

 櫻子はそう言うと、先陣を切って歩き出した。暗い森の中に、スマホの液晶画面が浮かび上がる。マップで位置を随時確認しながら、二人は目的地へと急いだ。


 目的地・富士の樹海が近づくに連れ、箱に書かれた数字はどんどん伸びて行き、やがて一つの座標を正確に指し示した。座標は森の奥深くだったが、ここまで来たら行ってみない訳にはいかない。やがて視界が狭くなり、上空が木々ですっぽりと覆われてしまうところまで、二人はただ黙々と歩いた。スマホの地図がなければ、今自分たちがどこにいるのかさえ分からない。夜の静寂が行進する二人を包んだ。

「……ここ、みたいだな」

 やがて、最早方向感覚すら無くなってしまった頃。森の奥深くまで入り込んでいた二人だったが、ようやく開けた場所に辿り着いた。櫻子は足を止め、後ろをついてきた坂本を振り返った。坂本は頷いて、歩前に進み出ると腕の中に抱えていた小箱を夜空に掲げた。

「あ!」

 すると、黒い箱の蓋がゆっくりと上に開き始めた。二人は顔を見合わせた。

「ビンゴ!」

 急いで中を覗き込むと、そこには何やら複雑な機械のようなものが取り付けられていた。

「これって……」

「オルゴール、か?」

 箱の中にあったのは、複雑な機械の集合体だった。小箱の中で、突起物だらけの小さな金属片が軋みを上げて回転し始める。独特の音楽を奏で始めた小箱を、坂本が吸い込まれるように見つめていた。どこかで聞いたことがあるような、哀愁漂うメロディ。静かな森の中に、箱から放たれた金属の旋律が小さく木霊した。しばらく二人は、無言でその箱から奏でられる音楽に聞き入っていた。


「ありがとうございマース……」

「うおぉッ!?」


 不意に背後から、突如青白い幽霊が現れた。田中だ。オルゴールに見入っていた櫻子は飛び上がった。依頼主は遠い目をしながら、二人に握手を求めた。尻餅をつきながら、櫻子が悪態をついた。


「テメー! びっくりするじゃねえか!」

「よくぞ、私の遺した暗号ヲ解いていただきマシタ。これで私も安心シテ向こうに行けマス」

「ふざけんじゃねーぞ。散々振り回しやがって」

「田中さん。これは……?」


 坂本が手のひらの中のオルゴールを差し出した。田中は徐々に半透明になりながら、上へ上へと登っていくところだった。旋律に包まれながら、彼が恍惚とした表情でうっすら頷いた。


「ソレは、私の思い出の曲なんデス。若い頃、中々研究が評価されナイ時に、それを聞いて必死に自分を励ましていマシタ。予算もナク、人手もナク……何度暗礁に乗り上げ、投げ出しそうになっタコトか……」

「この場所は?」

「私はね、ココデ死んだんデスヨ。実験に失敗し……行き詰まって、プレッシャーに耐えきれず逃げ出すヨウニここに辿り着いた」

 田中が少々バツが悪そうに目を背けた。

「結局研究は日の目を見ることはアリマせんデシタ。音楽と医療を何とか結びツケて、人の心を癒す研究……無駄にはしたくナカッタ」

「待ってください、田中さん。あなたは……」

「道半ばでシタガ、それでもココマデ続けてきたコトが、今では私の誇りデス。最後に聴く曲は、それにしようと心に決めていたんデス。 ……アリガトウ、ミスター探偵。それからテングのお嬢サン……」


 そう言いながら、物理学者の幽霊はにっこりとほほ笑んで星空の彼方へと姿を消した。それっきり、田中が再び姿を表すことはなかった。事務所とは違い、ここからは星が瞬いて見える。静かに鳴り響く哀しいメロディを抱えて、坂本がポツリとつぶやいた。


「……行っちゃった。真面目な人だったんだね」

「どうだか。そんな奴がわざわざこんな手の込んだ仕掛け作るかよ」

 櫻子が心底眠たそうに欠伸を噛み殺した。

「あ……流れ星だ」


 坂本が夜空を指差した。木々の隙間、右から左へと、星の溢れた空のキャンバスに一筋の白い線が伸びていった。


「田中さんは、ああは言ったけど。僕の心にはこうしてちゃんと届いたよ。きっと数年後か、数十年後か、田中さんが辿った研究の道のりを、別の誰かが見つけて同じように歩む日がくるかもしれない」

「…………」

 オルゴールが探偵の腕の中で軋んだ。坂本は、じっと流れ星の消えて行った先を目で追いかけていた。


「そうやって、どんどん新しい技術や理論で研究が更新されて行けば、きっとその先に田中さんが望んだ未来が待っていると思う。たとえ道半ばだったとしても、そうやって誰かに夢を託すことができれば、それは決して無駄じゃないんじゃないかな……」

 坂本はぽつりとそう呟いた。


「さあ、僕らも帰ろう」

 探偵は小さく息を吐き出して、体を解すように星空に向けて伸びをした。

「僕は今日、嗚呼、とても感銘を受けた。宇宙人からではなく、一人の人間に。田中さんに。夢中になれることの素晴らしさに! 探偵業、頑張らなくっちゃね。ここで僕らが倒れたら、後からやって来た誰かに笑われてしまう。なぁに、大丈夫。僕ら二人なら、道に迷うことなんて無いさ。たとえ迷子になっても……ってあれ?」

 坂本が振り返った。

 いつの間にか、櫻子の姿が無くなっていた。辺りには誰もいない。暗闇が彼を包んでいた。


「櫻子君! 櫻子くーん!?」

 坂本が慌てて叫んだ。返事はない。夜の樹海の真ん真ん中で、音のなる小箱だけが彼の手の中に残された。


「迷子になってしまうぞ! 僕が! いいのか!? 櫻子君! 戻ってきてくれ! おーい!」


 星が瞬いた。

 ”一人語り”を始めた坂本を置いて、櫻子は眠たい目を擦り、さっさと事務所へと戻って行くのだった。



《続く》

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