第9話 VS物理学者②
「こんばんワ」
「ぶホァッ!?」
櫻子が再びソファに寝っ転がっていると、事務所の壁の向こうから突然白衣の男がにゅっと顔を突き出してきた。櫻子は口から大量の清涼飲料水を噴射し、危うくソファから転がり落ちそうになった。
「だ……誰だテメーは!?」
「初めまシテ。私この間死んだ、物理学者の田中マルクス茂雄、と申しマス」
「物理学者だと?」
壁を貫通してやって来た来訪者に、櫻子は警戒心を剥き出しにして応対した。
坂本探偵事務所は、雑居ビルの二階にある。いきなりビルの二階まで空中浮遊して来て、壁を通り抜けてくる客なんて、明らかに常人ではない。突如現れた半透明の男は、ぼんやりと青白い火の玉を体の周りに漂わせ、深々と頭を下げた。不意打ちを食らった櫻子が、顔を滴る水を袖で拭いながら悪態をついた。
「物理学者が物理法則無視してんじゃねーよ」
「失礼。この探偵事務所に、私の遺した『箱』が届けられタと聞いたのデスが」
「箱?」
壁から入ってきた男は御構い無しに櫻子に笑いかけた。ようやく落ち着きを取り戻した櫻子は、改めて来客者を見上げた。身長は、一八〇センチはありそうだ。ドッシリとした体型に白衣を纏い、欧米人の様な彫りの深い顔立ちをしている。何より男の皮膚はなぜか半透明で、青白く輝いていた。男はやたらと首を伸ばし、キョロキョロと事務所の中を伺っていたが、やがて坂本が持って来た例の怪しげな『箱』を机の上に見つけると、嬉しそうに駆け寄っていった。
「ワーオ!」
机の角に彼の体が半分突き刺さっているのを見て、櫻子はいよいよ身構えた。
「ありがとうございマス! 早速私の遺した謎に挑戦してくれてるんですネ!!」
「ちょっと待て。アンタは一体誰なんだ?」
「失礼。改めまシテ、私は田中マルクス茂雄。ついこの間実験に失敗して命を落とした、物理学者の幽霊デース」
「物理学者の幽霊って……」
そんな者が果たして存在してもいいのだろうか?
櫻子の頭を素朴な疑問が過ぎった。念のため、幻覚でないかどうか二、三度頬を抓ってみる。どうやら夢ではなさそうなので、彼女は青い火の玉を漂わせる学者の幽霊に尋ねた。
「幽霊が、探偵事務所に一体何の用だ?」
「幽霊を見ても驚かナイ。……アナタ、まともな人間じゃありまセンネ?」
男がピタリと動きを止め、眼鏡の奥の瞳を青く光らせた。天狗少女はまだ警戒心を解かずに、彼が大事そうに抱えていた『箱』を指差した。
「その箱は、アンタの?」
「ええ。この謎こそ、私の生涯の集大成。私は、学んだ物理学ノ知識を生かしテ、ちょっとシタ暗号付きの『箱』を作ったのデス!!」
嬉しそうにそう言うと、彼は両手をいっぱいに伸ばして箱を天井に掲げた。
「イツか誰かが私ノ箱ノ謎ヲ解いてくれるダロうと、死んダ後もズっと楽しみしていまシタ。サア!! ミスター探偵は一体どうやっテ私の謎を解いてくれるンデスか!? お手並み拝見トいこうじゃアりマセンか!」
「あー……なるほど。そういうことか」
「?」
櫻子はぽりぽりと後ろ髪を掻いた。どうやらさっき坂本がもらってきた箱は、この自称物理学者の幽霊の遺品だったらしい。
男の言うところによると、この箱に物理の力を駆使したとある『暗号』を仕掛けた。『開けられる物なら開けてみろ』と、こういうことのようだ。
「悪ぃけど、ウチの大将は勘違いしてるみたいだな……」
「ドウイウことですカ?」
不思議そうに首をひねる白髪混じりの物理学者に、櫻子は申し訳なさそうに事情を説明し始めた。
□□□
「なんでスッテ!? 宇宙人!?」
櫻子の説明に、田中が素っ頓狂な声を上げた。
窓の外は、もうすっかり暗くなっている。机の上の赤いランプが、洗面器に貯められた清涼飲料水を照らして揺らめいた。
「ああ。宇宙人のメッセージに違いないって、坂本なら買い物に出かけたぞ」
「F××K! 宇宙人なンテいるわけないでしょう!」
「……幽霊のアンタに言われると、どうもな」
「セッカク、生涯最後の謎をこの箱に遺したノニ! ちゃんと解いてくれナイト、私、無事に天国にイケマセン!!」
憔悴した表情の彼は、青白い火の玉を周囲に撒き散らし、ジーザスと呟いた。天を仰ぐ男に、櫻子も少し困った顔で眉を吊り上げた。
「つってもな、勝手に送り込まれてきても……」
「お嬢サン、あなたナラ解けるでショウ!? 物理の力を使って、この箱を開けてミテくだサイ!」
「えー……やだよ。私勉強苦手だし。物理なんて知ったこっちゃねーよ」
「!?」
天狗な女子高生が気怠そうに断った。これに慌てたのは、男の方だ。
「ノー! 物理学は大切デスヨ! 電子レンジも、半導体も、人工衛星も、ミンナ物理の力を応用シテ……」
「難しすぎてよくわかんねーんだよ」
「ノー! 簡単デース! この箱に書いてアル数字を、ドウニカすレば開くンデス!」
「どうにかって?」
田中マルクス茂雄は箱に取り付けられた液晶を指差した。
「この数字を物理的な力で『変化』させて、ナントカ開けて見てくだサイ」
「物理的な力?」
田中が得意げな笑みを浮かべ頷いた。どうやら帰る気配もない。櫻子は諦めて箱を覗き込んだ。手にとって軽く振って見ても、中からカサカサと小さな音が聞こえるだけで、数字が変化したりはしなかった。
「んー? 『物理』ってことは……。熱とか、水圧とか、そういうことか?」
数少ない起きていた時の授業中の記憶を呼び起こしながら、彼女は箱を水の貯まった洗面器につけようとした。学者幽霊が慌ててそれを制した。
「ダメダメ! そんなことしちゃダメ!! 中身が壊れチャウ!!」
「中身ぃ?」
「ええ。中身が確認できタラ、私が成仏できるようになってマス」
「盛り塩でも入ってんのか?」
「ンフフフフ……それは秘密」
「しょうがねぇ。叩き壊してみるか」
「ヤメテ!」
箱を地面に叩き付けようとする櫻子を見て、田中が悲痛な声を上げた。
それからしばらく、櫻子は男が持ってきた謎の箱と格闘した。風を当ててみたり。氷で冷やしてみたり。ライターで炙ってみたり。だが、いつまでたっても何をやっても、数字は一向に変化しなかった。物理の成績が決してよろしくない櫻子は、とうとう叫んだ。
「もー! めんどくせぇ! アンタが自分で解けよ」
「ええっ!?」
櫻子はソファに寝っ転がり、ぽいっと箱を放り出した。田中がそれを慌てて空中でキャッチした。
「私、せっかく作ったノニ……。私が解くんデスカ?」
学者幽霊がひどくがっかりとした顔を見せた。櫻子は不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「だって、開かねーんだもん。大体、この数字をどうすればいいんだよ。ゼロにすりゃいいのか、パスワードみたいに揃えればいいのか……」
「それは……。最終的ニは増えるとイウカ、細かく分かれるとイウカ……」
「ハァ……? どうやって?」
「それ言ったら、もう答えじゃないデスか……」
田中が少し悲しそうに櫻子を見つめた。櫻子は無言の圧力で物理学者に先を促した。
「わ、分かりましたよ……そんな目で睨まないでクダサイ。ヒント! ヒントあげますから!」
「…………」
「ああっ! 分かりました! 答え! 答え言いマス!! 答えは【354778950349639……】」
「多いなオイ! 一体何の数字だそれ?」
櫻子が目を丸くした。物理学者はにっこりとほほ笑んだ。
「ンフフフフ。コレは……」
「ただいまァ!」
すると、突然事務所の扉が開かれ、帰宅した坂本の声が部屋中に響き渡った。
「さあ櫻子君! 宇宙人は来てくれたかな!? 僕はねぇ、たった今宇宙でも食べれる非常食を買って来たばかりなんだよ。
部屋にいた先客に目が止まると、坂本は驚いて持っていた買い物袋を落とした。
「その方は?」
「田中サンだとよ」
「オー! ミスター探偵!」
半透明の物理学者が、坂本に握手を求め手を伸ばした。
「お会いデキてコウエイデース!」
「どうも……」
「残念だったな坂本。この人、その箱の持ち主なんだってよ」
「え? この箱の? この箱は宇宙からの落し物じゃないの?」
「ノー! それは私のデース!」
坂本が箱に目をやった。箱は田中の手の中で、五桁の数字を液晶画面に光らせていた。
「私が最後に遺シタ箱の暗号。さあ、是非解いて見てクダサイ!」
「最後?」
「この人、死んだんだとよ。幽霊なんだって」
「え……」
坂本がピタリと固まった。田中マルクス茂雄が白い歯を見せて両手を広げた。
「ええ。私は確かにこの間亡くなりマシタ。この箱は、私が物理学者とシテ生涯をかけて……」
「そ……」
「……作ったンですよ。一見、鍵穴もなく、ドコカラモ開けられないヨウニ見えます。でも、ミスター探偵。ヨーク考えて。物理学の力を持ってスレば、無意味な羅列に見エルこの数字も……どうされました? ミスター?」
ふと、学者幽霊は固まったままの坂本に気がついて首をかしげた。坂本は目を丸くして、あらん限りの大声で叫んだ。
「そんなバカな! 幽霊なんているわけない!!」
「落ち着けよ。目の前にいるんだから」
「そうデスヨ。私が幽霊の田中デス」
田中が再び握手を求めた。坂本は全力で首を振った。
「嘘だ!」
「嘘って……」
「幽霊なんて、この世にいるわけないじゃないか! 僕は信じないぞ!」
「じゃあこれは何なんだよ」
「トリックだ! 巧妙なトリックで、みんなで僕を騙そうとしてるんだ!」
「あんだけ宇宙人やら天狗やら信じてたくせに……。都合のいい野郎だな……」
「困りましタね……」
頑なに幽霊の存在を信じようとしない坂本に、田中は眉をひそめた。櫻子は半狂乱になる坂本を尻目に、田中に提案してみた。
「田中。坂本になんかこう……”幽霊っぽいこと”を見せてあげたらどうだ?」
「仕方ありマセンね……そうですね、分かりました。コウなったら。えいっ!」
「うわあ!?」
「おおっ!?」
掛け声とともに、田中は突如姿を消した。
「消えた……!」
坂本がその場に立ち尽くし、息を飲んだ。白衣の男が幽霊のように消え去るのを目の当たりにして、櫻子が肩をすくめた。
「これで分かったろ? あの人は幽霊だったってさ」
「……ち」
「え?」
櫻子は坂本を覗き込んだ。彼の顔が、恐怖に歪みわなわなと震えていた。
「違う! これも、何らかの物質消失トリックが使われたんだ! そうに違いない!」
「普段は頭御花畑なのに、何でそんなに頑ななの?」
「巨大な鏡とか……錯視を利用したんだ。物理の力……。そうだ……きっとそう……」
「何なんだこいつ……」
坂本は田中が消えてしまった場所で、見えない何かに触れようと必死に手をバタつかせた。
櫻子は呆れた顔で探偵から視線を外し、再び箱を手に取った。物理学者の遺した箱。液晶に浮かぶ数字は、相変わらず五桁のままだった。
物理学。
ここに並べられた数字を動かすために、一体何をすればいいと言うのだろうか?
消える前に、彼が櫻子に教えた答え。そもそもこの箱に何をどうやったら、あんなに大きな数字になってしまうのか……。
「あ!」
消えた箱の持ち主を探し、なおも滑稽な動きを続ける坂本に、櫻子が叫んだ。
「テメー坂本! 答え、聞きそびれたじゃねえか!!」
「ああっ」
櫻子が怒りに任せドロップキックを繰り出した。物理法則に則って、坂本は鳩尾を抑えその場に崩れ落ちた。
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