第2話 VS天狗②
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長年連れ添った田中の妻が亡くなったのは、約三年前のことだった。
彼女が入院していたその時の主治医が佐々木、手術を執刀したのが近藤だった。二人の若き医師たちは、妻の治療に最善を尽くしてくれたのだと、数ヶ月前まで田中もそう思っていた。
「賭けだったんだ」
そう、あの日、その言葉を聞くまでは。
たまたま出向いた場末のバーで、二人はひどく酒に酔っていた。恐らく喋っている相手が担当した患者の家族だということにすら、気付いていなかっただろう。
「僕ぁ彼女の自然治癒力に賭けた。あえて薬などは与えなかったんだ。”実験”みたいなもんさ……。賭けの結果はどうなったかって? ……残念ながら、僕のぼろ負けさ!」
佐々木は贔屓のチームのプロ野球の結果みたいに、さらっとそう言ってのけた。田中の目の前で、二人は楽しい出来事を思い出したかのように大きく笑った。その様子に、田中は台の下で妻の遺した思い出のペンダントを血が滲むほど力強く握りしめていた。復讐に燃える黒い炎が、音を立てて彼の心を飲み込んでいったー……。
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「……二人とも、準備はよろしいですか?」
宿泊スペースのすぐ隣、通称”天狗塔”と呼ばれる塔の入り口で、田中は探偵と少女を振り返った。
坂本はまだ恐怖を拭い切れていないのか、小刻みに震えながら苦悶の表情で塔の天辺を見上げていた。悠に数十メートルはあろうかというその塔は、階段も窓も一切取り付けられていない、木製の古い建築物だった。
元々はここに、従業員用の仮眠室や倉庫などが作られる予定だったが、予算が足りなくなって断念したという話だ。黒く塗り固められた外観と、中身を作られないまま建築途中で打ち捨てられたその異様な姿。それがこの地域特有の天狗伝説と相まって、今では畏敬の念を込めて”天狗塔”と呼ばれるようになったのだという。
「あんな高いところに……。犯人は一体どうやって……」
同じく上を見上げていた櫻子が田中に視線を戻し、不思議そうに首をかしげた。
それから彼女は、空中で何やら紐と紐を結びつけるようなジェスチャーをしてみせた。
「こうやってロープの先に釣り糸か何かを結んで……釣り糸を天井付近の柱に通して滑車の要領で死体を持ち上げた、とか?」
櫻子の推理に、坂本が隣で何故か勝ち誇ったように笑いだした。
「ありえないよ。だって、天井付近には紐を通すような柱がどこにもない! 大体、釣り糸の先に石か何かを結びつけて垂直に投げたとしても、それから後はどうする? 天井に着いた死体を、どうやって固定するって言うんだい? ……ありえないよ!」
「うるせェなァ……じゃあ、オメーも別の案出せよ。探偵らしいやつをよォ」
少し顔を赤らめながら、櫻子が坂本の尻を思い切り蹴り上げる。坂本が声を上ずらせた。
「そ、そりゃ、僕も考えたさ……。大量の水を塔の中に流し込んで、浮き輪に乗って死体を天井まで運ぶとか……」
「何だよ浮き輪って。バカじゃねえの。大体塔は木造だから、そんなことしたら隙間から……バカじゃねえの」
「そうだね……。そもそも天狗が水の中を泳ぐという話を、僕も聞いたことがない。いや、もしかしたら僕が聞いたことがないだけで、本当は泳げるのかもしれない。だけど待ってくれ。翼が生えてるって言うのに、何故天狗はわざわざ泳ぐ必要が……?」
「ダメだこいつ。会話になんねえ」
「中にどうぞ」
このままでは、埒が明かない。なおも低次元の言い争いを続ける二人を制して、田中はゆっくりと目の前の扉を開けた。
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「あ!」
「ば……馬鹿な!」
田中に促され、二人が薄暗い天井を見上げると、床から離れた遥か上空の、天井付近に丸められた布団がぶら下がっていた。地上からはどう頑張っても手が届かない数メートルの高さに、死体に見立てられた布団が確かにある。まるで翼の生えた異形の生き物が、天高く舞い上がりそこに布団を縛りつけたように……。櫻子が目を丸くして田中を振り返った。
「ホントだ! 天井にぶら下がってる! でも、一体どうやって……?」
「分かったぞ! た……田中さんが天狗だったんだ!」
「違います」
腰を抜かす坂本を尻目に、田中は懐中電灯を取り出した。
一直線に伸びた光を布団の方向へと向ける。
「鏡なんですよ、鏡」
「か……鏡?」
光に反射して、天井がキラリと輝いた。
「ええ。鏡を天井付近に四五度の角度で設置して……。今お二人の目に映っているのは、隣接した旅館の風景です。五階に行きましょう。”空中浮遊”の仕掛けをご覧に入れますよ」
「仕掛けだって?」
坂本が上空に伸びる光の先端を追って目を細めた。
田中は二人を連れ立って旅館に戻った。五階に辿り着くと……廊下の突き当たり……塔と旅館を隔てる壁に、よく見ると何やら板のようなものが置いてあるのが見えた。田中が持っていた懐中電灯をそちらに向けた。
「これは……!」
大掛かりな仕掛けを目の前にして、櫻子が息を飲んだ。
「向こう側に、死体に見立てた布団が置いてあります。天狗塔の天井付近に当たる五階の壁を、切り抜いたんですよ。そして天井に鏡を設置しておいたのです」
「!!」
二人が急いで板の向こうに回り込んだ。
旅館と塔の間……老朽化した板一枚で隔てられていたそこに、四角く切り取られた大きな穴が空いている。穴の向こうは塔の天井付近と隣接しており、そこから覗くと下の階からでは薄暗く見えずらかった天井の様子がよく分かった。
犯人の田中の言う通り、天井付近に巨大な鏡が設置されている。五階の突き当たりの穴から見た鏡には、”天狗塔”の床の部分が映し出されていた。
それから櫻子は、今度は壁に見立てられていた板を振り返った。
こちらは、まるで忍者屋敷の回転扉だ。廊下側から見ると壁に見え、その裏には布団が括り付けられている。
これを塔の下から見上げると、天体望遠鏡を覗き込むかのように、天井に設置された鏡と開けられた穴によって、視点が反射して板の裏側の布団(死体)が見えるようになっている。
鏡の反射を利用したトリック。
自分達が天井だと思い込んでいたものは、実は隣接した旅館の五階の部分だったのだ。
「そ……そんな」
坂本が思わず叫んだ。
「そんな単純な!!」
「ええ。だから言ったでしょう。これが天狗の正体ですよ。僕は空を飛んだんじゃない。隣の壁に穴を開けて、そこに死体を運んだだけです。板を回転させれば、わざわざ天井まで飛びあがらなくても、簡単に死体は消える」
田中が頷いた。
下からちょうどおかしくない角度で死体が鏡に映るように、実際にはかなり練習を費やした。目撃者の立ち位置を工夫するために、塔の床に障害物を配置して見破られる角度に入り込まれないようにしたり……。
「でも……天狗に見立てて、死体をわざわざ私達に見せつけたのは何故っスか?」
五階から穴を覗き込んでいた櫻子が、不思議そうに田中を振り返った。彼は肩をすくめた。
「近藤を脅すためさ……。だけど、もし死体に触られて、自分が犯人だという証拠を掴まれてはまずかった。私は殺しのプロじゃないからね」
毛髪やら体液やら、どうしても目に見えない細かな証拠は残ってしまう……だったらいっそ、それを消そうを躍起になるより死体の方を手が届かないところに追いやってしまえばいい。そう言って田中は自虐的な笑みを浮かべた。
「……隠した二人の死体は、近くの山の中腹に埋めてあります。さあ、私を警察に突き出してください。お二人に話すことはもうありません」
そう言って、田中は深いため息をついた。
洗いざらい罪を告白したその表情には、どこか清々しいものさえ感じられた。やがて彼は緊張の糸が解けてしまったように、その場にずるずるとしゃがみ込んだ。坂本も何故か同じようにずるずるとしゃがみ込んで、信じられない、といった目で田中を見た。
「まさか、天狗が……鏡を使うだなんて……!」
「違ぇよ!」
櫻子が苛立った口調で坂本を詰った。
「田中さんは天狗じゃないから鏡を使ったんだよ。いい加減天狗から離れろよ! この世に天狗なんていねェーよ!!」
そのやりとりに、田中は思わず苦笑した。
……全く、殺人犯が目の前にいると言うのに、どこか緊張感のない二人だ。
復讐なんて企てる私もおかしいが、この探偵も相当だ。まさか自分の考え抜いたトリックを、自分で解く羽目になろうとは思いもしなかった。こんな二人を解決役に選んだのが、そもそもの間違いだったのかもしれない。
だけど、何故だろう。不思議と悪い気はしなかった。
自分の罪を、認める覚悟ができたからだろうか?
田中は肩の荷が下りたように、息をふうっと吐き出した。
「……そんなはずはない。僕は確かに見たんだ! 一人目の犠牲者が出たあの夜。泊まっていた部屋の窓から、空を颯爽と駆け抜ける天狗の姿を……!」
「犯人が自白した後で、そんなこと言われても……」
それから警察が来るまでの間、田中はしばらく目を伏せたまま二人の会話に付き合うのだった。
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「あの探偵だが……」
「んん?」
あれからしばらく経った後。
田中は自分が借りていた五階の部屋で、警察の到着を待っていた。彼は体を縛られたまま、至近距離で自分の顔をじっと見つめ続ける少女に尋ねた。
「大丈夫なのかい? その……普段はちゃんと事件解決できてるの?」
「あー」
櫻子が窓辺に映る深い夜の景色を背に、小さくため息をついた。そのため息が、全てを物語っていた。
「大丈夫では、ないっスねえ……。大体いつも、どんな事件が起きたって気付きゃしないんだから」
「面白い人だね……本気で天狗がいるって信じてるのかな」
「信じてるっていうか……信じたいんでしょ。バカだから。そういうオカルトの類がいて欲しいんスよ、あいつの脳内には」
櫻子の言い草に、田中は思わず乾いた笑みを零してしまう。
「おおぃ! 櫻子くん! どこだい!?」
「お。警察が到着したんかな……」
すると、噂をすればなんとやらで、下の方から探偵が叫ぶ声が五階まで届いた。捕まえた犯人をヤンキー座りでずっと見張っていた櫻子が、ようやく田中から目を逸らし顔を上げる。彼女は窓まで駆け寄ると、身を乗り出して下を覗き込んだ。全身をロープで縛られ、床に寝転がされた田中は勿論身動き一つ取れない。黙って二人の会話に耳を澄ませた。
「おおい! こっちだ! 警察が来たぞ!」
「向こう側か……」
櫻子が部屋の方を振り返り、舌打ちをした。そして、一度拘束された田中の元へと近づくと、金属バットを肩に担ぎながら彼の顔の前でしゃがみ込んだ。
「んじゃ、ちょっと離れます。逃げないでくださいね……田中さん」
「ふ……そんな気はさらさら無いよ」
櫻子が鋭い目つきで田中をじっと見据えて笑った。彼もまた穏やかな笑みを返し、護身用の金属バットを構えた女子高生を見上げた。事実、彼には最早抵抗の意思など微塵も残っていなかった。今更自首したことに後悔はない。念のためにと用意された見張りや拘束具ですら、今の彼には必要のない代物だった。
「おおい! 天狗君! 天狗櫻子くんったら!」
「?」
「わァーッたよ! 今いく! ったく……苗字で気づけよ!」
「!」
何かが気になって、田中は首をかしげた。名前を呼ばれた彼女は、苛立った様子で下からの呼び声に毒づいた。そのまま彼女はバットを放り出し、一直線に入り口とは逆方向に向かって駆け出した。
「お、おい! そっちは……!」
少女が飛び出していこうとしているのは、窓だった。五階の窓だ。田中は床に身を投げ出されたまま、思わず声を張り上げた。
「飛び降りる気か……!?」
だが次の瞬間、田中は声を失った。
彼の見間違いでなければ、彼女は……”天狗”櫻子は確かに……窓枠に切り取られた宵闇に背中から漆黒の”羽”を広げ、そして”上方向”へと羽ばたいていったのである。
《続く》
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